君が思い出になる前に

 土曜日の午後。

 葵は駅前で悠真を待っていた。

 約束の時間より少し早く着いた。

 周囲を見渡していると、見慣れた姿がこちらへ向かってくる。

「ごめん。待った?」

「ううん。私も今来たところ」

 いつものやり取り。

 それだけなのに、葵は少し嬉しくなった。

「今日はどこ行く?」

「悠真が決めていいよ」

「じゃあ、久しぶりにあそこ行かない?」

「あそこ?」

「昔、よく行ってた店」

 葵はすぐに思い出した。

「ああ、あのカフェ?」

「そう」

「いいね」

 二人は並んで歩き始めた。

 付き合い始めた頃には、何度も歩いた道だった。

 けれど、久しぶりに歩いてみると、知らない店が増えている。

 閉店した店もあった。

 駅前の小さな書店はなくなり、代わりに新しい店ができている。

「ここ、前は本屋だったよね」

「そうだった」

「いつ変わったんだろう」

「俺も知らない」

 そんな会話をしながら歩く。

 以前なら、こういう変化を見つけるたびに、もっと話が続いた。

 あの店に入ってみよう。

 これ食べてみたい。

 帰りに映画を見よう。

 そんなふうに、思いついたことを次々と口にしていた。

 今は、二人とも少しずつ言葉を探している。

 カフェに入ると、窓際の席に座った。

 店内は昔とほとんど変わっていない。

「懐かしいね」

 葵が言うと、悠真も笑った。

「ここ、最初に来たとき覚えてる?」

「覚えてるよ」

「葵、緊張してた」

「してない」

「してたって」

「悠真だって緊張してたじゃん」

「俺はしてない」

「嘘」

 二人で笑った。

 その瞬間だけ、四年前の空気が戻ってきた気がした。

 葵は少しだけ安心した。

 大丈夫。

 まだこうやって笑える。

 そう思った。

「そういえば」

 悠真がコーヒーを飲みながら言った。

「葵、最初はここでブラック頼んだよな」

「……そうだっけ?」

「覚えてない?」

「全然」

「飲んで一口で顔しかめてた」

「そんなことあった?」

「あったよ。それで砂糖を三つ入れた」

 悠真が笑う。

 葵もつられて笑った。

「よく覚えてるね」

「覚えてるよ」

 その言葉に、葵は少しだけ黙った。

 自分が忘れていたことを、悠真は覚えている。

 それが嬉しいような、申し訳ないような気持ちになった。

「……私、最近あんまり覚えてないかも」

「何が?」

「昔のこと」

 悠真は何も言わなかった。

「仕事とか、毎日のことばっかり考えてたからかな」

「そうかもしれないな」

「悠真は?」

「俺?」

「昔のこと、まだ覚えてる?」

 悠真は少し考えた。

「覚えてるよ」

「そっか」

「忘れたくないから」

 葵は顔を上げた。

 悠真は窓の外を見ていた。

 その横顔が、いつもより遠く感じた。

「……忘れないよ」

 葵は小さく言った。

「私も」

 悠真がこちらを見る。

「じゃあ、よかった」

 それだけだった。

 店を出たあと、二人は駅まで歩いた。

 帰り道、葵はふと思った。

 昔は、この時間が終わるのが嫌だった。

 もう少し一緒にいたい。

 もう少し話したい。

 そんなことを当たり前のように思っていた。

 今は違う。

 悠真と一緒にいることが嫌なわけではない。

 むしろ、もっと一緒にいたい。

 それなのに、どうしてこんなにも寂しいのだろう。

「葵」

「ん?」

「来週さ」

 悠真が前を向いたまま言った。

「引っ越す前に、少し時間作れないかな」

「もちろん」

 葵はすぐに答えた。

「土曜日だけじゃなくて?」

「うん」

「じゃあ、平日も?」

「仕事が終わったあとなら」

 悠真が少し笑った。

「じゃあ、あと何日か会えるな」

「うん」

 葵も笑う。

 その約束が、二人にとってどんな意味を持つのか。

 このときの葵は、まだ知らなかった。

 ただ、残された時間が一週間しかないのなら。

 できるだけ一緒にいたい。

 それだけを思っていた。