君が思い出になる前に

土曜日の朝。

葵はいつもより少し早く目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光を見て、今日は休みだったことを思い出す。

そして、もう一つ。

悠真と会う日だった。

スマートフォンを見ると、ちょうどメッセージが届いた。

『おはよう。もう起きてる?』

葵は思わず笑った。

『起きてるよ。珍しく早起き』

『俺も』

『じゃあ、今日は遅刻しないね』

『それは葵もだろ』

そんな何気ないやり取りをしているうちに、昔の感覚が少しだけ戻ってきた気がした。

待ち合わせは午前十時。

いつもなら仕事の合間に会うことが多くなっていたから、朝から待ち合わせるのは久しぶりだった。

駅へ向かう途中、葵は何度も腕時計を確認した。

別に遅れているわけではない。

それでも、少し急いでしまう。

改札の向こうに悠真の姿を見つけた。

「悠真」

「葵」

顔を合わせる。

たったそれだけなのに、葵は少し安心した。

「久しぶりに朝から会うね」

「そうだな」

「なんか変な感じ」

「俺も」

二人で笑った。

最初に向かったのは、昔よく行った映画館だった。

付き合い始めた頃、二人はよく映画を見ていた。

映画を見終わったあと、どちらが面白かったか言い合いながら歩く時間まで好きだった。

「何見る?」

「これ、評判いいみたい」

悠真がスマートフォンを見せる。

「じゃあ、それにしよう」

チケットを買い、飲み物を手に席へ向かう。

映画が始まる。

二時間近く、二人はほとんど話さなかった。

けれど、嫌な沈黙ではなかった。

隣に悠真がいる。

そのことが、葵には嬉しかった。

映画が終わり、外へ出る。

「どうだった?」

「面白かった」

「ほんと?」

「うん。悠真は?」

「俺も」

「……それだけ?」

葵が笑う。

「葵が面白いって言うなら、俺も面白い」

「何それ」

久しぶりに、昔みたいなやり取りができた気がした。

そのまま二人は昼食を食べ、街を歩いた。

特別な場所ではない。

大きな買い物をしたわけでもない。

ただ、並んで歩いて、気になった店に入って、くだらない話をする。

それだけだった。

けれど葵は、それで十分だと思った。

こういう時間を、もっと作ればよかった。

仕事が忙しいから。

疲れているから。

明日でもいいから。

そんな理由で、ずっと後回しにしていた。

「ねえ、悠真」

「ん?」

「引っ越す前に、もう一回どこか行こうよ」

「どこ?」

「どこでもいいよ。日帰りでも」

「いいな」

悠真が頷く。

その横顔を見ながら、葵は少しだけ安心した。

やっぱり大丈夫。

こうして会えば、ちゃんと楽しい。

好きという気持ちだって、ちゃんとある。

離れたって、きっと大丈夫。

そう思った。

夕方。

二人は駅へ向かって歩いていた。

その途中で、悠真がふと足を止めた。

「葵」

「ん?」

「今日、楽しかった?」

「うん。すごく」

葵は迷わず答えた。

「久しぶりに、ちゃんと一日一緒にいられたね」

「……そうだな」

悠真は少しだけ笑った。

「またこういう日、作ろうな」

「うん」

葵も笑う。

けれど、その言葉を口にしたあと。

悠真は少しだけ視線を逸らした。

葵は気づかなかった。

駅に着く。

いつものように、ここで別れる。

「じゃあ、また連絡するね」

「うん」

「次はどこ行く?」

「考えとく」

「楽しみにしてる」

そう言って、葵は手を振った。

悠真も手を振り返す。

電車に乗ってから、葵は窓の外を眺めた。

今日一日を思い返す。

映画を見て。

ご飯を食べて。

歩いて。

笑って。

特別なことは何もなかった。

でも、楽しかった。

だから、きっと大丈夫。

今まで少しすれ違っていただけだ。

忙しさが重なっていただけ。

これからは、ちゃんと時間を作ればいい。

離れても、今日みたいな時間を積み重ねていけばいい。

そう考えていると、スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

『今日はありがとう』

葵はすぐに返信する。

『こちらこそ。楽しかった』

少し迷ってから、もう一文加えた。

『また行こうね』

送信する。

しばらくして、悠真から返事が届いた。

『うん。また行こう』

短い文章だった。

それでも葵は笑った。

同じ言葉を交わしている。

同じ未来を思い描いている。

そう信じたかった。

一方、悠真は帰宅すると、玄関に置かれた段ボールを見た。

今日一日のことを思い返す。

楽しかった。

葵といると、今でも自然に笑える。

だからこそ、苦しかった。

「また行こう」

葵が言った言葉が、頭から離れない。

その約束を守れるのか。

守りたいと思っているのか。

悠真自身にも、まだ答えが出なかった。

段ボールの蓋を閉じる。

部屋の中には、二人で過ごした時間の名残が少しずつ減っている。

それなのに、今日の一日は昔と同じように感じた。

ほんの少しだけ。

ほんの少しだけ、戻れたような気がした。

だからこそ悠真は、その感覚を信じていいのか分からなかった。