君が思い出になる前に

 木曜日の朝。

 目を覚ました葵は、枕元に置いたスマートフォンを手に取った。

 昨日、悠真の部屋から持ち帰ったマグカップが、キッチンの棚に置かれている。

 四年間使ってきたものと同じ場所に並べると、不思議な感じがした。

 色違いの二つのカップ。

 今までは、それが当たり前だった。

 けれど今日からは、一つだけが自分の部屋にある。

 葵はしばらく眺めてから、いつものようにコーヒーを淹れた。

 仕事に行けば、忙しさに紛れてしまう。

 そう思っていた。

 けれど、昼休みになってスマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いていた。

『今日、少しだけ会える?』

 葵はすぐに返信した。

『会えるよ。仕事終わったら行くね』

 送信してから、昨日の悠真の表情を思い出した。

 カップを「大事にして」と言ったときの、あの少し寂しそうな顔。

 何だったのだろう。

 気になったけれど、深く考えるのはやめた。

 あと少ししかないのだから、できるだけ一緒にいたい。

 それだけでよかった。

 仕事を終えた葵が待ち合わせ場所へ向かうと、悠真は駅前のベンチに座っていた。

「ごめん、待った?」

「今来たところ」

 いつものやり取りだった。

 それだけで、葵は少し安心した。

「今日は何する?」

「夕飯、食べに行かない?」

「いいね」

 二人は駅の近くにある、以前から気になっていた店へ入った。

 特別な店ではない。

 仕事帰りの会社員や、買い物帰りの人たちが気軽に立ち寄るような小さな店だった。

「こういうところ、もっと早く来ればよかったね」

 メニューを見ながら葵が言うと、悠真が笑った。

「葵、いつも忙しかったから」

「……そうだったね」

 その言葉に、葵の手が止まった。

 責められたわけではない。

 悠真も、責めるつもりで言ったわけではないだろう。

 それでも、胸の奥に小さな痛みが残った。

「最近は、少し早く帰れるようになったんだけどね」

「うん」

「もっと早くそうしてればよかったかな」

 悠真はすぐには答えなかった。

「どうだろう」

「どうだろうって?」

「今さら、どっちがよかったとか考えても仕方ないよ」

 穏やかな声だった。

 だからこそ、葵は何も言えなくなった。

 料理が運ばれてきて、二人はいつものように話をした。

 仕事のこと。

 引っ越しの荷物のこと。

 向こうで必要になるもののこと。

 どれも普通の話だった。

 けれど、会話の端々に「向こう」という言葉が増えている。

 そのたびに、葵は胸の中で小さく息をついた。

「そういえば、明日は休み取ったんだよね?」

「うん。引っ越し前だから」

「じゃあ、明日も会える?」

 葵が何気なく尋ねると、悠真は一瞬だけ葵を見た。

「うん。会おう」

 その答えに、葵は笑った。

「よかった」

「そんなに嬉しい?」

「嬉しいよ」

 葵は迷わず答えた。

「だって、あと三日しかないんだから」

 言ってから、二人とも黙った。

 あと三日。

 口に出してしまうと、その数字が急に現実味を帯びた。

 悠真は水を一口飲んだ。

「……そうだね」

 帰り道、駅まで並んで歩いた。

 昔なら、自然に手をつないでいた。

 けれど最近は、そうすることが少なくなっている。

 葵は少し迷ってから、そっと悠真の手に自分の指を絡めた。

 悠真がこちらを見る。

「どうしたの?」

「なんとなく」

 葵は笑った。

「今日は、こうしたいなって」

「そっか」

 悠真も握り返してくれた。

 その温度が懐かしかった。

 付き合い始めた頃は、この手をつなぐだけで嬉しかった。

 今も嬉しい。

 ただ、昔とは少し違う。

 その違いを、葵はまだ言葉にできなかった。

 駅に着くと、悠真が足を止めた。

「明日、どこ行く?」

「どこでもいいよ」

「じゃあ、葵が決めて」

「うーん……」

 考えながら、葵は笑った。

「昔よく行ったところ、行ってみる?」

 悠真は少しだけ目を細めた。

「いいね」

「明日なら時間もあるし」

「うん」

 明日。

 また会える。

 そう思うと、葵の心は少し軽くなった。

 駅の改札で別れるとき、悠真はいつものように「また明日」と言った。

「うん。また明日」

 葵も笑って手を振った。

 家に帰ると、朝のマグカップが目に入った。

 葵はそれを手に取り、ゆっくり洗った。

 明日も会える。

 まだ三日ある。

 そう思っていた。

 けれど、明日から始まる時間が、二人にとってただの「残り三日」ではないことを、葵はまだ知らなかった。