君が思い出になる前に

月曜日の朝。

葵はいつもより早く目が覚めた。

まだ外は薄暗い。

枕元のスマートフォンを手に取ると、悠真からメッセージが届いていた。

『おはよう。昨日はよく眠れた?』

葵は少し笑った。

『おはよう。うん、寝たよ』

送信してから、昨夜のことを思い出す。

空になっていく悠真の部屋。

写真から消えていく家具。

もうすぐ、あの部屋には悠真はいなくなる。

そう考えると、胸の奥が少しだけざわついた。

けれど葵は、すぐに自分へ言い聞かせた。

遠距離になるだけ。

それだけだ。

四年間一緒にいたのだから、距離くらいで変わるはずがない。

葵はスマートフォンを置き、ベッドから起き上がった。


昼休み。

葵は会社近くの店で一人で昼食を取っていた。

同僚の美咲が向かいに座る。

「そういえば、彼氏さん、もうすぐ引っ越しなんだっけ?」

「うん。あと二週間くらい」

「寂しくない?」

「そりゃ少しはね」

葵は笑った。

「でも遠距離になるだけだから」

「遠距離かあ」

美咲が箸を止める。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ」

葵は迷いなく答えた。

「電話もできるし、休みの日に会いに行けるし」

「会いに行くの、結構大変じゃない?」

「まあ、それはそうだけど」

「今までみたいにはいかないよ?」

「分かってる」

葵は少し考えてから言った。

「でも、付き合って四年だよ。今さら距離ができたくらいで、どうにかなるような関係じゃないと思う」

美咲は葵を見つめた。

「……そういうものなのかな」

「そういうものだよ」

葵は笑った。

言葉にしてみると、本当に大丈夫な気がした。

大丈夫。

その理由を一つずつ挙げれば、いくらでも見つかる。

四年付き合っている。

お互いのことを知っている。

連絡も取れる。

会いに行ける。

だから大丈夫。

そう思った。



その日の夜。

葵が帰宅すると、悠真から電話がかかってきた。

「もしもし」

『今、いい?』

「うん」

葵はソファに座った。

『今日、引っ越し業者と話してきた』

「もう業者も決めるんだ」

『うん。来週には荷物を運ぶ予定』

「そっか」

葵は少し黙った。

「……本当にもうすぐなんだね」

『うん』

悠真の声も静かだった。

『あっという間だったな』

「そうだね」

少しの沈黙。

葵は明るく言った。

「でも、引っ越したら遊びに行くからね」

『うん』

「観光案内してよ」

『俺、地元だからって詳しいわけじゃないけど」

「いいじゃん。適当に案内して」

『分かった』

悠真が笑う。

その声を聞いて、葵も笑った。

「楽しみになってきた」

『本当に?』

「うん」

葵は答えた。

「新しい場所を見られるし」

『そっか』

「それに、会えるんだから」

悠真の返事が止まった。

「悠真?」

『……うん』

「どうしたの?」

『いや、なんでもない』

悠真はそう言った。

葵は少しだけ不思議に思ったが、追及しなかった。

「じゃあ、今度会ったときに予定決めようよ」

『今度って、日曜?』

「うん」

『……ごめん』

「え?」

『日曜、難しくなった』

葵は黙った。

「病院?」

『それもある』

「そっか」

『父さんのことで、親戚とも話すことになって』

「うん。それなら仕方ないよ」

『本当にごめん』

「いいよ」

葵は笑った。

「また今度会えばいいし」

その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ引っかかった。

また今度。

最近、この言葉を何度使っただろう。

でも、葵はその違和感を深く考えないようにした。

「じゃあ、来週は?」

『来週は……引っ越しの準備がある』

「そっか」

『再来週なら、引っ越しが終わってから落ち着いて会えると思う』

「うん。じゃあ再来週ね」

『うん』

電話を切る。

葵はスマートフォンをテーブルに置いた。

再来週。

その頃には、悠真はもう地元に戻る直前かもしれない。

そう考えると、少し寂しかった。

それでも。

「大丈夫」

葵は呟いた。

遠距離になるだけ。

また会える。

電話もできる。

何も変わらない。

そう思いながら、キッチンへ向かった。



同じ頃。

悠真は電話を切ったスマートフォンを見つめていた。

葵は最後まで責めなかった。

「仕方ないよ」

「また今度」

「再来週ね」

どれも優しい言葉だった。

だからこそ、悠真は苦しくなった。

葵はまだ信じている。

二人がこのまま続いていくことを。

自分も、それを否定できない。

けれど、もう同じ気持ちで未来を見ているわけではなかった。

悠真は窓の外を見る。

暗い空に、いくつかの明かりが浮かんでいる。

「……俺は、いつからこうなったんだろう」

答えは分からなかった。

大きな喧嘩をしたわけでもない。

誰かを好きになったわけでもない。

ただ、気づけば。

葵と一緒にいる未来を思い浮かべようとしても、その先に何も見えなくなっていた。

それでも、今すぐそれを伝える勇気はなかった。

もう少しだけ。

もう少しだけ、このままでいたい。

悠真はそう思った。

そして、机の上に置かれた引っ越しの予定表へ目を向けた。

日付は、少しずつ近づいていた。