君が思い出になる前に

その週の金曜日。

葵は仕事を終え、会社を出たところでスマートフォンを確認した。

悠真からメッセージが届いている。

『今日もお疲れさま』

それだけだった。

葵は、

『悠真もお疲れさま』

と返信する。

画面を閉じようとして、指が止まった。

以前なら、このあとに何か続いていた。

『今日は何食べた?』

『明日は何する?』

『日曜日、どこ行こうか』

そんな何気ないやり取り。

最近は、そういう会話が少なくなった。

葵は少し考えたあと、自分から送った。

『引っ越し準備、進んでる?』

しばらくして、

『うん。だいぶ片付いたよ』

と返ってきた。

『大変そう』

『まあ、四年分だからな』

『私も手伝いたかったな』

送信してから、少しだけ後悔した。

けれど、悠真からの返事はすぐに届いた。

『気持ちだけで十分だよ』

葵は画面を見つめた。

「……気持ちだけ、か」

その言葉が、なぜか胸に引っかかった。



土曜日。

葵は友人と買い物をしていた。

店を出たところで、美咲が聞く。

「そういえば、彼氏さんとは?」

「最近ちょっと忙しくて」

「また?」

「うん。もうすぐ引っ越しだから」

「そっか」

美咲は少し考えてから言った。

「でも、葵も忙しいもんね」

「そうなんだよ」

葵は笑った。

「今週も仕事が大変で」

「彼氏さんも引っ越し準備で大変で」

「うん」

二人で顔を見合わせる。

「まあ、落ち着いたらまた会えるよ」

葵が言った。

美咲は頷いた。

「そうだね」

それ以上は何も言わなかった。

けれど、葵はその会話のあとから、妙に気持ちが落ち着かなかった。

落ち着いたら。

また今度。

時間ができたら。

最近、自分はそんな言葉ばかり使っている気がする。



夜。

葵は自宅で一人、夕食を食べていた。

テレビをつけても、内容が頭に入ってこない。

スマートフォンを見る。

悠真からの連絡はない。

葵は迷った。

電話をかけようか。

でも、もう遅い。

引っ越し準備で疲れているかもしれない。

そう考えて、やめた。

以前なら、そんなことを気にしなかった。

「今、電話していい?」

そんな一言を送っていた。

断られたら、そのとき考えればいい。

それくらい気軽だった。

なのに今は、電話をかけることさえ、相手の都合を考えてしまう。

葵はスマートフォンを置いた。

「……変なの」

小さく呟く。

何が変なのか、自分でも分からなかった。



翌朝。

午前八時。

スマートフォンが鳴った。

悠真からだった。

『おはよう』

『今日、少しだけ話せる?』

葵はすぐに返信した。

『もちろん』

ほどなくして、電話がかかってくる。

「もしもし」

『おはよう』

「おはよう」

悠真の声を聞くと、ほっとした。

「どうしたの?」

『いや、ちょっと声聞きたくなって』

「……そっか」

その一言が嬉しかった。

「私も」

少し沈黙する。

『葵、最近忙しい?』

「うん。来週のプレゼンが終われば少し楽になると思う」

『そっか』

「悠真は?」

『俺は引っ越し準備』

「大変?」

『うん。でも、もう少し』

「そっか」

また沈黙。

けれど、今度は葵が焦らなかった。

ただ、悠真の呼吸を聞いていた。

『……こうして話すの、久しぶりだな』

悠真が言った。

「そうだね」

『昔はもっと電話してたよな』

「毎晩してた時期もあったね」

『うん』

「懐かしい」

葵は笑った。

「でも、付き合いが長くなったら、こうなるんじゃない?」

『……そうかな』

「そうだよ」

葵は少し笑いながら答えた。

「だって、毎日話さなくても分かるじゃん」

電話の向こうで、悠真が黙った。

「悠真?」

『うん』

「どうしたの?」

『……いや』

少し間を置いて、

『葵は、そう思ってるんだなって』

「うん」

『そっか』

それ以上、悠真は何も言わなかった。



電話を切ったあと。

葵は窓辺に立った。

休日の街は、いつもより静かだった。

自分たちは大丈夫。

そう思っている。

でも。

悠真の「そっか」が、頭から離れなかった。

何気ない言葉だった。

それなのに、どこか寂しそうだった。

葵は胸の中で考える。

私は、何かを見落としているんだろうか。

そう思った瞬間、すぐに首を振った。

考えすぎだ。

悠真は父親のことで大変なんだ。

引っ越しもある。

疲れているだけ。

自分だって忙しい。

今は、二人とも余裕がないだけ。

きっとそうだ。

葵はカーテンを閉めた。

そして、いつものように仕事用のパソコンを開いた。

目の前の仕事に集中すれば、余計なことを考えなくて済む。

そう思った。

けれどその日、葵は何度も同じ文章を読み返していた。

気づき始めた違和感を、まだ言葉にしたくなかった。

それを言葉にしてしまったら。

何かが変わってしまう気がしたから。