放課後の図書室は、俺にとって一番落ち着く場所だった。
チャイムが鳴ると同時に、教室を飛び出す。グラウンドから聞こえてくる、駅伝練習の掛け声を背中に聞きながら。
「また裕也、逃げたよ」
そんな声が聞こえた気もしたけど、気にしないことにしていた。
図書室の隅の席に座って、宿題を済ませる。それが終われば、あとは五時半まで、好きな本を読んで過ごす。それが、ここ最近の俺の日課だった。
「なんで駅伝出ないんだよ」「五年の時、県大会まで行ったのに」
担任の矢口や、クラスメイトが何度も練習に誘いに来た。でも、俺の答えはいつも同じだった。
「もうやらない。俺抜きでやってくれ」
本音を言えば、駅伝そのものが嫌いなわけじゃなかった。ただ、あの練習が、どうしても好きになれなかった。
やる気のない奴、だるそうにする奴。そんな奴らに合わせて、質の低い練習をだらだら続ける。遅い奴の尻拭いをするみたいに走らされて、それで称賛される。馬鹿らしいと思っていた。
でも、それを口に出したら、空気が悪くなる。友達付き合いにも響く。だから、誰にも言えなかった。
その日も、いつものように文庫本のページをめくっていた。
ふわりと、いい香りがした。
「今日も何してるの?」
不意に声をかけられて、顔を上げた。
――また、誰かに説教されるのか。
そう思って身構えたけど、そこに立っていたのは、話したこともない女の子だった。
――え。
一瞬、時間が止まった気がした。
色白で、目がぱっちりとした、綺麗な顔立ち。高い位置で結ばれたポニーテールが、よく似合っていた。
可愛い。めちゃくちゃ、可愛い。
三組の亜季だった。学年で一番可愛いと評判の女子。遠目に見かけたことはあったけど、こんな近くで見るのは初めてだった。
噂には聞いていたけど、実物は、その評判をはるかに超えていた。
話したことなんて、一度もなかった。
思わず見とれてしまった自分に、はっと我に返る。
――なんで、亜季が。
同時に、じわりと苛立ちが込み上げてきた。
誰かが頼んだんだろう。「亜季が誘えば、来るんじゃないか」とでも思われたのか。可愛い女の子を使えば、意固地な奴も動くだろうって。
プライドが、ちりちりと焼けるように痛かった。
「なんだよ、急に」
自分でも、驚くくらい冷たい声が出た。
「どうせ、誰かに頼まれたんだろ。クラスも違うし、俺には関係ないだろ」
言い切って、俺は本を閉じ、荷物をまとめた。
「じゃあ、俺帰るから」
亜季の反応を見ることもなく、図書室を後にした。
次の日も、俺は同じように図書室にいた。
昨日、あんな態度を取ったんだから、もう来ないだろう。そう思っていた。
でも、開いた扉から、ジャージ姿の亜季が、また姿を現した。
――しつこいな。
内心でそう思いながら、あえて視線を本に落としたまま、無視を決め込んだ。
「ねえ」
亜季は、構わず近づいてきて、隣の椅子に腰かけた。
ふわっと、昨日と同じいい香りがした。
――近い。
距離の近さに、思わず心臓が跳ねた。緊張で、指先がわずかに強張る。それを悟られたくなくて、視線を本に戻す。
「他のクラスの女の子のことは、よく分からないけど。君も、クラス代表に選ばれてるんだよね? 練習、行きなよ」
「……」
「なんで、裕也くんは駅伝出ないの?」
その口調は、責めるようでも、からかうようでもなく、ただ純粋に不思議がっているように聞こえた。それが、余計に苛立たしかった。
「誰に頼まれて来たんだよ」
俺は、ようやく本から顔を上げた。
「担任の矢口か? それとも、同じクラスの奴らか?」
「可愛い子が頼めば、裕也くんも来るだろうからって、誰かに頼まれたのか?」
言った瞬間、しまったと思った。自分で言っておいて、恥ずかしくなる。
亜季は、一瞬きょとんとした顔をしてから、小さく笑った。
「誰にも頼まれてないよ」
「悪いけど、もう出る気はない。五年の時、県大会まで行ったんだから、もう十分だろ」
そう言い切って、俺は席を立った。
亜季は、それ以上何も言わずに、俺の背中を見送っていた。
三日目も、亜季は図書室に現れた。
――しつこい。
そう思う一方で、内心では、少しだけほっとしている自分もいた。
――また来た。
素直に言葉にはできないけれど、亜季の顔を見ると、なぜか、悪くない気分になる。
もうこの流れには、慣れ始めていた。
「練習、行こう」
亜季は、当たり前のようにそう言った。
「俺、練習とか嫌いだから行かない」
苛立ち混じりにそう答えると、亜季は、思いもよらない言葉を返してきた。
「練習嫌い? 嘘つき」
「は?」
「練習嫌いな人が、あんなに一生懸命、朝も晩も走るのかな?」
亜季は、不思議そうな、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
――え。
心臓が、大きく跳ねた。
誰にも見られないように、河原を走っていたはずだった。小学校低学年の頃から、ずっと。誰の目にも触れないように、朝と夜、こっそりと。
――見られてた? どこで? いつから?
