君が思い出になる前に

 火曜日の夜。

 仕事を終えた葵は、帰りの電車の中でスマートフォンを開いた。

 昨日、悠真と会ったばかりなのに、もう少しだけ話したいと思っていた。

 以前なら、こんなことは珍しくなかった。

 会った翌日に電話をしたり、どうでもいいメッセージを送り合ったり。

 けれど今は、連絡をすることさえ少し考えてしまう。

 迷った末、葵はメッセージを打った。

『来月、そっちに行ってみようかな』

 送信する。

 数分後、返事が来た。

『こっちに?』

『うん。新しい家も見てみたいし』

 少し間があった。

『まだ片付いてないよ』

『手伝うよ』

『葵、仕事忙しいだろ』

『休み取るから大丈夫』

 既読がついた。

 けれど、なかなか返事が来ない。

 電車が次の駅に到着する。

 人が乗り込んでくる。

 それでも葵は画面を見たままだった。

 ようやく届いた返事は、

『落ち着いたら連絡する』

 だった。

 葵は眉を寄せた。

 少しだけ、引っかかった。

 いつならいいのか。

 来月なのか。

 再来月なのか。

 具体的なことが何も書かれていない。

『うん。分かった』

 そう返して、スマートフォンをしまった。

 別におかしくない。

 悠真は引っ越しを控えている。

 父親のこともある。

 新しい生活が始まれば、しばらく忙しいのは当然だ。

 葵はそう考えた。

 翌日。

 仕事の合間に、同僚から週末の予定を聞かれた。

「今週の土曜って空いてる?」

「うん。予定あるけど」

「彼氏と?」

「そう」

 葵は少し照れながら答えた。

「引っ越しの手伝い」

「そっか。大変だね」

「でも、最後だし」

 言ったあと、葵は黙った。

 最後。

 その言葉が、思った以上に胸に刺さった。

「……最後って言っても、引っ越すだけだけどね」

 自分で付け足す。

 同僚は特に気にした様子もなく、「遠距離かあ」と笑った。

「でも四年付き合ってるなら大丈夫でしょ」

「うん」

 葵も笑った。

「私もそう思ってる」

 その日の夜。

 帰宅すると、母親から電話がかかってきた。

 仕事の話や最近の出来事を話したあと、何気なく悠真のことを聞かれる。

「悠真くん、もうすぐ引っ越しなんだっけ?」

「うん。土曜日」

「そう。寂しくなるね」

「まあね。でも遠距離になるだけだから」

 葵はそう答えた。

「会おうと思えば会えるし」

「そうね」

 電話を切ったあと、部屋が急に静かになった。

 葵はソファに座り、テーブルの上に置いた写真立てを見る。

 先日、悠真の部屋からもらった写真だった。

 四年前の二人。

 まだ何も決まっていなかった頃。

 それでも、これから先のことを当たり前のように話していた。

 葵は写真を手に取った。

「私たち、これからも続くよね」

 誰もいない部屋で呟く。

 答えは返ってこない。

 その夜、悠真から電話があった。

「もしもし?」

『今、大丈夫?』

「うん」

 昨日のことを思い出しながら、葵は聞いた。

「ねえ、来月の話なんだけど」

『うん』

「本当に行っていい?」

『……いいよ』

「やった」

 葵は笑った。

「じゃあ、日にち決めようよ」

 電話の向こうが静かになった。

『葵』

「ん?」

『その話、引っ越してからでもいい?』

「……うん」

『ごめん』

「謝らなくていいよ」

 葵は笑ってみせた。

「忙しいもんね」

『ありがとう』

 また、その言葉だった。

 ありがとう。

 最近、悠真はその言葉をよく使う。

 葵はそれが少し嫌だった。

 まるで、何かを終わらせる人みたいに聞こえるから。

「悠真」

『ん?』

「……何でもない」

 聞きたかった。

 私たち、これからも恋人だよね。

 引っ越しても、会いに来てくれるよね。

 来月、一緒にいられるよね。

 けれど、どれも口にはできなかった。

 今聞けば、悠真から返ってくる答えが怖かった。

『じゃあ、そろそろ寝るな』

「うん」

『おやすみ、葵』

「おやすみ」

 電話が切れた。

 葵はスマートフォンを見つめたまま、しばらく動かなかった。

 あと五日。

 引っ越しの日は、もうすぐそこまで来ている。

 それなのに葵は、まだ「その先」の約束を作ろうとしていた。

 その先にも、二人がいると信じたかった。

 ただ、悠真はその約束を、少しずつ遠ざけているようだった。