君が思い出になる前に

 金曜日。

 約束していた時間より少し早く、葵は待ち合わせ場所に着いた。

 今日は仕事が休みだった。悠真も引っ越しの準備があるからと休みを取っている。

 駅前の時計を見る。

 待ち合わせまで、まだ十分ほどあった。

 葵はスマートフォンを取り出したものの、何をするでもなく画面を閉じた。

 昨日、悠真と手をつないだ感触が、まだ手のひらに残っているような気がした。

 もっと早く、こうしていればよかった。

 そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。

 今さら後悔しても仕方がない。

 今日を大切にすればいい。

「葵」

 顔を上げると、悠真が歩いてくるところだった。

「おはよう」

「おはよう。早かったね」

「悠真こそ」

 二人で笑う。

 それだけで、いつもの休日に戻ったような気がした。

「昨日言ってたところ、行ってみる?」

「うん」

 二人は駅から電車に乗った。

 目的地は、付き合い始めた頃によく行った街だった。

 四年前、まだ二人とも今より少しだけ若くて、休日になると特に目的もなく電車に乗った。

 降りた駅の近くにあった店で昼食を食べて、知らない道を歩いて、疲れたらカフェに入る。

 そんな時間が楽しかった。

「ここ、まだあるんだ」

 駅を出てすぐ、悠真が懐かしそうに言った。

 小さな雑貨店だった。

「覚えてる?」

「覚えてるよ」

 葵は笑った。

「悠真が私の誕生日プレゼントを買うために、三十分くらい悩んでたところ」

「三十分どころじゃなかったと思う」

「そうだっけ?」

「一時間近くいたよ」

 そう言われて、葵は声を上げて笑った。

「ああ、そうだったかも」

「葵は店の外で待ってたよね」

「だって、見たらプレゼントの意味がなくなるじゃん」

「寒いって言ってた」

「それも覚えてるの?」

「覚えてるよ」

 悠真が笑った。

 その笑顔を見ていると、葵の胸が温かくなる。

 こんなふうに話せる。

 笑える。

 まだ二人は大丈夫なのかもしれない。

 そんな気持ちが、また戻ってきた。

 昼食を終えて店を出ると、悠真がスマートフォンを確認した。

「どうしたの?」

「母さんから。荷物のことで確認したいことがあるみたい」

「もう向こうの家も準備してるんだね」

「うん。父さんのこともあるし、できるだけ早く戻ってきてほしいって」

 葵は頷いた。

「そっか」

 その言葉の先に、何を言えばいいのかわからなかった。

 悠真が帰る理由は、ちゃんとわかっている。

 家族のために帰ることを止めるつもりはない。

 それでも、心のどこかでは思っていた。

 帰っても、私との関係は続く。

 距離が変わるだけ。

 そう信じていた。

「葵」

「ん?」

「ちょっと歩かない?」

「うん」

 二人は駅から離れ、昔歩いた道をゆっくり進んだ。

 途中で小さな公園を見つける。

「あ」

 葵が足を止めた。

「ここ、来たことある」

「あるね」

「四年前だよね」

「たぶん」

 二人でベンチに座った。

 しばらく何も話さなかった。

 風が木の葉を揺らしている。

 昔と同じ場所なのに、見える景色は少し違っていた。

「ねえ、悠真」

「うん?」

「向こうに行っても、ちゃんと連絡してね」

 悠真は葵を見る。

「もちろん」

「電話もする?」

「できるときはするよ」

「私もする」

「うん」

 葵は少し安心した。

 けれど、次の言葉を口にするのには勇気が必要だった。

「……私たち、これからも恋人だよね?」

 言った瞬間、胸が苦しくなった。

 こんなことを確認しなければならないこと自体が、どこかおかしい。

 悠真はすぐには答えなかった。

 ほんの数秒だった。

 けれど、葵には長く感じられた。

「……そうだよ」

 悠真が静かに答えた。

 葵は笑った。

「よかった」

 それ以上、聞かなかった。

 本当は、「じゃあ、いつ会える?」と聞きたかった。

 「次はいつ来ればいい?」とも聞きたかった。

 けれど、今日はこれ以上聞いてはいけない気がした。

 帰り道、二人はまた手をつないだ。

 悠真の手は温かかった。

 駅に着くと、悠真が言った。

「明日、引っ越しだから」

「うん」

「見送りに来てくれる?」

 葵は一瞬、言葉を失った。

「もちろん」

 迷う理由なんてなかった。

「絶対行く」

 悠真は小さく頷いた。

「ありがとう」

 また、その言葉だった。

 葵は笑いながら言った。

「最近、ありがとうって言いすぎじゃない?」

「そうかな」

「うん。なんか……寂しくなる」

 悠真は少し黙ってから、

「ごめん」

 と答えた。

 葵は首を横に振った。

「謝らなくていいよ」

 改札の前で別れる。

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 悠真の姿が見えなくなってから、葵はしばらくその場に立っていた。

 明日は引っ越しの日。

 それが終われば、悠真はこの街を離れる。

 わかっているはずなのに、まだ実感がなかった。

 明日も会える。

 明日、ちゃんと見送ればいい。

 そう思いながら、葵は家へ向かった。

 けれどその夜、ベッドに入っても眠れなかった。

 明日になれば、何かが変わる。

 そんな予感だけが、静かに胸の中に残っていた。