表に出さない努力を、こっそり見られていたことが、たまらなく恥ずかしかった。
「五年生の駅伝大会、市内の大会、見に行ったんだ」
亜季は、構わず続けた。
「アンカーで、四人抜いて、最後の一人も抜いて、五人抜きで一位でゴールしたの見て、感動したんだよ~!」
「……で?」
俺は、わざと冷めた声を出した。
「それ、みんな同じこと言うよな」
そう言いながら、内心では、テンションが急速に下がっていくのを感じていた。
――結局、それか。
速いから、すごいから、感動した。
そんな言葉は、これまで何度も聞いてきた。特別でもなんでもない、ただの「結果」に対する称賛。
俺が本当に見てほしかったのは、そこじゃなかった。
「で?」
俺の反応に、亜季は一瞬、きょとんとした顔をした。
「ああ、違うの。感動したのは、それだけじゃなくて」
そう言って、亜季は少し考えるように視線を上げた。
「私、河原に朝日を見に行くのが好きなんだ。毎日じゃないけど。それで、ある日、必死に走ってる裕也くんを見かけたの」
「……」
「がむしゃらに、本当に必死に走ってて。こんなに頑張ってるんだ、って、びっくりした」
亜季は、そこで一度言葉を止めて、また続けた。
「でね、別の日、夜遅くに、お母さんの車で河原の近くを通ったの。そしたら」
――まさか。
嫌な予感が、胸に広がっていく。
「裕也くんが、走ってた」
「……夜も?」
「うん。朝も夜も、こんなに走ってるんだって思ったら」
亜季は、まっすぐに俺を見た。
「裕也くん、一年生の頃からずっと一番速くて。だから、正直、もともと足が速いだけなんだと思ってた。羨ましいな、生まれつき得意なことがあって、って」
亜季は、少し照れくさそうに笑った。
「でも、違った」
そこで、表情が変わった。
「あんなに必死に、朝も夜も走ってるの見て、全然違うんだって、分かったの」
「毎日、必死に努力した結果だったんだね」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。
誰にも見せるつもりのなかった、一番恥ずかしい部分を、全部見られていた。
でも、不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、初めて誰かに、本当の意味で「見てもらえた」気がした。
その日も、図書室に亜季がやってきた。
「まだ来るんだ」
俺が、ため息交じりにそう言うと、亜季は気にする様子もなく、隣の椅子に腰かけた。
「うん。裕也くん、来て欲しくなさそうだけど」
「……」
図星を突かれて、何も言えなかった。
「でも、なんでだろうね。裕也くんが、来るなって本気で言ってる感じがしないから、私も来ちゃうんだと思う」
その言葉に、俺は思わず苦笑いした。
「そんなわけないだろ」
強がって、そう返した。
「じゃあ、行こう」
「え?」
言うが早いか、亜季は俺の手を掴んで、ぐいっと引っ張った。
――え、え、え。
女の子と手を繋いだことなんて、一度もなかった。
しかも、相手は、とびきり可愛い亜季だ。
すべすべとした、柔らかい感触が、手のひらに広がる。
言葉にはうまく言い表せない、じんとした感動が、胸の奥に広がっていった。
心臓が、うるさいくらい鳴り出す。頭の中が、真っ白になった。
引っ張られるまま、図書室を出て、廊下を歩いていく。
このまま、手を繋いだまま連れて行かれるのか。
そう思うと、余計に落ち着かなくなって、俺は思わず、繋がれていた手を振りほどいた。
亜季が、驚いたように振り返る。
「……」
気まずい沈黙が流れた。
でも、その沈黙のせいなのか、それとも振りほどいてしまった気まずさのせいなのか、俺は思わず、大きく息を吐いた。
「あんな練習行って、何になるんだよ」
一度口を開くと、止まらなかった。
「やる気のない奴、だるそうにしてる奴。そんな連中を見ても、顧問は注意ひとつしない。それで一位取って、県大会行ったら、みんなで喜んで、みんなで頑張った、みたいな空気になる」
捲し立てるように、言葉が止まらなかった。
「は? みんなで勝ち取った? たいして頑張ってもない癖に。馬鹿馬鹿しくて、やってられるかよ」
「俺は、負けるのが嫌なんだよ!」
大きな声が出た。自分でも驚くくらい、感情のままの声だった。
「他の奴にも、自分にも。もっと速くなるための練習なら、いくらだってやるよ! でも、あんな練習に付き合う意味あんのかよ!」
「前に、矢口が俺になんて言ったか知ってるか?」
一度堰を切ると、止まらなかった。
「練習来ないんだったら、大会には出さないぞって、言ったんだぞ? あんな、へらへら喋りながらダラダラ練習してる奴らと同じ扱いで。俺が頑張って結果出したんじゃないのかよ」
「練習来い、練習来いの一点張りで、理由すら聞こうとしない。そんな奴の下で、あんな奴らと練習できるかよ!」
言った瞬間、はっとした。
亜季に向けて、そんな強い言い方をするつもりはなかった。
「……ごめん」
慌てて、そう付け加えた。
言い終えて、俺は自分の言葉に、少し驚いていた。誰にも言えなかったはずのことを、初めて口に出せた。
亜季は、しばらく黙って聞いていた。
「……わかった。ありがとう」
それだけ言うと、亜季は、くるりと背を向けて去っていった。
――あれ。
拍子抜けするくらい、あっさりとした反応だった。
まあ、いいか。
これで、終わりだろう。
そう思っていた。
