君が思い出になる前に

土曜日の午後、葵は会社のデスクで資料を見つめていた。

来週のプレゼンに向けた企画書。

修正したいところはいくつもある。

「高橋さん、これ今日中に見てもらえる?」

隣の席から声をかけられ、葵は画面から顔を上げた。

「うん。今やるね」

時計を見る。

午後三時を少し過ぎていた。

本当なら、今日は悠真と会う予定だった。

けれど、昨夜になって悠真から連絡が来た。

『ごめん。引っ越しの準備で、午前中に少し実家と話したいことがある』

葵はすぐに返信した。

『大丈夫だよ。じゃあ、午後からにしよう』

そのあと、悠真から返ってきたのは、

『うん。また時間決めよう』

という短いメッセージだった。

結局、今日の予定は決まらないままになっていた。

葵はスマートフォンを伏せる。

「……まあ、引っ越し前だしね」

独り言のように呟いた。

悠真が故郷へ戻るまで、あと三週間。

仕事を辞めるための手続きや荷造り、父親のこと。

今の悠真が忙しいのは分かっている。

それに比べれば、自分の仕事はまだ調整できる。

そう思っていた。

だから、会えないことを寂しいとは感じても、不安にはならなかった。

四年も付き合っている。

一日、二日会えないくらいで何かが変わるわけじゃない。

葵はそう信じていた。



午後五時を過ぎた頃、ようやく企画書の修正が終わった。

パソコンを閉じ、伸びをする。

窓の外は、いつの間にか夕暮れになっていた。

スマートフォンを見る。

悠真からの連絡はない。

葵は少し迷ってから、自分からメッセージを送った。

『今日、少しだけでも会う?』

送信してから、すぐに既読がついた。

けれど、返事は来ない。

葵はスマートフォンを鞄に入れた。

「まあ、忙しいよね」

そう言い聞かせながら、会社を出た。

駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。

『ごめん。今日は無理そう』

続けて、

『また今度、ゆっくり会おう』

と届く。

葵は立ち止まった。

また今度。

最近、よく見る言葉だった。

けれど、その言葉に深い意味があるとは思わなかった。

『うん。無理しないで』

返信を送る。

少しして、悠真から、

『ありがとう』

とだけ返ってきた。

葵はスマートフォンをしまった。

そして、そのまま駅へ向かって歩き出す。

胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが残った。

でも、それ以上ではなかった。




その夜。

悠真は引っ越しを控えた部屋で、一人、段ボールを組み立てていた。

部屋の隅には、すでにいくつかの箱が積まれている。

キッチン用品。

本。

冬物の服。

四年間で増えた荷物は、思っていた以上に多かった。

棚の奥から、古い写真が出てきた。

二人で撮った写真。

付き合い始めた頃のものだった。

河川敷で撮った一枚。

葵は今より少し幼く見える。

隣にいる自分も、今よりずっと楽しそうに笑っていた。

悠真は写真を手にしたまま、しばらく動かなかった。

スマートフォンを見る。

葵から届いた、

『うん。無理しないで』

というメッセージ。

責める言葉はない。

寂しいとも書いていない。

いつもの葵らしい、優しい返信だった。

だからこそ、悠真は胸の奥が苦しくなった。

「……優しいんだよな」

小さく呟く。

葵は何も悪くない。

仕事を頑張っている。

自分のことも気にかけてくれている。

四年間、一緒に過ごしてきた。

大切に思っている。

それなのに。

悠真は写真に視線を戻した。

写真の中の葵は、こちらを見て笑っている。

その笑顔を見ながら、悠真はふと思った。

──俺が会いたいのは、この頃の葵なのか。

それとも。

今ここにいる葵なのか。

答えは、すぐには出なかった。

ただ、写真を見つめている時間だけが長くなっていった。

やがて悠真は写真を箱にしまった。

捨てることはできなかった。

けれど、すぐに取り出すこともできなかった。

段ボールの蓋を閉じる。

ガムテープを貼る音が、静かな部屋に響いた。




月曜日。

葵は朝から会議だった。

新しい案件の担当が決まり、チーム内は慌ただしく動いている。

「高橋さん、この案件お願いできる?」

上司から声をかけられ、葵は資料を受け取った。

「はい。やります」

「助かるよ。期待してる」

その言葉が嬉しかった。

もっと頑張ろうと思った。

仕事が落ち着いたら、悠真との時間も作ればいい。

今は少し忙しいだけ。

悠真が地元へ戻るまでに、ちゃんと時間を取ればいい。

そう考えながら、葵はパソコンを開いた。

まだ、間に合う。

その言葉を、葵は何度も心の中で繰り返していた。

一方で、悠真のほうでは。

引っ越しの日が、一日ずつ近づいていた。