昨日、僕を殺したのは誰ですか

最終章 昨日、僕を殺したのは誰ですか

 九月五日。

 朝が来ても町は何事もなかったように動いていた。

 通学路では中学生が自転車を押しながら笑い、駅前のパン屋にはいつもの行列ができ、信号が変われば人々は自然に道路を渡っていく。その光景だけを見れば、この町の地下に存在しない教室があり、何十年ものあいだ人の名前や記憶が入れ替えられてきたなど誰も信じないだろう。

 けれど悠真には、もう以前と同じ景色には見えなかった。

 誰かとすれ違うたび、その人が本当にその名前で生まれたのかと考えてしまう。家族と歩く子供を見れば、その記憶は本当に本人のものなのかと疑いたくなる。

 それでも昨日までとは違うことが一つあった。

 疑っても、自分を見失わなくなっていた。

 高城悠真。

 それが今の自分の名前だ。

 けれど神谷蓮として生きてきた時間も自分のものだった。

 どちらか一方を偽物にする必要はない。

 そのことだけは、もう誰にも決めさせるつもりはなかった。

 ◇

 午前八時を過ぎた頃、悠真は家のリビングにいた。

 テーブルの向こうには美月が座り、その隣には母がいる。

 母の名はまだ公的には神谷香織のままだったが、彼女自身は少しずつ雨宮香澄としての記憶を取り戻し始めていた。

「香澄って呼んだ方がいい?」

 悠真が聞くと母は困ったように笑った。

「急に変えられると私も困るかな」

「じゃあ母さんで」

「それが一番いい」

 美月がトーストをかじりながら口を挟む。

「私もずっとお母さんでいいと思う」

「美月は最初から名前変わってないもんな」

「そこだけは優秀」

「何に対してだよ」

 久しぶりに普通の会話だった。

 それが少し不思議だった。

 昨日までなら、この何でもない朝の中にも何か仕掛けがあるのではないかと疑っていたはずなのに、今はむしろ、こういう時間こそ守らなければならないのだと思えた。

 母がコーヒーカップを置く。

「今日、本当に学校へ行くの?」

「ああ」

「昨日の話が本当なら、今夜また屋上で何か起きるんでしょう」

「起きるんじゃなくて、起こるはずだったことを止めに行く」

 母はしばらく悠真を見つめていた。

「止められるの?」

「分からない」

「またそれ?」

 美月が笑う。

 悠真も笑った。

「でも今回は分からないまま行く。前みたいに誰かの言うことを全部信じたりしない」

 母は何も言わず、最後に小さく頷いた。

 ◇

 学校へ着くと、校門の前で湊が待っていた。

 結城湊という名前になってから一日も経っていないのに、本人はすでに慣れ始めているようだった。

「おはよう、高城」

「その呼び方やめろ」

「じゃあ悠真」

「それもお前が前に名乗ってた名前だからややこしい」

「じゃあ蓮」

「もっとややこしい」

 湊は笑った。

「名前って面倒だな」

「今さら気づいたのかよ」

 二人で校舎へ向かう。

 途中、紗奈が合流した。

 昨日まで雨宮栞だった少女は、水城紗奈という自分の名前を取り戻している。

「二人とも普通に登校してるの変な感じ」

「それはこっちも同じ」

「教室どうなってるかな」

 紗奈が少し不安そうに言う。

 悠真も同じことを考えていた。

 ◇

 二年三組。

 扉を開ける。

 机。

 三十三。

 いや。

 三十二。

「戻ってる」

 湊。

 席。

 紗奈の机もある。

 湊の机もある。

 悠真の机もある。

 名札。

 すべて本来の名前。

 高城悠真。

 結城湊。

 水城紗奈。

「クラスの人数は」

 紗奈が名簿を見る。

 三十二人。

「普通」

 三上が後ろから入ってきた。

「少なくとも今はな」

「先生」

「校長は?」

 三上の表情が少し曇る。

「桐島修司としての記録は残ってる。ただ本人は今朝から見つからない」