翌日、授業が終わると、俺はいつも通り図書室に向かおうとした。
でも、廊下に出た瞬間、待ち構えていたように亜季に腕を掴まれた。
「今日だけ、参加してみて」
「は? 何言って――」
「いいから!」
有無を言わさぬ強さで、腕を引っ張られる。
――なんだよ、これ。
戸惑いながらも、振りほどく間もなく、グラウンドまで連れて行かれた。
そこで、俺は目を疑った。
いつもの、だらだらとした練習風景じゃなかった。
タイム順にA組からF組まで、六つのチームに分けられている。それぞれのチームごとに、レベルに合わせた目標タイムが設定されていて、選手たちの表情も、明らかに違っていた。
「今日から、これでやるの」
亜季が、ニコニコしながら言った。
「毎日、最後にタイムトライアルして、チームの入れ替えもするんだって」
――なんで、こんな急に。
呆気に取られる俺に、亜季はさらに続けた。
「やる気出る? やる気のある人たちとやるの、楽しいよ。ここなら、頑張れそうじゃない?」
正直、驚いていた。
昨日まであんなにだらけていた空気が、まるで別物のように変わっている。
「……どうやって、これ」
「顧問の先生に聞いたら分かるよ」
亜季は、意味ありげにそう言った。
その日の帰り際、矢口先生に呼び止められた。
「あー……そういえば」
先生は、少し言いにくそうに、頭をかいた。
「今日みたいなメニューだったら、続けられそうか?」
「あ……えっと、また今度、そのうち考えます」
正直、まだ心の整理がついていなかった。急に環境が変わって、戸惑いの方が大きかった。
でも、そんな俺の返事を、亜季は許してくれなかった。
翌日から、休み時間のたびに、亜季が教室にやってきた。
「今日からじゃなきゃ、駄目なんだよ」
「いや、そんなすぐには……」
「駄目。今日から」
昼休みになっても、亜季は諦めなかった。
「お願い。今日からやろう」
その必死さに、俺は思わず聞いてみた。
「なんで、そんなに必死になるんだよ」
亜季は、一瞬言葉に詰まってから、ぽつりと言った。
「……昨日の朝、矢口先生に相談しに行ったんだけど、最初は全然、相手にしてもらえなかったんだ」
「え?」
「休み時間の度に、先生のところ行って。それでも、生徒が口出すことじゃないって言われて」
亜季は、少し苦笑いした。
「でも、昼休みにも、もう一回お願いしに行ったの。絶対に、練習内容変えてほしいって」
「それで、やっと先生が、わかった、考えてみるって言ってくれて」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
「思ってた通り、先生に、生徒がそんなこと口出すなって、言われた。それでも、裕也くんが本音言ってくれたの、無駄にしたくなかったから」
「だから、今日からやろう。裕也くんの本気、ちゃんと形にしたいから」
その真剣な表情に、俺は言葉に詰まった。
「授業後、また来るから」
「……わかった。もう、来なくていい」
「え?」
亜季が、不安そうな顔をした。
「練習、行くから。本気でやるから」
そう言い切ると、亜季の表情が、ぱっと明るくなった。
「本当に?」
「ああ」
その日から、あの新しい練習メニューが、正式に続けられることになった。
それから、練習は驚くほど変わった。
やる気のある奴らと本気でぶつかり合う日々は、想像していた以上に楽しかった。
そして、それを実現してくれたのは、他の誰でもない、亜季だった。
誰よりも可愛くて、目立つ存在なのに、俺の誰にも見せていなかった努力を見つけて、認めてくれた。それだけじゃなく、実際に環境まで変えてくれた。
そんな亜季のことを、俺はいつしか、好きになっていた。
――これが、俺の初恋だった。
中学に入ってから、俺と亜季は、クラスも部活も違って、顔を合わせる機会はほとんどなくなった。
亜季はテニス部に入って、俺は当然のように陸上部に入部した。
長距離選手として、全国区の実力を持つ俺は、毎日のように運動場で走り込みをしていた。テニスコートは、その運動場のすぐ脇にある。
練習の合間、外周を走るコースがテニスコートの近くを通る時、俺はいつも、ちらりとその方向に視線をやった。
亜季の姿が見えることもあれば、見えないこともある。ラケットを振る、あの姿を遠目に眺めるだけの日々。
声をかけることはなかった。小学校の頃とは違って、今の亜季とは、話す理由も、きっかけもなかったから。
それでも、年に二回、五月のクラス対抗駅伝と、十月の部活対抗駅伝の時だけは、少し違った。
スタートラインに立つたび、俺は心の中で、同じことを考えていた。
――見てるかな。
亜季が、この会場のどこかにいるかもしれない。そう思うだけで、いつも以上に力が入った。
小6の頃、あいつが変えてくれた練習環境。あの日々がなければ、今の俺はなかった。
だから、駅伝の日だけは、誰よりも本気で走った。それが、亜季への、ある種の恩返しのつもりだった。
もっとも、亜季がそのことを知っているのかどうかは、分からなかった。
――どうせ、伝えたことなんてないんだから。
そう思いながら、俺は今日も、テニスコートの方角を、ちらりと見た。
中学二年のある日の昼休み、俺は自分の席で友人と話していた。
「裕也」
不意に声をかけられて振り向くと、そこにいたのはクラスでも目立つ存在の祥子だった。すらっと背が高く、気の強そうな顔立ち。取り巻きらしき三人の女子を引き連れている。
――なんだ? 何かしたか?
