君が思い出になる前に

 悠真が故郷へ戻ってから、三日が経った。

 葵は、いつもと同じように仕事へ向かい、いつもと同じようにパソコンの前に座っていた。

 けれど、何かが違う。

 仕事をしている最中も、ふとした瞬間にスマートフォンへ手が伸びる。

 悠真から連絡が来ているかもしれない。

 そう思って画面を見るたび、通知はない。

 以前なら、そんなことは気にしなかった。

 付き合って四年も経てば、四六時中連絡を取り合う必要なんてない。

 そう思っていたはずなのに。

「高橋さん、この資料なんですけど」

「あ、ごめん。今見るね」

 同僚に声をかけられ、葵は慌てて画面を切り替えた。

 目の前には、来週のプレゼンに向けた資料が並んでいる。

 やるべきことは山ほどある。

 それなのに、頭の片隅から悠真が離れなかった。

 昼休みになり、葵は一人で社員食堂へ向かった。

 席についてスマートフォンを見る。

 やっぱり、何もない。

 葵は小さく息を吐いた。

「……忙しいんだよね」

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。

 引っ越したばかりなのだ。

 荷物の整理もあるだろうし、お父さんのこともある。

 連絡がないくらいで不安になる必要はない。

 そう思って、スマートフォンをバッグへ戻した。

 けれど、その日の夜。

 仕事を終えて自宅へ戻った葵は、玄関を開けた瞬間、妙な静けさを感じた。

「ただいま……」

 誰もいない部屋に、自分の声だけが響く。

 いつものことなのに。

 四年間、帰れば悠真がいた。

 食事をしていることもあれば、ソファでテレビを見ていることもあった。

 何気なく「おかえり」と言われる。

 それが当たり前だった。

 葵は靴を脱ぎ、部屋へ入る。

 テーブルの上に置かれた色違いのマグカップ。

 そのうちの一つは、悠真が持っていった。

 残った一つを見つめていると、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 葵はキッチンへ行き、冷蔵庫を開ける。

 何を食べよう。

 そう考えて、手を止めた。

 今までなら、二人分を考えていた。

 悠真は何を食べたいと言うだろう。

 帰りに何か買ってこようか。

 そんなことを無意識に考えていた。

 けれど、もう必要ない。

「……一人分でいいんだ」

 口にしてみると、その言葉が思った以上に寂しかった。

 結局、葵は簡単な食事を作った。

 テレビをつけても、内容が頭に入ってこない。

 食事を終え、食器を片づける。

 それからソファに座り、スマートフォンを手に取った。

 悠真とのトーク画面を開く。

 最後のメッセージは、引っ越しの日に届いたものだった。

『着いたよ』

 たった四文字。

 葵はそれをもう何度も見ている。

 その下に、自分が送った、

『よかった。お疲れさま』

というメッセージがある。

 それで終わっていた。

 葵はしばらく画面を眺めた。

 自分から送ろうと思えば、送れる。

 今日どうだった?

 お父さん、大丈夫?

 荷物は片づいた?

 聞きたいことはいくらでもある。

 けれど、指が動かなかった。

 何と送ればいいのか分からない。

 以前なら、こんなことを考えなかった。

 くだらない話でも送れた。

 今日こんなことがあった、と話せた。

 今は、言葉を選んでしまう。

 葵はスマートフォンを伏せた。

「……変なの」

 遠距離になっただけなのに。

 まだ恋人だと、悠真は言った。

 自分もそう信じている。

 なのに。

 以前と同じようには、話せなくなっていた。

 その夜、布団に入ってからも、葵はなかなか眠れなかった。

 隣の空いた場所を見る。

 そこに誰かがいるわけではない。

 それでも、四年間の習慣は簡単には消えない。

 葵は目を閉じた。

 すると、駅で見送った悠真の姿が浮かんだ。

 最後に言われた言葉。

『四年間、一緒にいてくれてありがとう』

 また胸が痛くなる。

「……ありがとうって、何なんだろう」

 葵は小さくつぶやいた。

 あれは、ただの感謝だったのだろうか。

 それとも。

 もう終わったことへの言葉だったのだろうか。

 考え始めると、不安が膨らんでいく。

 葵は布団の中でスマートフォンを手に取った。

 トーク画面を開く。

 そして、文字を打った。

『今日はどうだった?』

 しばらく画面を見つめる。

 送信ボタンに指を近づけて。

 けれど、押せなかった。

 葵は一度文章を消した。

 代わりに、

『おやすみ』

とだけ打つ。

 今度は迷いながらも送信した。

 既読はつかなかった。

 葵はスマートフォンを枕元へ置いた。

 眠ろうと目を閉じる。

 その数分後。

 小さな通知音が鳴った。

 葵は反射的にスマートフォンを手に取る。

 画面に表示されていたのは、悠真からの返信だった。

『おやすみ。今日はこっちも疲れたよ。明日また連絡する』

 葵はその文章を、何度も読み返した。

 最後に、小さく笑う。

「……うん」

 明日また連絡する。

 その一言だけで、少しだけ安心できた。

 けれど葵は、まだ知らなかった。

 その「明日」という約束が、これまでの二人とは少し違う意味を持ち始めていることを。