「消えた?」

「分からない」

「朔は?」

「図書室」

 悠真が眉をひそめる。

「図書室?」

「ああ。本人がそこにいたいらしい」

 ◇

 図書室へ行くと、雨宮朔は窓際の席で本を読んでいた。

 制服姿ではなく、学校が貸したらしい簡単な服を着ている。

「似合わないな」

 悠真。

 朔が本から顔を上げる。

「君に言われたくない」

「何読んでる」

「普通の小説」

「写真撮らなくていいの」

 朔は机の上を見る。

 そこにはカメラがない。

「今のところ必要ない」

「落ち着かない?」

「かなり」

 紗奈が隣に座る。

「でも、これから慣れるしかないよ」

 朔。

「そうだね」

 悠真はしばらくその姿を見ていた。

 何十年も誰かを忘れないために写真を撮り続けてきた少年が、今は普通の本を読んでいる。

 それだけで少し救われる気がした。

「今夜」

 悠真。

「来る?」

 朔。

「行く」

「観測者じゃなくても?」

「だから行く」

 ◇

 昼休み。

 三上が屋上の鍵を確認した。

 普通の鍵。

 B2・0ではない。

 それだけでも以前とは違う。

「23時47分」

 三上が言う。

「第零保管室の記録が正しければ、その時刻に最後の神谷蓮が生まれる」

「生まれるって言っても、体が出てくるとは限らない」

 悠真。

「記憶だけかもしれないし、記録だけかもしれない」

 紗奈。

「でも今までの例だと、最後は人になる」

 湊。

「じゃあ止める方法は」

 悠真。

「未来から過去へ送られる記憶を止める」

「どうやって」

「まだ分からない」

 湊がため息をついた。

「お前、最後までそれ言うんだな」

「分かってないことを分かったふりするよりマシだろ」

 三上が少し笑った。

「それはそうだ」

 ◇

 午後。

 何も起きなかった。

 授業。

 昼休み。

 放課後。

 世界は異常なほど普通だった。

 だからこそ悠真は不安になった。

 本当に終わりが近づいている時ほど、何も起こらない。

 そういう経験を、この数日で嫌というほどしてきた。

 午後六時。

 校舎から一般の生徒が消える。

 午後七時。

 美月と母が学校へ来た。

「来るなって言っただろ」

「嫌」

 美月。

「今日は絶対一緒にいる」

 母も頷く。

「私も」

「母さんまで」

「最後くらい家族でいたいから」

 悠真は何も言い返せなかった。

 ◇

 午後九時。

 旧校舎。

 0組。

 確認。

 何もない。

 ただの地下室。

 黒板も。

 三十三席も。

 壁向きの椅子もない。

 PROJECT 33の装置も沈黙したまま。

「本当に終わってるように見える」

 紗奈。

 朔。

「見えるだけなら前にもあった」

「嫌な言い方」

「事実」

 午後十時。

 校内防犯カメラ。

 異常なし。

 午後十一時。

 屋上。

 全員集合。

 悠真。

 湊。

 紗奈。

 三上。

 美月。

 母。

 朔。

 さらに少し遅れて、もう一人。

「来たんですか」

 悠真。

 階段を上がってきたのは、司書の姿をした神谷廉一郎だった。

 本人はもう神谷廉一郎と名乗ることすら迷っているようだったが、悠真たちには他に呼び方がない。

「来ない方がいいと言われると思いました」

「今さら止めても来るでしょ」

「おそらく」

 母が廉一郎を見る。

 その目には怒りもある。

 けれど、それだけではなかった。

「香澄さん」

「その名前で呼ばないで」

「……すみません」

「でも今日は、逃げないでください」

「はい」

 ◇

 23時30分。

 風が強くなった。

 空は曇っている。

 第一章の写真と似た夜だった。

 悠真は屋上の中央へ立つ。