思い当たる節もなく、身構えながら振り返る。
祥子は、満面の笑みを浮かべると、俺の顔をじっと見た。
「裕也、今日誕生日でしょ?」
「……そうだけど」
なんで知ってるんだ、と思いながらも、素直に頷いた。
祥子は、包み紙に包まれた何かを、俺の机の上に置いた。
「これ、絵理から。誕生日プレゼント!」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
絵理。隣のクラスの、絵理か。
一年の時は同じクラスで、部活もソフトボール部で運動場が同じだから、ちょくちょく話す仲だった。帰る方向が同じで、たまに時間が合うと、途中まで一緒に帰ることもある。
でも、それだけだ。プレゼントを贈り合うような関係だとは、思ってもみなかった。
「え、なんで……」
戸惑う俺に、祥子が畳みかけるように言った。
「裕也、どういう意味かわかるよね?」
その言い方には、なぜか威圧的な響きがあった。
「わかりません」
正直にそう答えると、祥子の眉が、わずかに動いた。
――そもそも、なんで祥子が持ってくるんだよ。
絵理と祥子は、部活も同じソフトボール部、クラスも同じだ。頼まれて、届けに来たんだろうか。
でも、それにしたって、この空気は何なんだ。
包み紙を手に取ったまま、俺はしばらく、状況が飲み込めずにいた。
放課後、家に帰ってから、俺は机の上に置いたプレゼントを、じっと見つめていた。
包み紙を開けると、中には、スポーツタオルが入っていた。しかも、俺がいつも使っている、お気に入りのメーカーのものだった。
一緒に、小さなメッセージカードが添えられていた。
「誕生日おめでとう。絵理より」
シンプルな一言だったけど、丁寧な字で書かれたその言葉に、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――なんで、これ知ってるんだ。
驚きながらも、意外と細かいところまで見られていたことに、少し照れくさくなった。
――絵理が、これを選んだのか。
少し日焼けした肌に、よく似合うショートカット。いつも快活に笑う顔が、自然と頭に浮かんだ。
想像すると、なんだか落ち着かない気持ちになった。
絵理とは、確かに仲がいい。クラスが分かれてからも、部活が同じ運動場だから、顔を合わせれば自然と話す。特に意識したことはなかったけど、話してて気を遣わない相手だった。
それでも、こんな風に、自分の好みまで気にかけてもらえるとは、思ってもみなかった。
――どういうつもりなんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
でも、心のどこかで、少しだけ嬉しい自分もいた。
こんな風に、誰かに「誕生日おめでとう」と気にかけてもらえることなんて、今まであまりなかったから。
一方で、頭の片隅には、いつも通り、亜季のことがあった。
テニスコートの脇を走りながら、遠くに見えるあの姿。声をかけることすらできない、届かない想い。
比べても仕方がないのは分かっていた。でも、今日、絵理からのプレゼントを受け取ってから、ずっと、二人のことが頭の中で行ったり来たりしていた。
――近くにいて、気を遣わずに話せる絵理。
――ずっと遠くから想い続けている、亜季。
自分でも、どうしたいのか、よく分からなかった。
スポーツタオルを、そっと手に取る。
柔らかい感触が、なんだか今の自分の心情を象徴しているような気がした。
翌日、部活前のグラウンドで、絵理を見かけた。
ソフトボール部の練習着姿で、仲間たちと準備運動をしている。
いつも通りの、快活な様子だった。
――どう声をかけたらいいんだろう。
昨日から、ずっと考えていたはずなのに、いざその姿を見ると、頭が真っ白になった。
「あ、裕也!」
先に気づいたのは、絵理の方だった。
軽く手を挙げて、こちらに駆け寄ってくる。
でも、近づくにつれて、その足取りが、心なしかぎこちなくなった。
「あの……タオル、届いた?」
いつもの快活さが少し引っ込んで、照れくさそうに、絵理はそう聞いてきた。
「あ、うん……ありがとう」
なんとか、それだけ返した。
「よかったら、使ってね」
絵理は、頬をわずかに赤くしながら、そう付け加えた。
「気に入ってくれるといいなーって思って。メーカー、前に裕也が言ってたの覚えてたから」
「そんな話、したっけ」
「したよ。夏休み前、部活終わりに話した時」
言われてみれば、そんな会話をした記憶が、うっすらとあった。何気ない雑談の中の、ほんの一言。それを、絵理はちゃんと覚えていてくれたということだった。
「昨日のプレゼント、なんで、祥子に頼んだんだ?」
気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
絵理は、一瞬、目を逸らした。
「……直接渡すの、恥ずかしくて。それで、祥子に色々相談してたら」
「祥子が、私が渡してきてあげる! って、言い出して」
絵理は、少し困ったように笑った。
「気づいたら、もう祥子が先に、裕也のところ行っちゃってて」
「じゃあ、練習始まるから!」
そう言って、逃げるように仲間の元へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は、昨日から続いていたモヤモヤが、余計に大きくなっていくのを感じていた。
