君が思い出になる前に

日曜日の午後三時。

葵は約束の駅に着いた。

少し早く着いたので、駅前のベンチに腰を下ろす。

スマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いていた。

『今向かってる。少し遅れるかも』

『分かった。急がなくていいよ』

返信してから、葵は駅前を眺めた。

休日の駅は人が多い。

家族連れや、友達同士で歩く人。

腕を組んで歩く恋人たち。

そんな人たちを見ていると、ふと昔の自分たちを思い出した。

付き合い始めたばかりの頃は、休日が待ち遠しかった。

金曜日の夜になると、土曜日は何をしようかと話した。

予定なんてなくてもよかった。

一緒にいられれば、それだけで楽しかった。

「お待たせ」

顔を上げると、悠真が立っていた。

「ううん。私も今来たところ」

いつもの言葉。

葵は立ち上がった。

「病院、大丈夫だった?」

「うん。今日は父さん、少し元気だった」

「よかった」

葵はほっとした。

「どこ行く?」

悠真が聞く。

葵は少し考えた。

「駅の向こうに、新しいカフェできたの知ってる?」

「知らない」

「じゃあ、行ってみようよ」

二人は並んで歩き始めた。


カフェは思っていたより混んでいた。

二人で窓際の席に座り、飲み物を注文する。

「最近、仕事どう?」

悠真が聞いた。

「忙しいよ。来週プレゼンがあるから」

「そっか」

「でも、終わったら少し落ち着くと思う」

「そうなんだ」

悠真は笑った。

葵も笑う。

それから、少し沈黙した。

葵は窓の外を見る。

何か話さなきゃいけない。

そう思った。

でも、何を話せばいいのか分からなかった。

以前なら、沈黙なんて気にしなかった。

話題なんていくらでもあった。

けれど今は、会話が途切れると、その空白が妙に気になった。

「そういえば」

葵が口を開く。

「引っ越し、いつだっけ?」

「再来週」

「もうすぐだね」

「うん」

「荷造り、大変そう」

「結構大変」

悠真が苦笑する。

「四年分だからな」

その言葉に、葵も笑った。

「私の荷物も結構ある?」

「あるよ」

「じゃあ、手伝いに行こうか?」

冗談半分で言った。

すると悠真は少し考えてから、

「……ありがとう」

と答えた。

葵は笑う。

「何その間」

「いや」

悠真は視線を落とした。

「葵も仕事忙しいだろ」

「大丈夫だよ」

葵はすぐに答えた。

「こういうときくらい、彼女らしいことしないと」

その言葉を聞いて、悠真が顔を上げる。

「彼女らしいこと?」

「うん」

葵は笑った。

「だって、もうすぐ遠距離になるんだよ。今までみたいに会えなくなるんだから」

「……そうだな」

「だから、今のうちにいっぱい会おうよ」

葵は明るく言った。

「引っ越したあとも、私が会いに行くから」

悠真は何も言わなかった。

「悠真?」

「うん」

「どうしたの?」

「いや……」

悠真は少しだけ笑った。

「葵らしいなと思って」

「何それ」

葵も笑った。

その笑顔を見て、悠真も笑う。

けれど、二人の間には、言葉にならないものが残った。



カフェを出ると、空は薄い雲に覆われていた。

「少し歩く?」

悠真が聞く。

「うん」

二人は駅とは反対方向へ歩いた。

しばらくすると、小さな公園が見えてきた。

「あ」

葵が足を止める。

「ここ、来たことあるよね」

悠真も公園を見る。

「覚えてる」

「付き合い始めた頃」

「うん」

二人はベンチに座った。

葵は周囲を見渡した。

遊具も、植え込みも、あの頃とほとんど変わっていない。

「懐かしいね」

「そうだな」

「ここで、何時間くらい話してたんだっけ」

「たぶん三時間くらい」

「そんなに?」

「葵が帰りたくないって言ったから」

「私が?」

「覚えてない?」

葵は笑った。

「全然覚えてない」

「俺は覚えてるよ」

悠真はそう言って、少しだけ遠くを見る。

葵は横顔を見つめた。

「悠真って、昔のことよく覚えてるよね」

「そうかな」

「うん」

葵は笑った。

「私は結構忘れてるのに」

「……そうかもな」

その返事に、葵は少しだけ引っかかった。

けれど、深く考えなかった。

「でも、思い出ってそんなものじゃない?」

「そうだな」

「全部覚えてなくてもいいよね」

「……うん」

悠真は頷いた。

そのとき、葵のスマートフォンが鳴った。

会社からだった。

画面を見て、葵は少し迷う。

「出る?」

悠真が聞く。

「うん。ごめん」

葵は電話に出た。

仕事の確認だった。

「はい。今大丈夫です」

「分かりました。資料、今日中に確認します」

「はい。ありがとうございます」

電話を切る。

「ごめんね」

「いいよ」

「仕事のことだった」

「分かってる」

悠真は優しく笑った。

その笑顔に、葵は安心する。

「やっぱり悠真は優しいね」

「そう?」

「うん」

葵は立ち上がった。

「そろそろ行こうか」

「うん」

二人は駅へ向かって歩き出した。


改札前。

「今日はありがとう」

葵が言う。

「俺も」

「来週はもう少し長く会おうね」

「……うん」

「約束だよ」

葵が笑う。

悠真も笑って頷いた。

「約束」

葵はその言葉を聞いて、満足そうに改札を通った。

振り返る。

悠真はまだそこにいた。

葵は手を振った。

悠真も手を振り返す。

そして葵の姿が人混みに消えていく。

一人になった悠真は、しばらくその場から動かなかった。

「約束……か」

小さく呟く。

昔なら、約束という言葉に未来を感じていた。

けれど今は。

その言葉が、少しだけ胸に重かった。