 最初の写真。

 倒れている自分。

 もう一人の自分。

 B2・0の鍵。

 23時47分。

 すべて。

 ここから始まったように見えていた。

 でも違う。

 本当は何十年も前から続いていた。

「あと十五分」

 湊。

「緊張してる?」

「ちょっと」

「珍しい」

「お前だってしてるだろ」

「かなり」

 ◇

23時40分を回った頃、誰も触れていなかった古いデジタルカメラが突然小さな電子音を鳴らし、自動的に電源を入れた。

 全員の視線が一斉に集まる。

 画面に映っていたのは今いる屋上だったが、よく見ると実際の人数より一人多い。

「いる」

 紗奈が小さく声を漏らした。

 悠真が画面を覗き込むと、自分たちの少し後ろに制服姿の男子生徒が立っている。顔は悠真によく似ているが完全に同じではなく、胸元の名札にははっきりと 神谷蓮 と書かれていた。

「最後の神谷蓮……」

 朔が呟く。

 23時42分になると、三上が確認していた防犯カメラの映像にも同じ少年が映り始めた。だが実際の屋上を振り返っても、そこには誰もいない。

「また記録が先に作られてる」

 悠真が言うと、廉一郎が険しい表情で頷いた。

「記録が現実を引っ張っています。このままなら、あと数分で写真の中の人物が実際に現れるはずです」

「あと五分で出てくるってこと?」

 美月が不安そうに聞く。

「可能性は高い」

 ◇

 23時45分。

 悠真のスマートフォンが震えた。

 表示された差出人を見た瞬間、背中に冷たいものが走る。

 神谷蓮

 本文には一言だけ。

 『屋上で待ってる』

「これ……」

 湊も画面を見て顔を強張らせる。

 続けてもう一通。

 『今から学校行く』

 第一章の夜に、自分のスマートフォンへ残されていたものと同じ文章だった。ただし今回は過去の履歴ではなく、今この瞬間に届いている。

「ループが始まろうとしてる」

 悠真はスマートフォンを握りしめた。

 23時46分になると屋上の扉がゆっくりと開き、誰かが通ったように一度だけ大きく動いた。しかし向こう側には誰もおらず、数秒後には風もないのに扉が静かに閉まった。

 その直後、どこからともなく声が聞こえる。

「神谷蓮」

 誰の声なのか分からない。

「返事をしてください」

 悠真は反射的に答えそうになったが、すぐに唇を閉じた。

 また声がする。

「神谷蓮」

 全員の視線が悠真へ集まる。

 スマートフォンの時計は23時46分50秒。

「あと十秒」

 朔が言った。

 誰も口を開かないまま数字だけが進んでいき、23時47分になった瞬間、屋上に乾いたシャッター音が響いた。

 カシャ。

 悠真は思わず目を閉じ、すぐに開いた。

 景色は変わっていない。

「……何も起きない?」

 湊が周囲を見回す。

「止まったのかな」

 紗奈も同じように辺りを見る。

 だが美月だけは、悠真の後ろを見つめたまま動かなかった。

「お兄ちゃん」

「何」

「後ろ」

 悠真が振り返る。

 そこには、さっきまで確かにいなかった少年が立っていた。

 悠真とほとんど同じ顔をしているが、左頬には小さな傷があり、その姿には以前地下で会った神谷蓮の面影がある。

「……お前」

 少年は少し笑った。

「久しぶり」

「誰だ」

「昨日、君が消した神谷蓮」

 湊が思わず声を上げる。

「また神谷蓮?」

 だが朔はすぐに首を振った。

「違う。この個体は今までの誰とも同じじゃない」

 廉一郎の顔色が変わる。

「完成したんです」

「何が」

「神谷蓮人格の最終統合体です」

 少年はその言葉を否定しなかった。

「PROJECT 33もPROJECT 34も、これまで作られた神谷蓮も全部僕の中にある。原型も父親として生きた神谷蓮も、昨日現れた三人も、新しく作られた僕も全部一つになった」

