翌朝。
雪と遥斗は、鉄輪温泉の旅館を出た。
昨日の夜まで賑やかだった街も、朝になると少し静かだった。
「今日はどこから行く?」
遥斗が聞く。
「地獄温泉ミュージアムに行きたい」
「昨日、地獄巡りしたのに?」
「うん。昨日とは違う楽しさがあるやろ?」
雪が笑う。
「また大分弁出た」
「もう……」
二人は顔を見合わせて笑った。
けれど、雪の胸の奥には、ずっと抱えていたことがあった。
鎌倉で暮らしていた頃。
「雪って、大分弁可愛いね」
そう言われることもあった。
最初は嬉しかった。
自分が生まれ育った場所の言葉を褒めてもらえるのは、嬉しかった。
でも、ときには――。
「田舎もんみたい」
「何言ってるか分からない」
そんな言葉を投げられることもあった。
雪は笑ってごまかしていた。
でも、本当は悲しかった。
大分弁は、私にとってただの方言じゃない。
家族と話した言葉。
幼い頃、友達と笑った言葉。
そして、遥斗と過ごした時間の中で交わしてきた言葉。
全部、大切な思い出だった。
*
地獄温泉ミュージアムに入る。
二人は展示を一つずつ見ていった。
雨水が地面に染み込み、地層を通り、長い年月をかけて温泉になっていく。
映像を見ながら、雪は静かに呟いた。
「……すごいね」
「うん」
「雨が降って、すぐ温泉になるんじゃないんやね」
「長い時間をかけるんだな」
遥斗が答える。
雪はしばらく展示を見つめていた。
そして、少し迷ってから口を開いた。
「遥斗くん」
「ん?」
「私ね……鎌倉で、大分弁のことで笑われたことがあるんよ」
遥斗が雪を見る。
「笑われた?」
「うん。『田舎もんみたい』って言われたり……」
雪は目を伏せた。
「可愛いって言ってくれる人もいる。でも、馬鹿にされることもあって……」
「……」
「だから、標準語で話さないといけないのかなって思った」
雪の声が少し震える。
「でもね」
目の前の映像を見ながら、雪は続けた。
「大分弁って、私にとって大事な言葉なんよ」
遥斗は黙って聞いていた。
「家族と話した言葉も、友達と笑った言葉も……遥斗くんと話した言葉も、全部大分弁なんよ」
雪の目に涙が浮かんだ。
「だから……笑われると悲しい」
「雪」
遥斗は優しく呼んだ。
「俺は、雪の大分弁好きだよ」
「……本当?」
「うん」
遥斗は笑った。
「雪が大分弁で話してると、なんか安心する」
「……ありがとう」
「大分弁を無理に隠さなくていいと思う」
雪は顔を上げた。
「雪が大分で育ったことも、大分弁を話すことも、全部雪の大切な一部だろ」
「……うん」
「誰かに笑われたからって、大切なものまで手放さなくていいよ」
雪の頬を涙が伝った。
けれど、その涙はさっきまでの悲しい涙とは違った。
「遥斗くん……」
「俺は、その言葉をずっと聞いていたい」
雪は涙を拭いて、笑った。
「じゃあ……これからも大分弁で話すけん」
「うん。いっぱい聞くけん」
二人は笑い合った。
*
ミュージアムを出ると、別府の街には白い湯煙が立ち上っていた。
二人は昨日に続いて、もう一度地獄巡りの道を歩いた。
海地獄。
血の池地獄。
昨日と同じ景色なのに、今日は少し違って見える。
「遥斗くん」
「ん?」
「私、大分が好きやわ」
「うん。知ってる」
「ここに帰ってくると、やっぱり落ち着く」
雪は湯煙の向こうを見つめる。
「いつかまた、一緒に歩けるかな」
「歩けるよ」
遥斗は迷わず答えた。
「約束する」
雪は嬉しそうに笑った。
「約束やけんね」
「ああ、約束」
けれど――。
楽しい時間には、終わりが近づいていた。
雪は今日、鎌倉へ帰らなければならない。
大分駅から、また遠く離れた場所へ。
そして二人はまだ知らなかった。
この旅の最後に待っている別れが、二人の未来を変えるほど大切な時間になることを。
