君が思い出になる前に

 引っ越しの日まで、あと一週間。

 その数字を意識するようになったのは、カレンダーを見たときだった。

 仕事の予定を書き込んだあと、何気なく翌週へ目を移す。

 そこにある土曜日。

 悠真が、この街を離れる日。

 葵はしばらく、その日付を見つめていた。

「……あと一週間か」

 口にしてみると、思っていた以上に現実味があった。

 これまでにも何度も話していた。

 引っ越しの日も決まっていた。

 荷造りをしていることも知っている。

 それなのに、どこかでまだ先のことだと思っていた。

 来週になれば、悠真はいなくなる。

 今までなら仕事帰りに会おうと思えば会えた距離にいたのに、それができなくなる。

 葵はスマートフォンを手に取った。

『今週末、荷造り手伝いに行ってもいい?』

 送ると、しばらくして返信が来た。

『もちろん』

 それだけだった。

 以前なら、もっと他愛のないやり取りが続いていた。

 今日あったこと。

 仕事で失敗したこと。

 帰りに見かけた犬のこと。

 そんな話を、二人は当たり前のようにしていた。

 いつから、こんなに短くなったのだろう。

 そう思った瞬間、葵は首を振った。

「忙しかっただけだよね」

 自分に言い聞かせる。

 四年も付き合っていれば、毎日話す必要なんてない。

 好きな気持ちがなくなったわけでもない。

 遠距離になったって、連絡は取れる。

 会いたければ会いに行けばいい。

 それで何も変わらない。

 そう思いたかった。

 週末。

 悠真の部屋へ行くと、玄関には段ボールがいくつも積まれていた。

「結構進んでるね」

「うん。必要なものだけ残してる」

 悠真が段ボールを持ち上げる。

 その横を通り過ぎながら、葵は部屋を見渡した。

 四年間、何度も来た場所だった。

 休日に昼まで寝て、適当に何かを食べて。

 テレビを見ながら笑って。

 喧嘩をした日には、気まずいまま同じ部屋にいた。

 そんな時間が、少しずつ箱の中へしまわれていく。

「これ、どうする?」

 悠真が棚の上に置かれた小さな写真立てを指差した。

 二人で撮った写真だった。

 まだ付き合い始めたばかりの頃。

 今より少し幼くて、二人とも楽しそうに笑っている。

「あ……」

 葵は写真を手に取った。

「懐かしい」

「覚えてる?」

「もちろん」

 写真を見ながら、葵は笑った。

「この日、帰りに雨降ったよね」

「そうそう。葵、傘持ってなくて」

「悠真が貸してくれたんじゃん」

「俺、ずぶ濡れだったけどな」

「そうだったっけ?」

「そうだったよ」

 二人で笑う。

 ほんの一瞬だけ、昔と同じ空気が戻ってきた気がした。

 けれど、笑い終わったあと。

 葵は写真を見つめた。

「これ……持っていく?」

「葵が持ってて」

「いいの?」

「うん」

 悠真はそれ以上何も言わなかった。

 葵は写真立てを両手で包む。

「じゃあ、もらうね」

「うん」

 その「うん」が、妙に優しく聞こえた。

 帰り際、葵は玄関で靴を履きながら振り返った。

「来週も来るから」

「うん」

「引っ越しの手伝いするよ」

「ありがとう」

「それから……」

 言いかけて、葵は口を閉じた。

 何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。

 また会おう。

 これからも大丈夫。

 離れても変わらない。

 そんな言葉なら、いくらでも言える。

 けれど、悠真の顔を見ていると、どれも簡単には口にできなかった。

「……じゃあ、またね」

「うん。またね」

 部屋を出る。

 ドアが閉まったあと、葵はしばらくその場から動けなかった。

 手元には、昔の二人の写真。

 胸の奥には、言葉にできない小さな不安。

 そして、あと一週間。

 葵はまだ知らなかった。

 その一週間が、二人にとって最後の時間になることを。