 湊が眉をひそめる。

「じゃあ、お前が本物の神谷蓮ってことか」

 少年は少しだけ笑った。

「まだ本物とか偽物とか言うんだ」

 悠真は苦笑する。

「そうだった。悪い」

「別にいいよ」

「じゃあ何しに来た」

「帰るため」

「どこへ」

 少年は迷わず答えた。

「過去」

 ◇

 全員が黙った。

「記憶を三崎透がいた時代へ送る」

 少年はそう続ける。

「それを止めるために俺たちはここへ来た」

 悠真が言うと、少年は頷いた。

「知ってる」

「じゃあ止めるんだな」

「止めない」

「何で」

「僕が過去へ行かなければ神谷蓮は生まれない。それは君も分かってるはずだ」

「それでいい」

「本当に?」

 少年は悠真だけではなく、周囲にいる全員を見渡した。

「PROJECT 33が始まらなければ君は今の君にならない。湊も紗奈も香澄さんも佐伯修一も、美月だって今とは違う人生になる可能性が高い」

 美月が小さく聞く。

「私も?」

「存在そのものが変わるかもしれない」

 悠真は言葉を失った。

「だから過去を変えず、同じことを繰り返せって言いたいのか」

「それが今の僕たちを残す方法だから」

 少年は静かに答えた。

「過去を変えれば今を殺すことになる」

 ◇

 それは悠真自身も何度も考えていた。

 PROJECT 33がなければ神谷蓮は生まれず、自分は高城悠真のまま成長していたかもしれない。湊も今とは違う場所にいて、紗奈とも出会わず、母を母として呼ぶことも、美月と兄妹として暮らすこともなかった可能性がある。

