君が思い出になる前に

 翌朝、目を覚ましてからも、昨夜の言葉が頭から離れなかった。

 ──四年間、ありがとう。

 悠真は、どういうつもりで言ったのだろう。

 葵は朝食を取りながら考えた。

 けれど、考えても答えは出ない。

 仕事へ向かう電車の中でも、何度も思い返した。

 そして、ふと気づく。

 自分は悠真と付き合い始めてから、四年間のことをどれくらい覚えているだろう。

 もちろん、大きな出来事は覚えている。

 初めて二人で旅行したこと。

 誕生日に悠真が予約してくれた店。

 仕事で落ち込んだとき、何も聞かずにそばにいてくれたこと。

 けれど、もっと小さな出来事はどうだろう。

 何を食べたか。

 どんな話をしたか。

 どんなことで笑ったか。

 考えてみると、最近のことほど思い出せない。

 その事実に、葵は少しだけ胸を痛めた。

 仕事に追われていた。

 それは本当だ。

 でも、忙しかったからという理由だけで、全部を片づけていいのだろうか。

 昼休み、葵はスマートフォンの写真フォルダを開いた。

 何気なくスクロールしていく。

 去年の写真。

 一昨年の写真。

 さらに遡る。

「あ……」

 指が止まった。

 四年前の写真だった。

 付き合い始めたばかりの頃、二人で撮った一枚。

 河川敷で撮った写真だった。

 葵は今より少し髪が短い。

 悠真は今より少し幼く見える。

 二人とも、今よりずっと無邪気に笑っていた。

 葵はその写真をしばらく眺めていた。

 この頃は、何をしていても楽しかった。

 コンビニへ行くだけでも嬉しかった。

 同じ映画を何度も見て、感想を言い合った。

 休日の予定が決まっていなくても、二人でいれば時間が過ぎていった。

 いつからだろう。

 会うために予定を調整することが、面倒になったのは。

 電話をしながら仕事のメールを確認するようになったのは。

 悠真から「今度、どこか行こう」と言われても、

「仕事が落ち着いたらね」

と答えるようになったのは。

 葵は写真を閉じた。

 そして、すぐにまた開いた。

 今度は去年の写真を見る。

 そこには、二人で撮った写真がほとんどなかった。

 悠真の写真も少ない。

 仕事関係の写真ばかりが並んでいる。

 プレゼン資料。

 打ち合わせの食事。

 会社の人たちとの集合写真。

 スクロールする指が止まった。

 四年間という時間は、確かに長かった。

 なのに、最後の一年だけが妙に薄く感じられた。

 その日の夜。

 葵は悠真の部屋へ向かう途中、河川敷の近くを通った。

 いつもならそのまま駅へ向かう道だった。

 けれど、足が自然に止まった。

 少しだけ寄ってみよう。

 そう思った。

 河川敷には、あの頃と同じように風が吹いていた。

 夕暮れの空を見上げる。

 四年前も、こんな空だった気がする。

 葵は一人でベンチに座った。

 初めてここへ来た日のことを思い出す。

 まだ恋人ではなかった二人。

 隣に座る距離も、今よりずっと遠かった。

 それなのに、今より近く感じていた。

 葵は小さく息を吐いた。

「……不思議だな」

 四年一緒にいたのに。

 今のほうが、悠真のことを遠く感じる。

 スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今どこ?』

 葵は少し迷ってから返信した。

『河川敷』

 すぐに既読がついた。

『一人?』

『うん』

 少しして、メッセージが届く。

『そこ、懐かしいな』

 葵は画面を見つめた。

『悠真も覚えてる?』

『覚えてるよ』

 それだけのやり取りなのに、胸が熱くなった。

 悠真は覚えている。

 自分たちが過ごした時間を。

 だからこそ、昨夜の「四年間、ありがとう」という言葉が、また頭に浮かんだ。

 葵はスマートフォンを握りしめた。

 聞いてみようかと思った。

 あの言葉はどういう意味だったの、と。

 けれど、結局聞けなかった。

 今はまだ、聞きたくなかった。

 来週になれば、悠真はいなくなる。

 だからその前に、もう少しだけ。

 二人が一緒だった時間を、ちゃんと見ていたかった。

 葵は立ち上がった。

 そして、ゆっくりと歩き出す。

 その背中を、夕暮れの風が追いかけていた。