君が思い出になる前に

 翌日の昼休み。

 葵はスマートフォンを確認した。

 悠真からメッセージが届いていた。

『おはよう。昨日はちゃんと眠れた?』

 たった一行のメッセージなのに、葵の胸が少しだけ軽くなる。

『おはよう。眠れたよ。悠真は?』

 送ってから、数分もしないうちに返信が来た。

『俺も。こっちは朝から荷物の整理してた』

『まだ片づいてないんだ』

『全然。段ボールだらけ』

 そのやり取りに、葵は思わず笑った。

 以前と同じような会話だった。

 ほんの少しだけ安心する。

 けれど、そこで会話は途切れた。

 葵は画面を見つめる。

 以前なら、このあとも何かしら話が続いていた。

 今日の仕事のこと。

 帰りに何を食べるか。

 週末はどうするか。

 そんな、とりとめのない話を何時間でもしていた。

 今は違う。

 話題がなくなったわけではない。

 ただ、二人とも次の言葉を探しているような、不思議な間がある。

 葵はスマートフォンを置いた。

 午後の仕事が始まる。

 その日はプレゼン資料の修正が続き、気づけば夜になっていた。

 帰宅して着替えたところで、スマートフォンが鳴る。

 悠真からだった。

『今、電話しても大丈夫?』

 葵の顔がほころぶ。

『うん。大丈夫』

 すぐに着信が入った。

「もしもし?」

『もしもし』

 聞き慣れた声。

 それだけで、葵は少し安心した。

「今日どうだった?」

『朝から荷物の整理してた。父さんの部屋の片づけも手伝ってたから、結構疲れたよ』

「そっか。お父さんは?」

『今日は少し調子いいみたい』

「よかった」

『うん』

 会話が続く。

 声を聞いていると、距離なんてないような気がした。

 葵はソファに座りながら、少しだけ笑った。

「なんか、不思議」

『何が?』

「こうやって電話してると、昨日までと何も変わらないみたい」

 電話の向こうで、悠真が黙った。

 ほんの数秒だった。

 けれど、葵には長く感じられた。

『……そうだね』

 悠真の声は、少しだけ静かだった。

「遠距離って、思ってたより普通かも」

『そうかな』

「うん。毎日電話すればいいし」

 葵は明るく言った。

「休みが合えば会いに行けばいいし。新幹線だってあるし」

『……うん』

「だから、大丈夫だよね」

 今度は、少し長い沈黙。

 葵は笑顔のまま、窓の外を見る。

「悠真?」

『うん』

「どうしたの?」

『いや……』

 悠真が小さく息を吐く。

『葵は、そう思ってるんだなって』

「え?」

『何でもない』

 葵の胸に、引っかかるものが残った。

「何でもなくないでしょ」

『……ごめん』

「謝らなくていいけど」

 しばらく二人とも黙っていた。

 以前なら、沈黙も気にならなかった。

 何も話さなくても、同じ空間にいるだけで平気だった。

 けれど今は、電話の向こう側にいる。

 沈黙が、距離そのもののように感じられる。

 葵は話題を変えた。

「そういえば、そっちって寒い?」

『こっちは朝晩が少し冷えるかな』

「こっちもだよ。今度そっちに行ったら、どこか連れてってよ」

『……うん』

「約束ね」

『うん』

 それから少し話をして、電話を切った。

「じゃあ、おやすみ」

『おやすみ、葵』

 通話が終わる。

 葵はスマートフォンを見つめた。

 久しぶりに、悠真とゆっくり話せた。

 声も聞けた。

 だから安心していいはずだった。

 なのに。

「……何だろう」

 胸の奥に、わずかな違和感が残っている。

 悠真は優しかった。

 以前と変わらない声だった。

 それなのに、何かが違う。

 葵はその理由を考えた。

 そして、ふと思う。

 昔は、電話を切ったあとも悠真がすぐそばにいた。

 「おやすみ」と言ったあと、同じ部屋でそれぞれの時間を過ごしていた。

 今は違う。

 「おやすみ」と言った瞬間、二人の間には遠い距離ができる。

 葵はソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。

 テーブルの上には、あのマグカップが一つだけ置かれている。

 それを手に取る。

 以前なら、もう一つのマグカップと並んでいた。

 今は、一つしかない。

「……遠距離って、こういうことなんだ」

 葵は初めて、実感した。

 離れていても恋人でいる。

 その言葉は簡単だった。

 けれど、実際に離れてみると。

 これまで二人をつないでいた「一緒にいる時間」が、少しずつ失われていく。

 葵はまだ、そのことを認めたくなかった。

 だからマグカップを元の場所に戻し、小さく笑った。

「大丈夫」

 自分に言い聞かせる。

「私たちは、まだ恋人なんだから」

 けれどその夜、眠りにつく直前まで。

 電話の向こうで悠真が黙った、あの数秒が。

 なぜか、ずっと頭から離れなかった。