 今を守りたいという気持ちは当然あった。

 だが、その時。

「私は嫌」

 美月が言った。

 少年が美月を見る。

「何が」

「今の私たちを残すために、昔の人がまた消えるのは嫌」

「美月」

「今までずっと誰かを消さない方法を探してきたんでしょ」

 悠真は黙る。

「最後だけ自分たちが残りたいからって、誰かをまた消すの?」

 少年が言う。

「同じじゃない」

「同じだよ」

 紗奈も続けた。

「私も過去を変える方を選ぶ」

「俺も」

 湊も言った。

 少年は少し苛立ったように笑う。

「簡単に言うね」

「簡単じゃない。俺だって今の記憶がなくなるかもしれない」

「それでも?」

「それでも、自分が残るために誰かが消える世界を残したくない」

 母も静かに頷いた。

「私も同じ」

 最後に廉一郎を見る。

「今の私が消える可能性があっても?」

「それでも」

 母は廉一郎から目を逸らさなかった。

「あなたが始めたことなら、あなたが終わらせてください」

 長い沈黙のあと、廉一郎はゆっくり頷いた。

「はい」

 ◇

 少年は悠真を見る。

「君はどうする」

「俺?」

「最後に神谷蓮として一番長く生きたのは君だから、君が決めた方がいい」

「俺が決めることじゃないだろ」

「僕は君の記憶から生まれた。少なくとも僕にとってはそうなんだ」

 悠真は屋上から町を見渡した。

 家も学校も友達も家族も、このままなら今の形で残るかもしれない。

 それでも、そのために過去の誰かを犠牲にするのなら答えは一つだった。

「止める」

 少年は少し驚いたような顔をする。

「本当に?」

「ああ」

「今の人生が変わるかもしれない」

「分かってる」

「美月が妹じゃなくなるかもしれない」

 悠真は美月を見る。

 美月は不安そうだったが、それでも黙って頷いた。

「それでも今の美月が止めてって言ってる。それで十分だ」

 ◇

 少年はしばらく黙ってから言った。

「じゃあ、どうやって止める?」

「お前が過去へ記憶を送らなければいい」

「もう始まってる」

「何?」

 少年が古いデジタルカメラを見る。

 画面には神谷楓と三崎透が写った古い写真があり、その背後に未来の神谷蓮らしい人影が少しずつ濃くなっていた。

「23時47分を越えて、神谷蓮がここに存在した時点で同期は始まってる」

「止める方法は」

 廉一郎が給水塔を指した。

「PROJECT 33のROOT装置です。人格分解に使った装置には、まだ記憶転送機能が残っているはずです」

 悠真たちは給水塔の下へ走った。

 金属箱。

 湊がB2・0の鍵を差し込んで回す。

 中の装置はすでに起動していた。

 画面。

 PAST MEMORY TRANSFER

 進行率。

 71%

「もうこんなに」

 紗奈。

 悠真は停止ボタンを押した。

 CANCEL

 しかし表示されたのはエラー。

 送信元人格が存在するため停止できません

「送信元人格って」

 全員が少年を見る。

 少年は小さく頷く。

「僕」

 美月が言いかける。

「じゃあ、この人がいなくなれば」

「美月」

 悠真はすぐに止めた。

「そういう言い方はやめよう」

「……ごめん」

 少年は少し笑う。

「でも正しい。僕が神谷蓮として存在している限り、転送は止まらない」

 悠真は装置を見つめた。

「じゃあ神谷蓮をもう一度終わらせるしかない?」

「そうなる」

 ◇

 悠真は少年を見る。

 同じ顔。

 同じ名前だった。

 何度も作られ、何度も消され、そのすべてを一つに集めた最後の神谷蓮。

「でもお前、消えたくないだろ」

「うん」

 その返事は予想していなかった。

「僕は生きたい」

 少年は自分の胸に手を置く。

「全部の神谷蓮の記憶を持ってる。でも、それは全部誰かの記憶だ。それでも今ここで怖いと思ってるのは僕だから、僕は消えたくない」

 悠真はすぐに答えた。

「なら消さない」

 廉一郎が振り向く。

「しかし時間がありません」

「他の方法を探す」

 進行率。

 78%

 朔が突然言った。

「人格を神谷蓮じゃなくせばいい」

「何?」

「役割そのものを外す。昨日、悠真にやったように」

 少年は首を振る。

「僕には元の名前がない。神谷蓮としてしか存在してない」

 悠真は少し考えてから言った。

「だったら、新しい名前をつければいい」

 全員が悠真を見る。

「神谷蓮が最初は人が作った名前だったなら、こいつ自身の名前も今ここで作れるはずだろ」

 廉一郎の表情が変わった。

「確かに、神谷蓮という役割名と人格を切り離せれば送信元判定から外れる可能性があります」

「どうやる」

「三十三人です」

 朔が続ける。

「一人の存在を三十三人が同じ名前で認識すれば、その名前が新しい人格名として固定される」

「今ここに八人しかいないぞ」

 湊。

「二年三組がある」

 悠真。

「三十二人」

「今から全員呼ぶ気?」

「違う。覚えてもらえばいい」

 朔。

「写真を使えば直接会わなくても記憶共有はできる」

 ◇

 悠真はクラスのグループチャットを開いた。

「この時間、みんな寝てるだろ」

「起こす」

「何て説明すんの」

「友達紹介」

「雑すぎるだろ」

「時間ない」

 進行率。

 82%

 少年が静かに聞いた。

「名前は?」

 悠真。

「自分で決めろ」

「僕が?」

「当然だろ」

 少年は困ったように笑った。

「一度も自分で名前を決めたことない」

「じゃあ初めてやればいい」

 少年は夜空を見る。

 雲の隙間から星が一つ見えていた。

「……蒼」

「蒼?」

「空とか青とか、そういう感じ。でも青じゃなくて蒼がいい」

「名字は?」

 湊。

 少年はしばらく考える。

「夜」

「夜野?」

「それは微妙」

「星野?」

「普通すぎる」

 美月が言った。

「月城」

 全員が美月を見る。

「月とお城。かっこいい」

 少年は少し笑った。

「月城……好きかも」

 悠真も頷く。

「じゃあ月城蒼」

 少年はその名前を何度か口の中で確かめる。

「月城蒼」

 その瞬間、装置が反応した。

 新規識別名を検出

 ◇

 悠真は蒼の写真を撮り、クラスのグループへ送る。

 『急で悪い。この人 月城蒼。明日から学校来るかもしれないから名前だけ覚えて』

 湊。

「ほんとに雑だな」

「うるさい」

 既読。

 一人。

 二人。

 三人。

 返信。

 誰?