五月、クラス対抗駅伝大会の日がやってきた。
競技場のスタートラインに立つと、周りのざわめきが、いつもより遠く聞こえた。
「裕也、当然だけどアンカーな。頼んだぞ」
クラスメイトたちの期待の声を背中に受けながら、俺は小さく頷いた。
一組は、俺がいることで、当然のように優勝候補として見られていた。プレッシャーがないと言えば嘘になる。それでも、不思議と嫌な気持ちはなかった。
自分の区間のスタート地点で、たすきを待つ間、俺は無意識に、観客席の方へ視線を送っていた。
――見てるかな。
亜季は、来てるだろうか。クラス対抗だから、亜季は七組の応援に回ってるはずだけど。
考えても、確かめようがなかった。それでも、その「見てるかもしれない」という思いだけで、体の奥から力が湧いてくる気がした。
たすきの受け渡しゾーンで、俺は今か今かと、自分の前の走者を待っていた。
一位、二位と、次々にたすきが繋がれていく。
――まだか。
視線を走らせると、遠くに、見覚えのあるクラスメイトの姿が見えた。
来た。
苦しそうに顔を歪めながら、それでも必死に足を動かしている。
――四位か。トップとの差は、二十秒くらい。
本気で走れば、いける。
前の走者が、どんどん近づいてくる。
「絶対勝ってやる」
そう思った瞬間、目の前まで来た彼が、声を振り絞った。
「裕也、頼む!」
「任せろ!」
たすきを受け取ると同時に、俺は地面を蹴った。
背後から、クラスメイトたちの声が飛んでくる。
「裕也、頼むぞー!」
その声援を背に、俺は走り出した。
前を走る選手たちの背中が、少しずつ近づいてくる。一人、また一人と抜いていく。
苦しさよりも、走ることそのものへの集中が、頭の中を支配していた。
小6の頃の、あの練習を思い出す。やる気のある奴らと、本気で競い合う気持ちよさ。あれを教えてくれたのは、間違いなく亜季だった。
だから、この瞬間だけは、誰よりも本気で走りたかった。
ゴールテープが、目の前に迫ってくる。
最後の力を振り絞って、俺はテープを切った。
一位。
クラスメイトたちの歓声が、遠くから聞こえてくる。
息を切らしながら、俺はもう一度、観客席に視線を送った。
亜季らしき姿は、見当たらなかった。
――まあ、いつものことか。
小さく苦笑いしながら、俺は肩で息をした。
その時、不意に名前を呼ばれた。
「裕也、お疲れ!」
振り返ると、そこにいたのは絵理だった。
汗だくの俺を見て、屈託なく笑っている。
「めっちゃかっこよかったよ、ラストの追い上げ!」
「……見てたのか」
「もちろん! 応援してたし」
その笑顔に、俺は少し面食らった。
亜季のことばかり考えていたはずなのに、今、目の前で自分を見て、素直に喜んでくれている絵理がいる。
そのことに、なぜか胸の奥が、ざわついた。
夏休みに入っても、陸上部の練習は休みなく続いた。
蝉の声がうるさいくらい響く中、照りつける日差しを浴びながら、今日も俺は運動場にいた。
止めどなく流れ落ちる汗を拭うたびに、俺は絵理にもらったタオルを使っていた。
――こんなに使うことになるとはな。
最初は、少し照れくさい気持ちもあった。でも、使い込むうちに、それも当たり前の日常になっていった。
「裕也、今日も気合入ってんな」
チームメイトに、そう声をかけられることも増えた。夏の暑さに負けず、黙々と走り込む日々。
その合間、ふと視線が、テニスコートの方に向くこともあった。
亜季は、夏の大会に向けて、真剣に練習しているのだろうか。
会うことも、話すこともないまま、季節だけが過ぎていく。
同じ運動場の向こうでは、ソフトボール部が声を張り上げて練習していた。
――あれ、絵理かな。
ひときわ大きな声を出して、仲間を鼓舞している姿があった。いかにも絵理らしい、活気のある声だった。
そんな絵理を横目に眺めながらも、俺の心の中からは、亜季の存在が離れなかった。
そういえば、と思い出す。
先日、教室でクラスメイトが話していた噂話が、ふと頭をよぎった。
「七組の亜季ちゃん、また告白されたらしいよ」
「あの子マジで可愛いもんね~。私もあんな風に可愛く生まれたかったな~」
「しかも、三年のあのサッカー部のキャプテンのあの人にだよ」
「え、断ったの? 意味わかんなくない?」
「なんか、好きな人がいるとかって」
「いつもそう言って断ってるから、実は好きな人なんていないんじゃない? とか、好きな人、二次元だったりしてなんて言われてるらしいよ」
その時は、特に気にも留めずに聞き流していた。陸上のことで頭がいっぱいで、そういう噂話には、あまり耳を貸してこなかったから。
でも今、ふとその会話を思い出すと、少しだけ、胸がざわついた。
――好きな人、か。
誰なのかは、分からない。考えたところで、答えが出るはずもなかった。
それでも、なぜか、その言葉だけが、頭の隅に引っかかって離れなかった。
「なあ、そのタオル。ソフト部の絵理ちゃんに、もらったんだって?」
不意に、陸上部の友人にそう聞かれた。
「……誰に聞いたんだよ」
「そうだけど」
「マジか……いいなぁ。付き合おうとか思わないの? 絵理ちゃん、マジで可愛いよな~」
「……そんな簡単じゃないんだよ」
それだけ言って、俺は練習に戻った。
タオルで汗を拭いながら、俺はふと、そのことに気づく。
――絵理のタオルを使いながら、考えてるのは、亜季のことばかりか。
