君が思い出になる前に

 週が明けた月曜日。

 葵は仕事を終えると、いつもより早く会社を出た。

 時計を見る。

 約束の時間まで、まだ少しある。

 駅へ向かいながら、悠真にメッセージを送った。

『今から向かうね』

 すぐに返事が来る。

『気をつけて』

 たったそれだけなのに、葵は少し笑った。

 昔は、仕事が終われば自然と会っていた。

 待ち合わせ場所を細かく決めなくても、どちらかの家へ向かえばよかった。

 けれど今は、こうして予定を合わせなければならない。

 それが少し寂しかった。

 待ち合わせたのは、二人がよく利用していた駅の改札前だった。

「お待たせ」

「俺も今来たところ」

 悠真はいつものように笑った。

「何食べる?」

「何でもいいよ」

「じゃあ、前に行ったところにする?」

「うん」

 二人は駅近くの小さな定食屋へ向かった。

 店に入ると、以前と同じ席が空いていた。

「ここ、座ろう」

 葵が先に腰を下ろす。

「懐かしいね」

「そうだな」

 注文を終えると、二人はしばらく黙っていた。

 気まずいわけではない。

 ただ、何を話せばいいのか分からない。

 葵は水を一口飲んだ。

「そういえば、向こうの家ってもう片付いた?」

「うん。ほとんど」

「家具とかは?」

「向こうで買い直すものもあるけど、必要なものは送った」

「そっか」

「父さんの部屋も少し片付けないといけなくて」

「大変だね」

「まあ、こればっかりは仕方ないよ」

 悠真はそう言って笑った。

 葵はその顔を見つめた。

 父親のために戻る。

 それは分かっている。

 だから、引き止める理由なんてない。

 それでも、胸の奥が重くなる。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「向こうに行ったら、どのくらいでこっちに戻ってこられる?」

「仕事が落ち着けば、月に一回くらいは戻れると思う」

「じゃあ、私も行くよ」

「うん」

「本当に行くからね」

「分かってる」

 悠真は笑った。

「葵なら来ると思ってる」

「何それ」

「昔からそうじゃん」

「そうかな」

「うん」

 その言葉が嬉しかった。

 自分のことを分かってくれている。

 四年間一緒にいたのだから当然なのかもしれない。

 食事を終えて店を出る。

 まだ帰るには少し早い時間だった。

「もう少し歩く?」

 葵が聞く。

「いいよ」

 二人は駅とは反対方向へ歩き始めた。

 夜の街を並んで歩く。

 特別な話はしなかった。

 仕事のこと。

 最近見た映画のこと。

 駅前にできた新しい店のこと。

 どれも、どうでもいい話だった。

 でも葵は、その時間が好きだった。

 こういう時間がずっと続けばいいと思った。

 やがて駅が見えてくる。

「じゃあ、またね」

「うん」

 そこで悠真が立ち止まった。

「葵」

「何?」

「今日はありがとう」

「え?」

「来てくれて」

「そんなの……」

 葵は笑った。

「恋人なんだから普通でしょ」

 悠真の表情が、一瞬だけ曇った。

 けれど、すぐにいつもの顔に戻る。

「そうだな」

「何?」

「いや」

 悠真は首を振った。

「気をつけて帰って」

「悠真もね」

 別れて、葵は一人で改札を通った。

 電車を待ちながら、さっきの会話を思い出す。

 今日は楽しかった。

 久しぶりに、何も考えず悠真と話せた。

 やっぱり大丈夫。

 離れても、きっとこういう時間は作れる。

 葵はそう思った。

 けれど。

 悠真が最後に見せた表情だけが、どうしても頭から離れなかった。

 何かを言いかけて、やめたような顔。

 聞けばよかったのかもしれない。

 でも葵は、聞かなかった。

 聞いてしまったら、今の穏やかな時間が壊れてしまう気がしたから。

 電車がホームへ入ってくる。

 葵は小さく息を吐いて、乗り込んだ。

 あと六日。

 引っ越しの日まで、あと六日だった。