君が思い出になる前に

月曜日の朝。

葵はいつも通り、満員電車に揺られていた。

スマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いている。

『昨日はありがとう。映画、楽しかった』

短い文章だった。

葵は少し笑って、すぐに返信する。

『私も楽しかった。次は何観ようか』

送信してから、仕事のメールを確認する。

今週は大きなプレゼンが控えている。

資料の修正と、クライアントとの打ち合わせ。

頭の中で予定を組み直していると、また悠真からメッセージが届いた。

『来週の日曜、会える?』

葵はカレンダーを開いた。

来週の日曜日。

午前中に社内の打ち合わせが入っている。

その後も、資料の最終確認をすることになっていた。

けれど、夕方からなら空いている。

『夕方なら大丈夫だよ』

そう送ると、すぐに返信が返ってきた。

『じゃあ、夕方から会おう』

『うん。楽しみにしてる』

そこで会話は終わった。

葵はスマートフォンをバッグにしまい、仕事へと意識を切り替えた。

夕方から会える。

それなら十分だと思った。

一日中一緒にいる必要なんてない。

付き合って四年になるのだから、そんなものだろう。

むしろ、仕事も恋愛も無理なく続けられるほうがいい。

葵はそう考えていた。

その日の夜。

悠真は実家に電話をしていた。

「うん。今のところは大丈夫」

電話の向こうで、母親が何かを話している。

父親の病院のこと。

今後の治療のこと。

退院後の生活のこと。

悠真は黙って聞いていた。

「……分かった。今週末、帰るよ」

電話を切ったあと、しばらく画面を見つめる。

今週末、実家に帰る。

そして来月には、今の部屋を引き払う。

荷物は少しずつ整理している。

四年間暮らした街を離れる準備は、もう始まっていた。

ふと、葵との約束を思い出す。

来週の日曜日。

夕方から会う。

悠真はカレンダーを眺めた。

その予定だけが、妙に小さく見えた。

昔なら、一日空いている日を見つければ、朝から会う約束をしていた。

どこへ行くかを決めるだけで時間がかかった。

けれど今は違う。

お互いに予定があって、その隙間に会う。

それが悪いことだとは思わない。

葵が仕事を頑張っていることも知っている。

自分だって、父親のことで頭がいっぱいになっている。

だから仕方がない。

そう思おうとした。

それでも。

「夕方から、か……」

誰もいない部屋で、悠真は小さく呟いた。

その声は、自分でも驚くほど寂しく聞こえた。

一方、葵は自宅で仕事の資料を確認していた。

時計を見る。

もう十一時を過ぎている。

明日も早い。

そろそろ寝なければと思ったところで、スマートフォンが震えた。

悠真からだった。

『もう寝る?』

『うん。明日早いから』

少し考えてから、葵は続けた。

『悠真は?』

『俺もそろそろ寝ようかな』

『そっか。じゃあ、おやすみ』

『おやすみ、葵』

画面を閉じる。

以前なら、ここから電話になった。

「ちょっとだけ話さない?」

そんなふうに、どちらからともなく声をかけていた。

眠くなるまで話して、気づけば日付が変わっている。

次の日に眠そうな顔をしながら、それでも楽しかったと思っていた。

そんな夜が、いつの間にかなくなっていた。

葵はベッドに横になった。

寂しいとは思わなかった。

悠真との関係が変わったとも思っていない。

ただ、生活が忙しくなっただけ。

お互いに大人になっただけ。

そう思って目を閉じる。

けれど眠りにつく直前、ふと気になった。

──次に、ゆっくり話したのはいつだっただろう。

考えようとして、やめた。

明日も仕事がある。

今は眠ることのほうが大切だった。

同じ夜。

悠真も布団に入っていた。

天井を見ながら、来月の引っ越しのことを考える。

そして、その先にある生活を考えた。

父親のそばにいること。

実家の手伝いをすること。

仕事をどうするか決めること。

やらなければならないことはいくらでもある。

その中に、葵との未来を置こうとすると。

なぜか、うまく場所が見つからなかった。

悠真は目を閉じた。

まだ何も決まっていない。

だから、今は考えなくてもいい。

そう自分に言い聞かせる。

けれど胸の奥には、ひとつだけ消えない問いが残っていた。

自分たちは、いつからこんなふうになったのだろう。

答えを探すには、二人とも忙しすぎた。

そして二人とも、それを口にするには優しすぎた。