矛盾している自覚はあった。それでも、どうすることもできなかった。
夏が終わり、少しずつ気温が下がり始めた頃、十月の部活対抗駅伝大会の日が近づいてきた。
この大会は、各部活が二~三チームを組んで、学年の枠を超えて競う一大イベントだ。野球部、サッカー部、バスケ部――それぞれが「一位は自分たちの部活だ」と意気込み、最強のメンバーを揃えてくる。
陸上部は、毎年「表彰台独占」を目標に掲げていた。でも、戦力を三チームに分散させる関係で、未だに達成したことはない。
今年は、中長距離の選手が例年より多く、顧問の期待も高かった。
でも、発表されたチーム編成を見て、俺は自分の目を疑った。
――なんだよ、これ。
一番速いメンバーが集められた二チームに、俺の名前はなかった。俺のチームには、幅跳びや高跳びの選手が混じっている。
――このメンバーで、一位なんて無理だ。
各部活の最強メンバー相手に、三位すら怪しい。
「裕也! お前にかかってるんだ、頼むぞ!」
顧問の声に、怒りが込み上げてきた。
――どう頑張っても、無理だろ。なんで、一番速い俺が、こんなチームに。
公式戦じゃない。大差がついたら、それっぽく流せばいい。
そんな投げやりな考えが、頭をよぎった。
――結局、また俺が尻拭いか。
気持ちが沈んだまま、当日を迎えた。
レース前、絵理が声をかけてきた。
「今日もアンカーだよね! 応援してるよ、頑張ってね!」
「……ああ、まあ、やるだけやるよ」
「……裕也?」
絵理が、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
いつもなら、迷わず「任せろ」と返していたはずだった。自分でも、その返事に違和感を覚えながら、俺はその場を後にした。
レースが始まる。
一位、二位には、陸上部の他の二チームがついていた。
――やっぱり、速いよな。
自分がいなくても、それだけの実力がある奴らだった。
サッカー部、野球部、バスケ部が、僅差でその後ろに続いている。
たすきの受け渡しゾーンで、俺は前の走者を待っていた。
――まだか。トップとは、三十秒差。
もう、一位は取れない。三位も、正直厳しいだろう。
やっと、前の走者の姿が見えてきた。各部活のBチームと競り合いながら、苦しそうな顔で走ってくる。
――駄目だ。頑張らないと。
そう思うのに、気持ちが入らなかった。
その時。
「悪い、頼む!」
前の走者が、苦しそうな声を絞り出しながら、たすきを差し出してきた。
「裕也! 負けるな――!!」
同時に、また、あの声が響いた。
――絵理じゃない。誰だ。
「任せろ!」
考える間もなく、そう叫び返しながら、たすきを受け取った。
――六位か。
――よし。俺は、負けない。
裕也は、気合いを入れて走り出した。
前を走る一人を、まず追い抜く。
――五位。
一位、二位は、もう届かない。三位を狙うにも、前にまだ二人いる。
――このままじゃ、五位か。
諦めかけた、その時だった。
「裕也! 諦めるな――!!」
また、あの声が響いた。
心臓が、大きく跳ねた。
――誰だ。
考えている暇はなかった。その声に、負けん気の火がついた。
――誰が、諦めるかよ。
まだ少し早いと分かっていながら、俺はラストスパートをかけた。猛追する。
ゴール前、息が苦しい。
――スパート、早すぎたか。
――くそ、負けるか。
ものすごい声援の中、最後の力を振り絞って、俺はゴールした。
タッチの差だった。
――三位か? 四位か?
息が上がって、立っているのもやっとだった。
順位が発表される。
「三位、陸上部!」
歓声が沸いた。
――まさかの結果だった。
最後の追い上げによるデッドヒートに、観客からもチームメイトからも、拍手と歓声が送られた。
陸上部員たちが、次々と駆け寄ってくる。初めての表彰台独占。顧問の先生が、部員たちに胴上げされていた。
――よかった。
俺は、ほっと息をついた。
でも、たすきを受け取った瞬間。そして、最後のあの瞬間。
あの声援は、絵理じゃなかった。
――まさか、亜季か?
そう思って、辺りを見渡した。
でも、亜季らしき姿は、どこにもなかった。
◇亜季視点◇
小学生の頃の私は、ずっと自分に自信が持てなかった。
「亜季ちゃん可愛いね」
そう言われることは多かった。でも、それがずっと、心のどこかで引っかかっていた。
――可愛いだけ。
本当に、みんなそう思ってくれているんだろうか。可愛いという言葉の裏に、何もない自分がいるんじゃないか。そんな風に、塞ぎ込んでしまう日がよくあった。
そんな時、決まって河原に朝日を見に行った。
昇り始めたばかりの朝日を見ていると、不思議と心が安らぐ気がしたから。
ある日、いつものように河原に行くと、必死に走っている男の子の姿が見えた。
――嘘。裕也くんだ。
足が速いという噂は聞いたことがあった。でも、こんな朝早くから、誰にも見せずに練習しているなんて、思ってもみなかった。
驚いた。数日後、今度は夜、母の車で移動している時、また同じ場所を走る裕也くんの姿を見かけた。
「ごめん! お母さん、車止めて!」
「え、どうしたの、急に」
戸惑う母をよそに、とっさに窓ガラスを開けた。
夜の暗がりの中、必死に走る裕也くんの姿が見えた。
――あんなに苦しそうなのに、頑張ってる。朝も、夜も。
裕也くんの必死な走る姿に、私はしばらく、声も出なかった。
言葉が出なかった。
――私は、何もやってない。
