君が思い出になる前に

金曜日の夜。

葵は仕事を終えると、駅へ向かう電車の中でスマートフォンを開いた。

今週は忙しかった。

新しい案件が一つ増え、来週にはクライアントとの打ち合わせも入っている。

気がつけば、悠真とは一週間近く会っていなかった。

メッセージのやり取りはしている。

朝に「おはよう」。

夜に「お疲れさま」。

それだけの日も多かった。

以前なら、そんな日が続けば葵から電話をかけていた。

けれど最近は、悠真も忙しいだろうと思って、あえて連絡を控えることが増えていた。

嫌われたわけじゃない。

そう思っている。

ただ、二人とも少し忙しいだけ。

四年も付き合っていれば、毎日会わなくても大丈夫だ。

葵にとっては、それが自然なことだった。

駅に着いたところで、悠真からメッセージが届いた。

『明日、少し会えるよ』

葵は思わず笑った。

『ほんと?』

すぐに返信する。

『うん。昼過ぎなら』

葵は少し考えた。

土曜日は午前中に仕事をしようと思っていた。

けれど、悠真に会えるなら予定を変えてもいい。

『じゃあ、14時くらいにいつものところでどう?』

『分かった』

短い返事だった。

でも、葵にはそれで十分だった。

会える。

それだけで嬉しかった。




翌日。

待ち合わせ場所へ向かいながら、葵は久しぶりに少しだけ浮かれていた。

駅前の時計を見る。

約束の五分前。

悠真の姿はまだ見えない。

以前は、待ち合わせなら必ず早めに来ていた。

自分もそうだった。

今は、どちらも少し遅れるくらいなら気にしなくなった。

そんなことを考えていると、後ろから声がした。

「葵」

振り返る。

悠真が立っていた。

「ごめん。待った?」

「ううん。今来たところ」

いつものやり取り。

それなのに、なぜか少しだけ懐かしく感じた。

「どこ行く?」

悠真が尋ねる。

葵は少し考えてから笑った。

「久しぶりに、あの喫茶店行かない?」

付き合い始めた頃、二人がよく通っていた店だった。

悠真も頷いた。

「いいね」

二人は並んで歩き始めた。

駅から店までは、十分ほど。

以前なら、その十分間にもいろんな話をした。

仕事のこと。

友達のこと。

テレビで見たニュース。

くだらない話。

笑って、ふざけて。

けれど今日は、会話が途切れる時間が多かった。

葵は気になって、何度か口を開きかけた。

「最近、仕事どう?」

「まあまあかな。葵は?」

「忙しいよ。でも、来月くらいには少し落ち着くと思う」

「そっか」

また沈黙。

葵は前を向いた。

気まずいわけではない。

ただ、以前とは違う。

そのことを、少しだけ意識した。




喫茶店に入ると、店員が二人を見て笑った。

「お久しぶりですね」

葵が驚いて顔を上げる。

「覚えてたんですか?」

「もちろんですよ。よくお二人で来られてましたから」

悠真が小さく笑う。

「そうでしたね」

窓際の席に座る。

メニューを開くと、葵は昔と同じものを注文した。

「カフェラテ」

悠真はコーヒー。

飲み物が運ばれてくる。

葵はカップを手に取った。

一口飲んで、ふと笑う。

「そういえば、最初にここ来たとき、私コーヒー飲めなかったよね」

「うん」

「苦すぎて」

「砂糖三つ入れてた」

「そんなに?」

「入れてた」

悠真が笑った。

その笑顔を見て、葵も笑う。

久しぶりだった。

こんなふうに、自然に笑った気がした。

「懐かしいね」

葵が言う。

「うん」

悠真はカップを見つめた。

「四年前か」

「もうそんなになるんだね」

葵は笑った。

「早かったなあ」

「……うん」

悠真の返事が、少しだけ遅れた。

葵は気づかなかった。

「また来ようよ」

そう言ってから、葵は続けた。

「悠真が戻ってきたときに」

その言葉に、悠真の表情がわずかに変わった。

「戻ってきたとき?」

「うん。お父さんのことが落ち着いたら、またこっちに戻ってくるんでしょ?」

悠真はすぐには答えなかった。

「……まだ分からない」

「そっか。でも、いつか戻ってくるかもしれないじゃん」

葵は明るく言った。

「そのとき、またここ来ようよ」

悠真は少しだけ笑った。

「そうだね」

その返事に、葵は安心した。

やっぱり大丈夫。

離れても、また会える。

今までと同じように。

そう思った。




店を出ると、夕方の風が少し冷たかった。

「今日はどうする?」

悠真が尋ねる。

葵は時計を見る。

「ごめん。今日、夕方から会社の人と打ち合わせがあるんだ」

「そっか」

「来週なら、もう少し時間取れるよ」

「来週?」

「うん。日曜日なら空けられる」

悠真は一瞬だけ黙った。

それから、

「分かった」

と答えた。

「じゃあ、また連絡するね」

「うん」

二人は駅で別れた。

葵は手を振って、そのまま改札へ向かう。

少し歩いてから、振り返った。

悠真はまだそこに立っていた。

目が合う。

悠真は小さく手を上げた。

葵も笑って手を振り返す。

そして改札を抜けた。

電車に乗り込んだ葵は、窓の外を見ながら思う。

来週はもっとゆっくり会おう。

今は忙しいだけ。

遠距離になったって、電話はできる。

休みの日に会いに行くことだってできる。

四年間一緒にいたのだから。

大丈夫。

きっと、これからも。

葵はそう思っていた。

その頃、駅に残った悠真は、一人で反対方向へ歩き始めていた。

ポケットの中でスマートフォンが震える。

母親からだった。

『お父さん、今日は少し調子がいいみたい』

悠真は画面を見つめる。

そして短く、

『よかった』

と返信した。

スマートフォンをしまう。

歩きながら、さっきの葵の言葉を思い出す。

──また来ようよ。

──いつか戻ってきたときに。

悠真は小さく息を吐いた。

「……いつか、か」

その言葉だけが、なぜか胸に残っていた。