君が思い出になる前に

土曜日の朝。

葵はいつもより少し遅く起きた。

カーテンを開けると、柔らかな日差しが部屋に入ってくる。

休日。

本来なら、悠真と会う日だった。

けれど今日は、それぞれ予定があった。

悠真は引っ越しの準備。

葵は来週のプレゼン資料の作成。

以前なら、どちらかの予定があっても一緒に過ごした。

葵が仕事をしている横で、悠真が本を読んでいる。

そんな休日もあった。

「同じ場所にいるだけでいい」

いつか悠真がそう言っていたことを、葵は思い出した。

今は、それぞれ別の場所で、それぞれのことをしている。

それでも、葵は特に気にしなかった。

夜になれば連絡を取ればいい。

来週には会える。

そして、その先もきっと。

そう思っていた。



昼過ぎ。

葵がパソコンに向かっていると、スマートフォンが震えた。

悠真から写真が送られてきた。

段ボールが並んだ部屋。

『だいぶ片付いてきた』

その一言と一緒に、部屋の写真が一枚。

葵は写真を拡大した。

本棚が空になっている。

テレビの横に置いてあった小さな観葉植物もない。

壁に飾っていた写真も外されている。

「……本当に引っ越すんだ」

思わず声が漏れた。

これまでも分かっていた。

悠真が地方へ戻ること。

仕事を辞めること。

引っ越しの日が近づいていること。

全部知っていた。

それなのに、写真を見た瞬間、初めて実感した気がした。

『すごいね』

葵は返信する。

少し考えてから、

『私も手伝いに行こうか?』

と続けた。

既読がつく。

『大丈夫。もうほとんど終わったから』

『そっか』

葵はそれ以上何も送らなかった。

パソコンの画面に目を戻す。

けれど、さっきまで集中できていた資料の文字が、頭に入ってこない。

もう一度、スマートフォンを見る。

写真はそのままだった。

葵は画面を閉じた。

「……あと二週間」

小さく呟いた。



夕方。

悠真は一人で段ボールを整理していた。

部屋は以前よりずっと広く感じる。

家具が減ったわけではない。

ただ、物がなくなっただけだった。

棚から取り出した本を箱に入れていると、奥から小さな箱が出てきた。

蓋を開ける。

中には、二人で旅行したときのチケットや、映画の半券。

遊園地の入場券。

水族館のパンフレット。

どれも、四年間の中で二人が過ごした時間だった。

悠真は一枚の映画の半券を手に取った。

日付を見る。

付き合い始めて半年くらいの頃。

その日は映画を観たあと、雨が降ってきた。

二人で走って駅まで向かった。

葵は笑いながら、

「濡れるなら最初から傘買えばよかったね」

と言っていた。

そんなことまで覚えている。

悠真は半券を見つめた。

思い出は、なくならない。

荷物を捨てても。

部屋を離れても。

距離ができても。

それは残る。

だからこそ、少し怖かった。

自分がこれから離れていく場所に、葵との思い出があまりにも多く残っていることが。

悠真は半券を箱に戻した。

そして、蓋を閉じる。



夜。

葵から電話がかかってきた。

「もしもし?」

『今、大丈夫?』

「うん」

悠真はベッドに腰を下ろした。

『今日、結構片付いたんでしょ?』

「うん。だいぶ」

『写真見たよ』

「部屋、何もなくなってきただろ」

「うん。なんか広く見えた」

悠真は笑った。

「物がなくなっただけだよ」

「そうなんだけど……」

葵は少し黙った。

「なんか、変な感じ」

「何が?」

「もうすぐ、ここからいなくなるんだなって」

その言葉に、悠真は黙った。

葵がそんなことを言うのは珍しかった。

「寂しい?」

「……ちょっとだけ」

葵は素直に答えた。

悠真の胸が痛む。

「でも、遠距離になるだけだよね」

葵は続けた。

「今までだって毎日会ってたわけじゃないし」

「そうだな」

「電話もできるし」

「うん」

「休みが合えば会いに行くし」

「うん」

一つ一つ確認するように、葵は言った。

悠真は、そのたびに頷いた。

「だから大丈夫」

葵が言った。

その声は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

「……そうだな」

悠真はそれ以上何も言えなかった。


電話を切ったあと。

葵はベッドに横になった。

天井を見上げる。

遠距離。

その言葉を、何度も頭の中で繰り返す。

離れて暮らすだけ。

それなら、きっと大丈夫。

そう思う。

けれど、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。

葵はスマートフォンを手に取る。

悠真から送られてきた部屋の写真を開いた。

空になった本棚。

外された写真。

片付けられた部屋。

葵は写真を見つめる。

そして、ふと思った。

──私たちの時間も、こんなふうに片付けられていくのかな。

すぐに、その考えを打ち消した。

「何考えてるんだろ」

苦笑する。

そんなわけない。

引っ越しをするだけだ。

別れるわけじゃない。

まだ何も決まっていない。

葵はスマートフォンを伏せた。

そして目を閉じる。

けれど眠りにつくまで、なかなかその写真が頭から離れなかった。