 転校生?

 月城蒼ね

 装置。

 認識人数 9

「増えた」

 紗奈。

 ◇

 10。

 12。

 15。

 進行率。

 87%

 三上も教員の連絡網を使い、母と美月も知り合いへ名前を伝え、朔と廉一郎も協力した。

 認識人数。

 21。

 24。

 27。

 転送。

 91%。

「あと六人」

 返信。

 月城蒼 覚えた

 28。

 29。

 30。

 31。

 32。

 そこで数字が止まった。

「あと一人!」

 転送率は95%。

 悠真は連絡先を開く。

「誰でもいい。あと一人」

 その時、蒼が言った。

「いるよ」

「誰」

「君」

 悠真は止まる。

「俺?」

「君はまだ僕を神谷蓮として見てる」

 ◇

 確かにそうだった。

 新しい名前を決めても、悠真の中ではまだ目の前の少年を「最後の神谷蓮」と呼んでいた。

「悠真」

 紗奈が呼ぶ。

 悠真は蒼を見る。

 自分によく似た顔。

 でも自分ではない。

 父でも原型でもない。

 一人の人間。

「月城蒼」

 蒼が少し笑う。

「うん」

 悠真はもう一度呼ぶ。

「月城蒼」

 装置。

 認識人数 33

 新規人格固定

 TSUKISHIRO AO

 神谷蓮との一致率低下

 過去転送。

 99%。

 一瞬止まり。

 98。

 90。

 72。

 40。

 12。

 0。

 PAST MEMORY TRANSFER CANCELLED

 ◇

 装置が完全に沈黙した。

 古いデジタルカメラの画面では、神谷楓と三崎透の後ろにいた未来の神谷蓮が少しずつ薄くなり、最後には完全に消えた。

 そこにはただ、楓と透の二人が笑っている写真だけが残った。

「消えた」

 朔。

「過去へ送られなかった」

 廉一郎が呟く。

「なら……」

 その瞬間、強い風が屋上を吹き抜けた。

 悠真は反射的に目を閉じる。

 足元が揺れたような感覚があり、美月が「お兄ちゃん」と叫ぶ声が遠くなる。

 次に目を開けた時。

 悠真は教室にいた。

 ◇

 二年三組。

 朝。

 窓から日差し。

 生徒たちの声。

 悠真は慌てて机を見る。

 学生証。

 高城悠真

 隣。

 湊。

「おはよ」

 悠真は思わず聞く。

「湊?」

「何」

「0組」

 湊は一瞬だけ黙り、すぐに小さく答えた。

「覚えてる」

 前の席。

 紗奈が振り返る。

「私も」

 三上が教室へ入り、悠真たちと目が合う。

 何も言わずに頷いた。

 美月からメッセージ。

 『覚えてる』

 母からも。

 『私も』

 悠真はようやく息を吐いた。

「成功した?」

 湊。

「たぶん」

「最後までそれかよ」

 ◇

 昼休み。

 図書室。

 司書は知らない女性に変わっていた。

「前にいた司書さんは?」

「前?」

「……いえ」

 窓際。

 本を読む少年。

 悠真は笑う。

「蒼」

 少年が顔を上げた。

「遅い」

「学校来たんだ」

「転校生ってことになってる」

「何組」

「二年三組」

 悠真は嫌な予感がして聞いた。

「人数は?」

「三十三人」

 湊。

「嫌な数字」

 蒼は首を振る。

「でも今回は誰も消えてない」

 悠真はしばらく考えたあと頷いた。

 三十三人。

 今度は誰かを作るためでも、誰かを忘れるためでもない。

 ただ一人、新しい生徒が増えただけだった。

 ◇

 放課後。

 悠真は一人で屋上へ向かった。

 扉には普通の鍵がかかっていて、三上から借りた鍵で開ける。

 夕方の風。

 フェンス。