そう思った瞬間、何かが動き出した気がした。
次の日から、積極的に人に話しかけるようになった。勉強も頑張るようになった。
うまくいかない時もたくさんあった。そんな時は、また朝日を見に、河原に行った。全力で頑張る裕也くんの姿を見ると、また頑張れる気がした。
六年生になったある日、放課後、教室で男子たちが話しているのが聞こえた。
「裕也、やる気なくて駅伝出ないらしいよ」「二組、終わったな」
――あなたたちみたいな、大した努力もしてない人が、何を言ってるの。
込み上げる怒りを抑えながら、二組に急いだ。
でも、裕也くんの姿はなかった。
「裕也くんって、もう帰っちゃった?」
近くにいた子に聞くと、「たぶん図書室じゃない?」と言われた。
図書室に向かいながら、心臓がどんどん速くなっていった。
――話したこともないのに。
「お前誰?」って言われるかもしれない。「関係ないだろ」って突き放されるかもしれない。
それでもいい。何を言われてもいい。
努力は、報われなきゃいけない。
そう思って、意を決して声をかけた。
結果として、裕也くんは駅伝大会に出て、五年生に続いて、県大会まで進んだ。
あの時、裕也くんに言われた言葉を、今でも覚えている。
「君のおかげで頑張れた。本当にありがとう」
その言葉に、涙が出た。
――私なんかでも、誰かの役に立てるんだ。
これが、私の初恋だった。
一生忘れられない、大切な思い出。
でも、中学に入ってから、クラスは一緒にならなくて――
「また告白されたんだって?」
昼休み、親友にそう聞かれて、私は曖昧に笑って返した。
「三年のサッカー部のキャプテンでしょ? あの背の高い」
「うん……ごめんなさいって言った」
「マジで!? もったいないよ~。三年の先輩だよ? かっこいいのに」
「そういう問題じゃないんだって」
「じゃあ、どういう問題? 好きな人がいるって、前から言ってるけど、誰なの?」
「秘密」
いつも通り、そう言ってはぐらかす。
本当は、誰なのか聞かれるたびに、心臓が小さく跳ねていた。
中学に入ってからは、クラスも部活も違う。話す機会なんて、ほとんどなくなった。
それでも、五月と十月、駅伝の日だけは違った。
その日だけは、遠くからでも、裕也の姿を追いかけることができたから。
今年の十月の駅伝も、もちろん見に行った。
チーム編成が発表された時、裕也の名前が、速いメンバーのチームになかったことも知っていた。
――大丈夫かな。
心配だった。あの負けず嫌いな裕也が、納得できるはずがない。
レース当日、遠くから見ていた私は、ずっと、ハラハラしながら見守っていた。
裕也がたすきを受け取る瞬間。そして、諦めかけたように見えた、あの瞬間。
――頑張って。
心の中で、何度もそう繰り返していた。
結果は、まさかの三位。
表彰台に立つ陸上部員たちを見ながら、私は自分のことのように、嬉しくなった。
でも、それと同時に、少しだけ、複雑な気持ちもあった。
――絵理さん、また応援に来てたな。
裕也の周りに、いつも絵理さんがいることは、知っていた。仲が良さそうに話す二人を見かけるたびに、胸の奥が、ちくりと痛む。
私には、その輪に入っていく勇気が、まだなかった。
小学生の頃のように、まっすぐ声をかけられたら、どんなにいいだろう。
でも、あの頃とは違う。今は、お互い、もう子供じゃない。
想いを伝えることの重さを、ちゃんと分かってしまうくらいには、大人になっていた。
だから、私はいつも、遠くから見ているだけだった。
◇◇◇
◇絵理視点◇
中学に入学して、私はソフトボール部に入った。
運動場を共有する陸上部とは、練習時間が重なることも多かった。
ある日の練習中、ふと視線を向けた先に、綺麗なフォームで走る男の子がいた。
長い脚を弾ませるように、軽やかに、それでいて力強く。まるで、風みたいだった。
――かっこいい。
目が離せなかった。
それが、裕也との出会いだった。
一目惚れだった。
それからは、練習の合間、気づけば陸上部の方を見るのが、日課のようになっていた。
「何見てるの、いつも?」
祥子に聞かれて、思わず口を滑らせてしまった。
「陸上部の裕也くん、かっこよくない?」
「え!? 絵理、裕也のこと好きなの?」
祥子は、驚いたように目を丸くした。
「あいつ、陸上馬鹿って感じで、女の子に興味とかなさそうだけどな」
「で、告白するの?」
「何言ってるの。話したこともないんだよ? 一応、同じクラスだけど」
一年の時、同じクラスだった。それでも、話したことなんて、ほとんどなかった。
「私、同じ小学校だったし、紹介してあげようか?」
「紹介とかいいから! 大丈夫だから、ありがとう」
祥子の申し出を断って、私は決めた。
――自分で、話しかけてみよう。
勇気を出して、話しかけてみた。「自然っぽく、自然っぽく」と、自分に言い聞かせながら。
同じ運動部同士ということもあって、会話は自然と弾んだ。
それからは、時間が合う時、途中まで一緒に帰ることもあった。
裕也と一緒に帰る時間が、楽しくて仕方なかった。
部活の話、クラスの話。色んな話をしていくうちに、私はどんどん、裕也のことを好きになっていった。
それとなく、誕生日を聞いてみたり、好きなものを聞いてみたり。
――彼女は、いなさそうだな。
そんなことを考えながら、ふと思う。
――ってか、二人でこうして歩いてたら、カップルみたいじゃない?
