君が思い出になる前に

 翌週の予定を確認しながら、葵は手帳をめくっていた。

 仕事の予定がびっしりと並んでいる。

 打ち合わせ、企画会議、プレゼン。

 いつもの一週間。

 ただ、その中にひとつだけ、今までとは違う予定があった。

 土曜日。

 悠真の引っ越し。

 葵はそこに小さく丸をつけた。

 その日は仕事を入れない。

 絶対に。

 そう決めていた。

 昼休み、葵は悠真にメッセージを送った。

『土曜日、何時から荷物運ぶ?』

 少しして返事が来る。

『朝から。無理しなくていいからね』

『無理してないよ。ちゃんと手伝うから』

『ありがとう』

 また短い返事。

 葵は画面を見つめたあと、スマートフォンを伏せた。

 最近、悠真とのメッセージはこんな感じだった。

 必要なことだけ。

 以前なら、ここから話が続いた。

『今日のお昼何食べた?』

『仕事終わった?』

『帰りにコンビニ寄るけど何かいる?』

 そんな何気ない言葉が、いつの間にか減っていた。

 けれど葵は、それを忙しさのせいだと思っていた。

 自分も忙しい。

 悠真だって、父親のことや引っ越しの準備で余裕がない。

 今だけだ。

 そう思えば、何もおかしくない。

 その日の夜、悠真から電話がかかってきた。

「もしもし?」

『今、大丈夫?』

「うん」

 葵はベッドに腰を下ろした。

「どうしたの?」

『いや。声、聞きたくて』

 その言葉に、葵の胸が少しだけ温かくなる。

「珍しいね」

『そう?』

「うん。最近、電話してなかったから」

『そうだったな』

「でも、これからはもっと電話できるよね」

『……うん』

「遠距離になったら、今までより電話するようにしようよ」

『そうだな』

「毎日は無理でも、二日に一回とか」

『葵がそれでいいなら』

「もちろん」

 葵は笑った。

「私たちなら大丈夫だよ」

 電話の向こうが静かになる。

「悠真?」

『聞いてる』

「……何?」

『いや』

 悠真は少し間を置いた。

『葵って、強いなと思って』

「そう?」

『うん』

「私、そんなに強くないよ」

『そうかな』

「寂しいよ。悠真が遠くに行くの」

 言ってしまってから、葵は少し照れた。

「でも、会えなくなるわけじゃないし」

『……そうだな』

「だから大丈夫」

 今度は悠真も否定しなかった。

 それが葵には嬉しかった。

 きっと悠真も同じように思っている。

 離れても大丈夫。

 四年間一緒にいたのだから、少しくらい距離ができても、二人の関係は変わらない。

 そう信じていた。

『葵』

「ん?」

『四年間、ありがとう』

 突然だった。

 葵は黙った。

「……何、それ」

『引っ越す前に言っておきたかっただけ』

「まだ一週間あるじゃん」

『そうだけど』

「なんか、最後みたい」

 冗談のつもりだった。

 けれど、悠真は笑わなかった。

『……ごめん』

「え?」

『いや、何でもない』

「悠真?」

『今日はもう遅いし、そろそろ寝よう』

「うん……」

 電話が切れた。

 葵はスマートフォンを手の中で握ったまま、しばらく動けなかった。

 四年間、ありがとう。

 その言葉が、頭の中に残っている。

 付き合っている恋人に、そんな言葉を使うだろうか。

 これからも一緒にいるなら。

 わざわざ「四年間」と区切るだろうか。

「……考えすぎだよ」

 葵は小さく呟いた。

 悠真は疲れているだけ。

 引っ越しを控えて、感傷的になっているだけ。

 きっとそうだ。

 葵はスマートフォンを置き、布団に入った。

 目を閉じる。

 けれど、なかなか眠れない。

 遠距離になっても大丈夫。

 電話もできる。

 会いにも行ける。

 四年間、一緒にいた。

 だから、変わらない。

 そう何度も考える。

 それなのに。

 胸の奥では、別の声がしていた。

 本当に変わらないなら。

 どうして、あんな言い方をしたのだろう。

 葵はその答えを、まだ知ろうとはしなかった。