君が思い出になる前に

 水曜日の夜、葵は仕事を終えると、悠真の部屋へ向かった。

 玄関を開けると、前に来たときよりも段ボールが増えていた。壁際に積まれた箱には、衣類、書籍、キッチン用品と、几帳面な字で中身が書かれている。

「だいぶ進んだね」

「うん。思ったより荷物が多くてさ」

 悠真は苦笑しながら、手にしていたガムテープを置いた。

「何か手伝うよ」

「じゃあ、その辺の本をまとめてもらえる?」

「了解」

 葵は床に置かれた本を一冊ずつ手に取った。

 仕事の資料、昔読んでいた小説、旅行のガイドブック。その中に、二人で出かけたときに買った小さな写真集が混じっていた。

「これ、持っていくの?」

 葵が尋ねると、悠真は少し考えてから首を横に振った。

「それは置いていこうかな」

「え?」

「重いし。向こうで必要になったら、また買えばいいから」

「そっか」

 葵は写真集を箱の外へ戻した。

 それだけのことなのに、胸の奥が少しだけざわついた。

 四年前、二人で選んだものだった。

 たいしたものではない。高価でもないし、なくなったところで困るものでもない。

 それでも、葵にとっては四年間の一部だった。

「これ、どうする?」

 今度は小さなマグカップを手に取る。

 二人で色違いで買ったものだった。葵のカップは今も自宅にある。

「それは葵が持っていけば?」

「私が?」

「うん。俺は向こうで新しいの買うし」

 さらりと言われて、葵はカップを見つめた。

「……じゃあ、もらおうかな」

「うん」

 悠真はそれ以上何も言わなかった。

 葵はカップを自分のバッグの横に置いた。

 部屋の中を見渡す。

 以前は二人で過ごした時間がそのまま残っているように感じた場所が、今は少しずつ悠真一人の部屋に戻っていく。

 それは当然のことなのに、なぜか寂しかった。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「向こうに行ったら、こういうの……全部変わるのかな」

「こういうの?」

「部屋とか、生活とか。こっちにいたときとは違うものになるでしょ」

「まあ、そうだろうね」

 悠真は箱を閉じながら答えた。

「葵も変わるんじゃない?」

「私?」

「うん。仕事もあるし、今まで通りってわけにはいかないと思う」

 その言葉に、葵は少しだけ笑った。

「私は変わらないよ」

 口にしてから、自分でも少し不思議に思った。

 本当にそうだろうか。

 悠真がいなくなったあとも、今までと同じように仕事をして、連絡を取って、休みの日には会いに行って。

 そうすれば、今までと変わらない。

 そう思っている。

 けれど、悠真は何も答えなかった。

「……悠真?」

「ん?」

「何でもない」

 聞きたいことはあった。

 昨日も思った。

 来月会えるよね、とか。

 これからも恋人だよね、とか。

 そんなことを一つずつ確かめておけば、不安は消えると思っていた。

 けれど、いざ目の前にすると、どの言葉も妙に重たく感じる。

 悠真は新しい箱を組み立てていた。

「葵」

「なに?」

「そのカップ、大事にして」

「もちろん」

 葵は笑った。

「四年間の思い出だから」

 言った瞬間、悠真の手が止まった。

 ほんの一瞬だった。

 すぐに何事もなかったようにガムテープを切り、箱の底を留めていく。

「……そうだね」

 その返事が、なぜか胸に残った。

 葵は持ってきたカップをバッグにしまった。

 帰る時間になって玄関に立つと、部屋の中をもう一度振り返った。

 段ボールが増えただけなのに、昨日までとは違う部屋に見える。

「じゃあ、また明日ね」

 葵が言うと、悠真は少しだけ笑った。

「うん。また明日」

 その言葉を聞いて、葵はほっとした。

 明日も会える。

 まだ、時間は残っている。

 だから大丈夫だと思った。

 けれど、帰り道を歩きながら、バッグの中に入れたマグカップの重さを感じた。

 それは思っていたより、ずっと重かった。