君が思い出になる前に

月曜日の朝。

葵はいつもより少し早く目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めていると、枕元のスマートフォンが震えた。

悠真からだった。

『おはよう。今日も仕事頑張って』

短いメッセージ。

葵は微笑みながら、

『おはよう。悠真もね』

と返した。

それだけで、なんとなく一日が始まる気がした。

以前なら、そこから何往復かやり取りをしていた。

今日は何時に起きたとか、朝ご飯は何を食べたとか。

そんな取り留めのない話をしていた。

今は、これくらいでいい。

葵はそう思った。

長く付き合っていれば、毎日のように話さなくても分かり合える。

むしろ、何も言わなくても安心できる関係になったのだ。

そう考えて、葵はベッドから起き上がった。


その日の昼休み。

同僚の美咲が、葵のデスクまでやってきた。

「高橋、今度の日曜って予定ある?」

「日曜?」

「うん。みんなでランチ行こうって話してて」

葵は少し考えた。

日曜日は悠真と会う約束をしている。

「ごめん。たぶん彼氏と会う」

「そっか。最近ちゃんと会ってる?」

「うん」

葵はすぐに答えた。

「まあ、忙しいから頻繁には会えないけど」

「四年だっけ?」

「そう。もう四年」

「長いねえ」

美咲が感心したように言う。

「そのくらい付き合ってたら、もう家族みたいな感じ?」

「そうかも」

葵は笑った。

家族。

その言葉が、妙にしっくりきた。

一緒にいることが当たり前で、いちいち確認しなくても分かる。

会えない日があっても、次に会えばいつもの二人に戻れる。

それが恋人というものだと思っていた。

「じゃあ、日曜楽しんでね」

「うん」

美咲が戻っていく。

葵は再びパソコンに向かった。

画面には、来週のプレゼン資料が表示されている。

その仕事に集中しているうちに、日曜日のことは頭の隅へ追いやられていった。



水曜日の夜。

葵が帰宅したのは、午後九時を過ぎていた。

玄関で靴を脱ぎながら、大きく息を吐く。

「疲れた……」

鞄を置き、冷蔵庫を開ける。

簡単に食べられるものを探していると、スマートフォンが鳴った。

悠真からの電話だった。

「もしもし?」

『今、大丈夫?』

「うん。大丈夫」

『仕事終わった?』

「さっき帰ってきたところ」

『そっか。お疲れさま』

その声を聞くだけで、少し気持ちが緩んだ。

「悠真は?」

『俺は荷物整理してた』

「もう始めてるんだ」

『うん。思ったより荷物多くて』

「四年分だもんね」

『そうだな』

少し沈黙があった。

葵は冷蔵庫から飲み物を取り出す。

「ねえ、日曜日どうする?」

『日曜日?』

「会う約束してたじゃん」

『ああ……』

悠真の声が少しだけ低くなった。

『ごめん。日曜、午前中に父さんの病院に行くことになって』

「そっか」

『午後なら大丈夫だと思う』

「何時くらい?」

『たぶん三時くらい』

葵は時計を見る。

三時。

そのあと夕食を食べるとしても、遅くまで一緒にはいられない。

それでも、会えるならいいと思った。

「じゃあ、三時にしよう」

『うん』

「いつもの駅でいい?」

『分かった』

電話を切る。

葵は冷蔵庫から取り出した飲み物を一口飲んだ。

少しだけ寂しい。

けれど、仕方ない。

悠真には悠真の事情がある。

それに、これからはもっと会いにくくなる。

だからこそ、今は会える時間を大切にすればいい。

葵はそう思った。



同じ頃。

悠真は段ボールの前に座っていた。

電話を切ったスマートフォンを、しばらく手の中で眺める。

日曜日。

葵と会う。

それは嬉しい。

けれど、最近は「会う約束」をすること自体が、少し不思議に感じるようになっていた。

四年前は、約束なんて必要なかった。

「明日どうする?」

そう聞けば、

「一緒にいようか」

それだけで決まった。

今は違う。

二人の予定表を確認して、空いている時間を探して、その中から会える場所と時間を決める。

もちろん、付き合いが長くなればそうなるものなのかもしれない。

悠真自身も、そう思おうとしていた。

けれど。

「空いてる時間に会うのが、いつから普通になったんだろうな」

誰もいない部屋で、悠真は呟いた。

返事はない。

目の前には、まだ開けていない段ボールがある。

その横には、古い写真立て。

写真の中では、葵が笑っていた。

悠真は写真立てを手に取る。

「……葵」

名前を呼んだだけで、胸の奥が少し痛んだ。

嫌いになったわけじゃない。

会いたくないわけでもない。

むしろ、今でも会いたい。

それなのに、会うたびに何かが違う。

悠真は、その「何か」をまだ言葉にできなかった。

ただ、一つだけ分かっていることがあった。

葵は、二人の未来をまだ信じている。

そして自分は、その未来を同じようには思い描けなくなっている。

その違いを、いつか伝えなければならない。

そう思いながらも、悠真は写真立てを元の場所へ戻した。

今はまだ。

もう少しだけ、このままでいたかった。