 最初の写真と同じ場所。

 悠真はポケットから古い写真を取り出した。

 屋上で倒れている自分。

 もう一人の自分。

 写真の裏。

 君は昨日 ここで死んだ

 その文字がゆっくり薄くなっていく。

 代わりに現れたのは。

 神谷蓮は昨日 ここで終わった

 悠真は小さく笑った。

「やっと正しくなった」

 ◇

 その夜。

 悠真は机にノートを開いた。

 最初に雨宮栞を忘れないため、名前を書き残したノートだった。

 そこに今も。

 雨宮栞

 と書かれている。

 悠真はその名前を消さず、横に 水城紗奈 と書き加えた。

 次に 高城悠真という役割を持っていた結城湊。

 そして 神谷香織――雨宮香澄、神谷蓮――佐伯修一。

 自分については少し迷った末。

 神谷蓮として生きていた高城悠真

 と書いた。

 最後。

 最後の神谷蓮――月城蒼

 書き終えて見返してみると、どれが本物の名前でどれが偽物だったのかを簡単に分けることはできなかった。

 けれどもう、それでいいと思えた。

 名前を奪われた人もいれば、誰かの名前を与えられた人もいる。

 記憶を失った人。

 他人の記憶を受け取った人。

 それでも誰かを好きだったことや、一緒に笑ったことや、守ろうと思った気持ちまで偽物にはならない。

 悠真はページの一番下に一行だけ書いた。

 名前が変わっても 一緒にいた時間までは消えない

 ◇

 そして次のページ。

 ずっと追いかけてきた問い。

 昨日 僕を殺したのは誰ですか

 悠真はしばらくペンを止めていた。

 神谷廉一郎が神谷蓮を作り、三十三人の記憶がその存在を現実へ固定し、0組が名前と役割を引き継がせ続けた。

 町は矛盾を忘れ、何人もの人間が神谷蓮という一つしかない席に座らされ、そのたびに別の誰かが記憶の外へ追い出された。

 そして最後に、その名前をもう誰にも渡さないと決めたのは神谷蓮として生きていた自分だった。

 最初に思いついた答えを書く。

 昨日 僕を殺したのは僕です

 だが少し考えてから、悠真は首を振った。

 違う。

 自分自身を殺したわけではない。

 神谷蓮として生きた時間は今も残っているし、母と暮らした日々も、美月と喧嘩したことも、湊と笑ったことも、紗奈を忘れたくないと思ったことも消えていない。

 自分が終わらせたかったのは人間ではなく、誰か一人が名前を背負うために別の誰かが消えなければならないという仕組みだった。

 悠真は新しく一行を書く。

 昨日 僕が殺したのは 神谷蓮という役割だった

 その文章を眺めたあと、さらに最後の一行を加えた。

 だから昨日 僕を殺した人は 誰もいない

 それが今の悠真にとって、一番正しい答えだった。

 ◇

 翌朝。

 二年三組。

 三上が出席簿を開く。

「水城紗奈」

「はい」

「結城湊」

「はい」

「月城蒼」

「はい」

 そして最後に。

「高城悠真」

 悠真は顔を上げた。

「はい」

 誰も消えない。

 黒板も変わらない。

 地下から知らない声が聞こえることもない。

 三上はそのまま出席確認を続け、教室にはごく普通の朝が始まった。

 ◇

 放課後。

 悠真が教科書を片づけていると、机の奥に白い封筒が入っていた。

「……嘘だろ」

 隣にいた湊がすぐに振り向く。

「また?」

「その言い方やめろ」

 悠真は慎重に封筒を開く。

 中には二年三組の集合写真。

 三十三人。

 全員の顔がある。

 黒く塗りつぶされた人間はいない。

 知らない人物もいない。

 誰かだけが薄くなっていることもない。

 裏。

 一行。

 『全員 出席』

