君が思い出になる前に

 土曜日の朝。

 目覚ましが鳴るより先に、葵は目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光を見ながら、今日は悠真の引っ越しの日だと思い出す。

 昨日までなら、まだ時間があると思えた。

 けれど、今日は違う。

 今日が終われば、悠真はこの街を離れる。

 ベッドから起き上がった葵は、キッチンへ向かった。

 棚に置かれた二つのマグカップを見る。

 一つは昨日まで使っていたもの。

 もう一つは、悠真の部屋から持ってきたもの。

 葵は後者を手に取った。

「……大事にするって言ったもんね」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、そっと棚に戻した。

 昼前、悠真からメッセージが届いた。

『予定より早く終わりそう。午後には出られると思う』

 葵はすぐに返信した。

『わかった。待ってるね』

 それから何度もスマートフォンを確認した。

 仕事をしているわけでもないのに、時間が進むのが妙に遅い。

 昼食を食べても落ち着かなかった。

 何か忘れているような気がする。

 けれど、何を忘れているのかはわからなかった。

 午後になって、悠真からもう一度連絡が来た。

『終わった。今から駅に向かう』

 葵はすぐに家を出た。

 待ち合わせ場所に着くと、駅前のロータリーに悠真が立っていた。

 その足元には、大きなバッグが一つ。

 それだけだった。

「……本当に、これで全部?」

「うん。大きい荷物は先に送ったから」

「そっか」

 葵はバッグを見る。

 四年間ここで暮らしていた人の荷物が、これだけになる。

 頭ではわかっていたのに、目の前にすると現実感があった。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 二人で駅の中へ入る。

 いつもなら、ここから別々の電車に乗る。

 今日は違う。

 悠真が乗る電車を、葵も途中まで見送る。

 改札を通り、ホームへ向かう。

 電車が来るまで、二人はベンチに並んで座った。

「なんか、不思議だね」

 葵が言った。

「何が?」

「いつもなら、こうして駅で別れるだけなのに」

「今日は俺が行くからね」

「うん」

 その言葉に、胸が詰まる。

 しばらく沈黙が続いた。

 葵は何度も話しかけようとして、やめた。

 言いたいことはたくさんある。

 気をつけてね。

 向こうに着いたら連絡してね。

 お父さんのこと、大変だと思うけど無理しないでね。

 そして──これからも私たちは恋人だよね。

 昨日、聞いたばかりだった。

 なのに、もう一度確認したくなった。

「葵」

「ん?」

「昨日のこと、考えてた?」

 悠真が静かに尋ねた。

「……うん」

「俺も」

 葵は悠真を見る。

 けれど、悠真はその先をすぐには言わなかった。

「向こうに行ったら、たぶん今までみたいにはいかないと思う」

「仕事もあるし?」

「うん。それもある」

 葵は頷いた。

「大丈夫だよ。私たちなら」

 そう言うと、悠真は少し困ったように笑った。

「葵は、そう言うと思った」

「だって、本当にそう思ってるから」

「うん」

 悠真はそれ以上否定しなかった。

 だから葵も、それ以上聞かなかった。

 やがて、ホームに電車が入ってきた。

 風が強く吹き抜ける。

 悠真が立ち上がった。

「じゃあ」

「うん」

「行ってくる」

 その言葉が、葵の胸に深く刺さった。

 いつもの「またね」ではない。

 行ってくる。

 帰ってくる場所が、今までとは違うのだ。

「……行ってらっしゃい」

 葵は笑った。

 笑えていると思った。

 悠真が電車に乗る。

 ドアの前で振り返った。

「葵」

「なに?」

「四年間、一緒にいてくれてありがとう」

 また、その言葉だった。

 葵は笑って返す。

「私も。ありがとう」

 ドアが閉まった。

 電車がゆっくり動き始める。

 悠真の姿が遠ざかっていく。

 葵はホームに立ったまま、電車が見えなくなるまで動けなかった。

 やがて、最後尾が小さくなっていく。

 それでも、まだ手を振っていた。

 見えなくなってから、ようやく手を下ろす。

 スマートフォンを見る。

 悠真からメッセージが届いていた。

『着いたら連絡する』

 葵は画面を見つめた。

 それだけで、少し安心した。

 離れただけ。

 終わったわけじゃない。

 そう思いたかった。

 駅を出ると、街はいつもと変わらなかった。

 人が歩いている。

 店も開いている。

 信号が変わり、車が走っていく。

 世界は何も変わっていない。

 なのに、葵の中だけが、少しだけ取り残されたような気がした。

 家に帰ると、棚の上に置いた二つのマグカップが目に入った。

 葵はその前に立った。

 一つは自分のもの。

 もう一つは悠真からもらったもの。

 離れても、これがある。

 そう思いながら、葵はそっとカップに触れた。

 まだ、別れたわけじゃない。

 そう言い聞かせるように。

 けれどその夜、悠真から届いた「着いたよ」という短いメッセージを何度読み返しても、葵の胸に残る寂しさは消えなかった。

 距離だけでは説明できない何かが、二人の間に生まれ始めている。

 そのことを、葵はまだ認めたくなかった。