雪と遥斗は、鉄輪温泉の旅館を出た。
昨日の夜まで賑やかだった街も、朝になると少し静かだった。
「今日はどこから行く?」
遥斗が聞く。
「地獄温泉ミュージアムに行きたい」
「昨日、地獄巡りしたのに?」
「うん。昨日とは違う楽しさがあるやろ?」
雪が笑う。
「また大分弁出た」
「もう……」
二人は顔を見合わせて笑った。
けれど、雪の胸の奥には、ずっと抱えていたことがあった。
鎌倉で暮らしていた頃。
「雪って、大分弁可愛いね」
そう言われることもあった。
最初は嬉しかった。
自分が生まれ育った場所の言葉を褒めてもらえるのは、嬉しかった。
でも、ときには――。
「田舎もんみたい」
「何言ってるか分からない」
そんな言葉を投げられることもあった。
雪は笑ってごまかしていた。
でも、本当は悲しかった。
大分弁は、私にとってただの方言じゃない。
家族と話した言葉。
幼い頃、友達と笑った言葉。
そして、遥斗と過ごした時間の中で交わしてきた言葉。
全部、大切な思い出だった。
*
地獄温泉ミュージアムに入る。
二人は展示を一つずつ見ていった。
雨水が地面に染み込み、地層を通り、長い年月をかけて温泉になっていく。
映像を見ながら、雪は静かに呟いた。
「……すごいね」
「うん」
「雨が降って、すぐ温泉になるんじゃないんやね」
「長い時間をかけるんだな」
遥斗が答える。
雪はしばらく展示を見つめていた。
そして、少し迷ってから口を開いた。
「遥斗くん」
「ん?」
「私ね……鎌倉で、大分弁のことで笑われたことがあるんよ」
遥斗が雪を見る。
「笑われた?」
「うん。『田舎もんみたい』って言われたり……」
雪は目を伏せた。
「可愛いって言ってくれる人もいる。でも、馬鹿にされることもあって……」
「……」
「だから、標準語で話さないといけないのかなって思った」
雪の声が少し震える。
「でもね」
目の前の映像を見ながら、雪は続けた。
「大分弁って、私にとって大事な言葉なんよ」
遥斗は黙って聞いていた。
「家族と話した言葉も、友達と笑った言葉も……遥斗くんと話した言葉も、全部大分弁なんよ」
雪の目に涙が浮かんだ。
「だから……笑われると悲しい」
「雪」
遥斗は優しく呼んだ。
「俺は、雪の大分弁好きだよ」
「……本当?」
「うん」
遥斗は笑った。
「雪が大分弁で話してると、なんか安心する」
「……ありがとう」
「大分弁を無理に隠さなくていいと思う」
雪は顔を上げた。
「雪が大分で育ったことも、大分弁を話すことも、全部雪の大切な一部だろ」
「……うん」
「誰かに笑われたからって、大切なものまで手放さなくていいよ」
雪の頬を涙が伝った。
けれど、その涙はさっきまでの悲しい涙とは違った。
「遥斗くん……」
「俺は、その言葉をずっと聞いていたい」
雪は涙を拭いて、笑った。
「じゃあ……これからも大分弁で話すけん」
「うん。いっぱい聞くけん」
二人は笑い合った。
*
ミュージアムを出ると、別府の街には白い湯煙が立ち上っていた。
二人は昨日に続いて、もう一度地獄巡りの道を歩いた。
海地獄。
血の池地獄。
昨日と同じ景色なのに、今日は少し違って見える。
「遥斗くん」
「ん?」
「私、大分が好きやわ」
「うん。知ってる」
「ここに帰ってくると、やっぱり落ち着く」
雪は湯煙の向こうを見つめる。
「いつかまた、一緒に歩けるかな」
「歩けるよ」
遥斗は迷わず答えた。
「約束する」
雪は嬉しそうに笑った。
「約束やけんね」
「ああ、約束」
けれど――。
楽しい時間には、終わりが近づいていた。
雪は今日、鎌倉へ帰らなければならない。
大分駅から、また遠く離れた場所へ。
そして二人はまだ知らなかった。
この旅の最後に待っている別れが、二人の未来を変えるほど大切な時間になることを。

