君が思い出になる前に

 その週の金曜日。

 葵は仕事を終えると、会社のエントランスでスマートフォンを確認した。

 今日は久しぶりに、早く帰れそうだった。

 以前なら、金曜日の夜は悠真と会うことが多かった。

 仕事終わりに待ち合わせをして、どちらからともなく「何食べる?」と聞く。

 特別な予定なんてなくても、それだけで一週間が終わった気がした。

 けれど今は。

 葵はスマートフォンをしまった。

 今日は一人で帰る。

 そう思って歩き出したところで、後ろから声をかけられた。

「高橋さん、今日このあと予定あります?」

 振り返ると、同じ部署の美穂が立っていた。

「ううん。特にないけど」

「じゃあ、よかったらご飯行きません? 新しくできたお店があるんです」

 葵は少し迷った。

 以前なら、金曜日の夜に誘われても断っていた。

 悠真と会う予定があるから。

 でも今は、その予定はない。

「うん。行こうかな」

「ほんとですか? じゃあ行きましょう」

 二人で会社を出る。

 駅へ向かう途中、美穂が何気なく尋ねた。

「そういえば高橋さん、最近彼氏さんと会ってないんですか?」

「え?」

「前は金曜日になると、すぐ帰ってましたよね」

 葵は一瞬、言葉に詰まった。

「……彼、今ちょっと遠くにいるの」

「そうなんですか?」

「うん。実家に戻ったの」

「じゃあ遠距離?」

「……たぶん」

 答えてから、葵自身がその言葉に引っかかった。

 たぶん。

 自分たちは恋人だ。

 悠真もそう言った。

 なのに、どうしてこんなに曖昧なのだろう。

「大丈夫ですよ。今は電話とかビデオ通話もあるし」

 美穂が笑う。

「そうだね」

 葵も笑った。

 けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。

 店に着き、二人で食事をする。

 仕事の話。

 最近見た映画の話。

 休日の過ごし方。

 くだらない話をして笑っているうちに、葵の緊張も少しずつほどけていった。

「高橋さんって、休日何してるんですか?」

「え?」

「いつも忙しそうだから」

「最近は……特に決めてないかな」

「彼氏さんとは?」

「……今は会えないから」

 また、その言葉が胸に刺さった。

 会えない。

 それはただ距離があるというだけなのに。

 以前なら、会いたいと思えば会えた。

 仕事が終わってからでも、少しだけ顔を見ることができた。

 コンビニに寄るだけでも、一緒に歩けた。

 今は、それができない。

「高橋さん?」

「あ、ごめん」

 美穂が心配そうにこちらを見る。

「ちょっとぼーっとしてた」

「疲れてます?」

「ううん。大丈夫」

 葵は笑った。

 店を出たあと、美穂と駅で別れる。

「じゃあ、また月曜日」

「うん。今日はありがとう」

 一人になった葵は、駅のホームで電車を待った。

 ふと、向かい側のホームを見る。

 カップルらしい二人が並んでいた。

 女性が何かを話し、男性が笑っている。

 それだけの光景だった。

 なのに、葵は目を逸らした。

 スマートフォンを取り出す。

 悠真とのトーク画面を開く。

 最後のやり取りは昨日の夜だった。

『明日も仕事?』

『うん。そっちは?』

『午前中だけ。午後は父さんの病院に付き添う』

 そこから、葵は何も送っていない。

 悠真からも来ていない。

 葵は画面を閉じた。

 電車が到着する。

 車内の窓に映った自分の顔を見つめながら、葵は思った。

 遠距離になったから、会えなくなった。

 だから寂しい。

 それだけだと思っていた。

 でも、本当にそうなのだろうか。

 電車が走り出す。

 窓の外の景色が流れていく。

 葵はふと、悠真と最後に一緒に乗った電車を思い出した。

 引っ越しの日。

 駅のホームで、悠真を見送った。

 あのときは、また会えると思っていた。

 だから泣かなかった。

 だから笑って手を振った。

 けれど。

 あの日から、自分の中で何かが変わった気がする。

 葵は膝の上で手を握った。

「……会いたいな」

 思わず口からこぼれた。

 それは、久しぶりに自分から認めた気持ちだった。

 会いたい。

 悠真に会いたい。

 ただ声を聞くだけではなく、隣に座って、顔を見て話したい。

 そう思った瞬間。

 スマートフォンが震えた。

 画面を見る。

 悠真からだった。

『今週もお疲れさま』

 たった一言。

 葵はしばらくその文字を見つめた。

 それから、ゆっくり返信を打つ。

『悠真もお疲れさま』

 一度送信してから、もう一度画面を開く。

 そして、少し迷ったあと。

『……会いたいな』

 その四文字を打った。

 送信ボタンの上で、指が止まる。

 これを送ったら、何かが変わる気がした。

 葵は迷った末、そのまま送信した。

 既読がつく。

 すぐには返信が来なかった。

 葵はスマートフォンを握ったまま、窓の外を見る。

 夜の街が流れていく。

 しばらくして。

 画面が光った。

『俺も』

 短い返信だった。

 葵の胸が、少しだけ痛んだ。

 嬉しいはずなのに。

 なぜか、涙が出そうになった。

 そしてその夜、葵は初めて思った。

 会えない距離になったからこそ。

 二人が本当に何を望んでいるのかを、これから考えなければならないのかもしれない、と。