 悠真はしばらく写真を見つめ、それから小さく笑った。

「今度こそ終わったかな」

「また“かな”って言った」

「絶対って言って何か起きたら嫌だろ」

「それはそう」

 悠真は写真をノートの最後のページに挟んだ。

 忘れないためではない。

 誰かの存在を固定するためでもない。

 ただ三十三人が同じ教室にいた、その日の思い出として残しておきたかった。

 ◇

 その夜、町にはいつもの明かりが並んでいた。

 学校の屋上には誰もおらず、旧校舎の地下へ続いていた階段も消え、0組という名前を示す記録も見つからない。

 けれど、そこで起きた出来事までなくなったわけではなかった。

 悠真の中には神谷蓮として生きた記憶が残り、紗奈には雨宮栞だった時間があり、湊にも高城悠真として過ごした記憶がある。

 香澄は神谷香織として二人を育てた日々を覚え、三上は十七年前に失った佐伯修一の名前を取り戻した。

 誰もまったく同じようには覚えていない。

 それでよかった。

 人間の記憶は最初から少しずつ違う。

 同じ出来事を見ても同じ言葉を聞いても、残るものは人によって変わる。

 その違いを間違いとして一つに揃えようとしたことから、すべては始まった。

 神谷蓮という名前を今は誰も名乗っていない。

 それでも神谷蓮として笑った日も、迷った日も、誰かを守ろうとした時間も高城悠真の中に残っている。

 だから神谷蓮は消えたのではない。

 ただ、一人しか座れない席から降りただけだった。

 ◇

 悠真は窓を開け、夜の町を眺めた。

 すべては一枚の写真から始まった。

 学校の屋上で倒れている自分。

 裏には。

 君は昨日 ここで死んだ

 あの時は、自分が本当に死んだと思った。

 その次には誰かに殺されたのだと思い、犯人を探し始めた。

 けれど最後まで辿り着いた今なら分かる。

 そもそも問いの意味が違っていた。

 昨日死んだのは高城悠真ではなく、神谷蓮という役割だった。

 そして、その役割を終わらせると決めたのは神谷蓮として生きていた自分自身だった。

 だから今なら答えられる。

 昨日 僕を殺したのは誰ですか

 誰でもない。

 僕は死んでいない。

 昨日終わったのは、誰かの名前を奪い、誰かの記憶を書き換え、一人だけを正しい存在にしようとしてきた古い仕組みだった。

 そして今の僕は、その仕組みに与えられた名前ではなく、自分で受け入れた名前を持ってここにいる。

 高城悠真。

 神谷蓮だった時間も含めて、それが今の僕だ。

 窓から入った夜風が机の上のノートを揺らし、最後のページに挟んだ集合写真が少しだけ顔を覗かせる。

 裏に書かれた言葉は、もう変わらない。

 『全員 出席』

 悠真はノートを閉じた。

 今度こそ誰の名前も消さなくていいし、誰かを残すために別の誰かを忘れる必要もない。

 記憶が少し違っていても、名前が途中で変わっていても、一緒に生きた時間まで消えるわけではない。

 忘れたなら、また思い出せばいい。

 名前が分からなくなったなら、もう一度聞けばいい。

 自分が誰なのか分からなくなった人がいたなら、その人自身が答えを選ぶまで隣にいればいい。

 あの日の僕たちは、それを知らなかった。

 でも今は知っている。

 人は名前だけで決まるわけではなく、誰かに覚えられているだけで存在するわけでもない。

 自分が生きてきた時間を自分のものとして受け入れた時、その人は初めて自分として生きていける。

 昨日、僕は死ななかった。

 僕が終わらせたのは神谷蓮という名前に縛られた物語だけだった。

 そして今日から僕は――

 高城悠真として 自分の物語を生きていく。