君が思い出になる前に

週の半ばを過ぎた頃。

葵のスマートフォンに、悠真からメッセージが届いた。

『引っ越しの日、決まった』

仕事の合間に通知を見た葵は、思わず画面を開いた。

『いつ?』

すぐに返信する。

少しして、悠真から日付が送られてきた。

その日を見た瞬間、葵の指が止まった。

来月の初め。

思っていたより、ずっと近かった。

「……もうすぐじゃん」

小さく呟く。

もちろん、知っていた。

来月には帰ると聞いていた。

だから、驚くことではない。

それなのに、日付が決まっただけで、急に現実味を帯びた。

悠真がいなくなる。

今までなら、仕事帰りに会おうと思えば会えた。

疲れていても、少しだけ顔を見ることができた。

休日に予定を合わせれば、一緒に出かけられた。

それが、できなくなる。

葵は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

『そっか』

そう送ろうとして、消す。

『いよいよだね』

それも違う気がした。

結局、

『教えてくれてありがとう。寂しくなるね』

と送った。

送信したあと、自分で少し驚いた。

「寂しい」なんて、これまであまり口にしなかった。

数分後、悠真から返信が来る。

『うん。俺も』

たったそれだけだった。

けれど、その言葉が妙に胸に残った。

その日の夜、二人は久しぶりに電話をした。

「引っ越し、そんなに早かったんだね」

「うん。向こうの仕事のこともあるから」

「荷造り、進んでる?」

「それなりに。まだ捨てるか迷ってるものも多いけど」

「悠真、昔から物捨てられないもんね」

「葵に言われたくないな」

「私?」

「この前も昔の映画の半券、持ってただろ」

「あれは思い出だから」

そう言って、葵は笑った。

電話の向こうでも悠真が笑う。

ほんの少しだけ、昔に戻ったような気がした。

それが嬉しかった。

だから葵は、思いついたように言った。

「ねえ、今度の土曜日、空いてる?」

「土曜?」

「うん。ちゃんと一日会おうよ」

少しの沈黙。

「……いいよ」

悠真の返事は、すぐには返ってこなかった。

けれど葵は気にしなかった。

「どこ行く?」

「どうしようかな」

「久しぶりに映画でもいいし、どこか遠くに行ってもいいし」

「葵、最近映画見てないって言ってたよな」

「そう。だから見たい」

「じゃあ、探してみる」

「うん」

話しているうちに、葵の気持ちは少しずつ軽くなっていった。

ちゃんと会えばいい。

ちゃんと一緒に過ごせばいい。

そうすれば、最近感じていた違和感も、きっと消えていく。

離れることが決まったから、不安になっているだけなのだ。

葵はそう考えた。

電話を切る前、悠真が言った。

「土曜、楽しみにしてる」

「私も」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」

通話が切れたあとも、葵はしばらくスマートフォンを握っていた。

久しぶりに、少しだけ心が弾んでいる。

土曜日。

その日なら、ちゃんと話せる。

最近のことも。

これからのことも。

遠距離になってからのことも。

「大丈夫だから」

誰に言うでもなく、葵は呟いた。

今度こそ、ちゃんと時間を作る。

仕事の予定に追われるのではなく、悠真のために時間を空ける。

付き合い始めた頃みたいに、一緒にいる時間を大切にする。

それでいい。

そう思った。

一方、悠真は電話を切ったあと、しばらく動かなかった。

土曜日に会う。

それを楽しみにしている気持ちは、本当だった。

葵と一緒にいたい。

最後になるかもしれないから、ではない。

ただ、会いたい。

その気持ちはまだ消えていない。

けれど、悠真の胸には別の思いもあった。

──ちゃんと話さなきゃ。

何を話すのか。

まだ、自分でもはっきりとは分からない。

ただ、このまま何も言わずに離れることだけはできない気がしていた。

悠真は部屋の隅に積まれた段ボールを見る。

引っ越しの日まで、あと少し。

そして土曜日まで、あと数日。

「……どうすればいいんだろうな」

答えは返ってこない。

静かな部屋の中で、時計の音だけが聞こえていた。

土曜日が来れば、二人は久しぶりに一日を一緒に過ごす。

葵は、それを未来のための時間だと思っていた。

悠真は、まだその時間を何と呼べばいいのか分からなかった。