君が思い出になる前に

翌週の月曜日。

葵はいつも通り、朝の電車に揺られていた。

スマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いている。

『おはよう。今日も頑張って』

短い文章だった。

それだけなら、何もおかしくない。

付き合い始めた頃は、もっと長いメッセージを送り合っていた。

「昨日のあれ面白かった」とか、「今度ここ行こう」とか。

一日の出来事を、わざわざ報告し合っていた時期もあった。

でも、四年も付き合っていれば、そんなことは減っていく。

葵はそう思っていた。

『おはよう。悠真も頑張ってね』

そう返して、スマートフォンをバッグにしまう。

それで終わり。

以前なら、そんなやり取りを何とも思わなかった。

むしろ、忙しい朝に長々と話さなくても分かり合えることが、二人の関係の変化なのだと思っていた。

けれど今日は、なぜか引っかかった。

──短いな。

そう思った自分に、葵は少し戸惑った。

別に、何も変わっていない。

悠真は仕事と引っ越しの準備で忙しい。

父親のこともある。

自分だって仕事が忙しい。

それなら、メッセージが短くなるくらい当然だ。

「……何考えてるんだろ」

小さく呟いて、葵は窓の外を見た。

流れていく景色に、いつもの朝が重なっていく。

会社に着けば、やることは山ほどあった。

午前中は企画会議。

午後はクライアントとの打ち合わせ。

その合間にも修正依頼が入り、気がつけば時計は夜の八時を回っていた。

パソコンを閉じたところで、同僚の美咲が声をかけてくる。

「葵、今日も遅いね」

「うん。でも、あとちょっとだから」

「最近ずっとじゃない?」

「そうかな」

「そうだよ。ちゃんと寝てる?」

「寝てる寝てる」

笑って答える。

けれど、美咲は納得していないようだった。

「彼氏さんとは?」

その言葉に、葵の手が一瞬止まった。

「悠真?」

「そう。引っ越すんでしょ?」

「うん。来月」

「大丈夫なの?」

「何が?」

「遠距離」

葵は少し考えてから、笑った。

「大丈夫だよ」

口にすると、いつもの言葉だった。

電話もできる。

休みが合えば会える。

新幹線だってある。

四年間、一緒にいた。

そんな二人が、距離くらいで変わるはずがない。

「それに、落ち着いたら私が遊びに行くつもりだし」

「そっか。葵らしいね」

「何それ」

「行動力あるなって」

美咲は笑って、先に帰っていった。

葵もバッグを肩にかける。

そのとき、スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

『今日はもう帰った?』

『今帰るところ』

すぐに返す。

少しして、返信が来た。

『そっか。気をつけて帰ってね』

それだけだった。

葵は画面を見つめた。

以前なら、ここから自然に会話が続いていた。

「今日こんなことがあった」と話したり。

「明日は何時に起きる」と笑ったり。

そんな何でもないやり取りが、いつの間にかなくなっている。

もちろん、悠真が冷たくなったわけではない。

優しい。

気遣ってくれる。

今日だって「気をつけて帰って」と言ってくれた。

だからこそ、葵には分からなかった。

優しいのに。

大切にしてくれているのに。

どうして、こんなに遠く感じるのだろう。

駅へ向かいながら、葵はスマートフォンを握り直した。

そして、ふと足を止める。

『今から電話する?』

そう打ちかけて、消した。

忙しいかもしれない。

疲れているかもしれない。

それに、わざわざ電話しなくてもいい。

付き合いが長くなれば、そんなものだ。

葵はそう思い直した。

その夜。

悠真の部屋では、引っ越し用の段ボールがまた一つ増えていた。

床に座った悠真は、スマートフォンを眺めていた。

葵とのメッセージ。

短い。

けれど、それ以上の言葉を自分から送ることもできなかった。

何を話せばいいのか、分からなくなっている。

昔なら、何でも話せた。

くだらないことでも、葵に伝えたかった。

でも今は、話そうとすると一度考えてしまう。

──これを言って、葵はどう思うだろう。

その一瞬が増えていた。

悠真はスマートフォンを伏せた。

部屋を見回す。

本棚には、まだ二人の写真が一枚だけ残っている。

初めて旅行に行ったときの写真。

葵が笑っている。

その笑顔を見ていると、胸の奥が苦しくなった。

「……好きなんだけどな」

誰に聞かせるでもなく、呟く。

好きだから、別れたくない。

そう思う一方で。

好きだからこそ、このままではいけないとも思っていた。

その二つの気持ちが、ずっと胸の中でぶつかっている。

翌日の夜。

葵はベッドに横になりながら、昔の写真を眺めていた。

何気なく開いたアルバムの中に、四年前の二人がいる。

まだ付き合い始めたばかりだった頃。

笑っている。

くだらないことで笑っている。

写真の中の自分は、今より少し幼く見えた。

その隣にいる悠真も、今より無邪気だった。

「……変わったな」

思わず声に出した。

何が変わったのかは、分からない。

髪型でもない。

服装でもない。

仕事でもない。

二人とも、ちゃんと同じように生きている。

ただ。

写真の中の二人には、今の二人にはない何かがあった。

葵は写真を指でなぞった。

そして、胸の奥に浮かんだ言葉を、すぐに打ち消した。

──私たち、いつからこんなふうになったんだろう。

考えてはいけない気がした。

答えを探してしまえば、何かを認めなければならなくなる。

だから葵はアルバムを閉じた。

スマートフォンを枕元に置く。

その直後、画面が光った。

悠真からだった。

『おやすみ』

葵は少しだけ迷ってから、

『おやすみ』

と返した。

それだけ。

以前なら、そのあとにもう一言あった。

「また明日ね」とか。

「好きだよ」とか。

そんな言葉が、自然に続いていた。

今は続かない。

葵は暗くなった画面を見つめた。

胸の奥に、小さな寂しさが残る。

けれど、それを「寂しい」と認めることが怖かった。

まだ、何も決まっていない。

悠真は来月引っ越す。

自分たちは遠距離になる。

それだけだ。

だから、大丈夫。

そう思おうとした。

何度目か分からない「大丈夫」を、今度は声には出さなかった。

ただ胸の中で繰り返す。

──大丈夫。

そう言い聞かせながら、葵は目を閉じた。

けれどその夜は、なかなか眠れなかった。