急に、顔が熱くなった。
「どうかした?」
裕也に聞かれて、慌てて答える。
「なんでもないよ!」
そんな日常が、とても楽しかった。
部活対抗駅伝大会が終わって、数日後のことだった。
帰り際、たまたま一人でいる亜季さんを見つけた。
――今しかない。
「あの……」
声をかけると、振り返った彼女が、小さく首をかしげた。
「二組の絵理ちゃんだよね? どうかした?」
――うわ、やっぱり可愛い。
女の私から見ても、本当にすごく可愛い人だった。
ドキドキしながら、それでも言葉を続けた。
「話したいことがあるんですけど……」
「二人で、話す?」
「はい」
人気のない場所に移動して、二人で向き合った。
「亜季さんって……裕也のこと、好きなんですか?」
心臓が、うるさいくらい鳴っていた。それでも、思い切って続けた。
「裕也の、何なんですか? 私、部活対抗駅伝の時……見てました」
亜季さんの表情が、わずかに固まった。
「亜季さんの声で、裕也が変わるの」
下を向いて、唇を噛んだ。
「私じゃ、無理なんだ。私じゃ、駄目なんだって、思った」
悔しさと、どうしようもない寂しさが、胸の奥から込み上げてくる。
亜季さんは、しばらく黙っていた。
「私は……裕也が、好きなの」
搾り出すように、私は続けた。
「ねえ、亜季さん。そんなに可愛いんだから、いくらでもかっこいい人、寄ってくるでしょ? 裕也じゃなくても、いいじゃないですか」
目の奥が、じわりと熱くなった。涙が、今にも溢れそうだった。
「私は……私は、どうしても、裕也がいいの」
こらえきれず、涙がこぼれ落ちた。
「付き合う気がないなら、ちょっかい出さないでください。ずるいよ……」
言い終えた瞬間、自分の言葉に、はっとした。
涙を拭いながら、私は続けた。
「ごめんなさい……変なこと言って」
「私は、思いを伝えたいだけなんです。無理かもしれないけど……それを、伝えたくて。亜季さんには」
亜季さんは、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて、まっすぐに私の方を向いて、静かに口を開いた。
「……駅伝の時、見てたんだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「私は……ずっとずっと、裕也くんだけが好きだった」
亜季さんの声は、震えていた。
「小学校の時、色々あって。裕也くんのおかげで、今の私があると思ってる。裕也くんには、すごく感謝してる」
「でも、クラスも部活も離れてるし、遠くから見てるだけだった。あの駅伝の時も、見てるだけのつもりだった」
「でも、裕也くんの顔見てたら……思わず、叫んじゃった」
亜季さんの目に、涙が浮かんでいた。
「叫んだ時に、思ったの。裕也くんのことが、好きだって。本当に、大好きだって」
亜季さんは、まっすぐに私の目を見つめた。
「私は、誰よりも裕也くんが好き。優しくて、努力家で、どこまでもまっすぐな裕也くんが、好き」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
覚悟していたはずなのに、実際に本人の口から聞くと、胸が締めつけられるように痛かった。
でも、同時に、どこかで、ほっとしている自分もいた。
――やっぱり、そうだったんだ。
確信はあったけど、それでも、どこかで違ってほしいと思っていた自分もいたのかもしれない。
そして、亜季さんの想いの重さも、痛いほど伝わってきた。
それでも――。
私は、拳を強く握りしめた。
――私の気持ちも、ちゃんと伝える。
◇◇◇
亜季さんと話した、翌日の放課後だった。
「裕也、ちょっといい?」
グラウンドの隅で、俺を呼び止めたのは絵理だった。
いつもの快活な様子とは、どこか違っていた。
「どうした?」
「少し、時間もらってもいい?」
俺たちは、部活が終わった後の、人気のない校庭の隅に移動した。
夕方の風が、少し冷たくなり始めている。
絵理は、しばらく黙っていた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないような、そんな沈黙だった。
「あの、さ」
ようやく口を開いた絵理の声は、微かに震えていた。
裕也が、不意にこちらを向いて、目が合った。
絵理は、大きく息を吸い込んで、言った。
「私は……裕也のことが、好きです」
不意打ちの言葉に、俺は息を呑んだ。
「一年の時、初めて練習してる裕也を見てから。それから、ずっとずっと」
「裕也のことが、どうしようもなく好きなの!」
言った瞬間、我慢していた涙が溢れた。
――絵理が、こんなに。
驚きのあまり、何も言葉が出てこなかった。
溢れる涙を拭いながら、絵理は続けた。
「急に、こんなこと言われても困るよね?」
否定できなかった。困っているというより、ただ、呆然としていた。
「でもね……でも、本当に大好きで。好きすぎて、どうしても伝えずにはいられなかった」
頬に、また涙が流れる。
俺は、何も言えないまま、ただ絵理の言葉を、黙って受け止めることしかできなかった。
涙を払って、絵理は、赤く腫らした目のまま、笑顔を作った。
「返事とか、いらないからね」
「ただ、どうしても、どうしても、思いを伝えたかったの。好きだから」
いつもの、弾けるような笑顔で、大きな声で。
「大好きだから!」
「ごめんね……ずっと黙ってるの、苦しかったから」
夕日が、絵理の涙を照らしていた。
「今まで通り、友達でいてくれたら、それでいいから」
そう言って、絵理は小さく頭を下げた。
「変なこと言って、ごめんね」
そのまま、絵理は背を向けて、校舎の方へ歩いていった。
一人残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
――絵理が、俺のことを。
驚きと、申し訳なさと、色んな感情が入り混じって、うまく整理がつかなかった。
同時に、頭の片隅で、もう一つの想いが、じわじわと存在感を増していくのを感じていた。
――亜季は、今、何を考えてるんだろう。
答えの出ない問いが、頭の中で渦を巻いていた。
翌朝、まだ薄暗い中、俺は今日も、日課となっている朝の練習で、河原を一人走っていた。
昨日の絵理との出来事が、頭から離れなかった。
――絵理が、俺のことを。
でも、俺は――。
そこまで考えて、答えの出ないまま、頭を振った。
そんな思いが、頭の中を駆け巡る中、先の方に人影が見えた。
――散歩の人かな。珍しいな。
近づいたところで、俺は急に立ち止まった。
――なんで。
昇ってきた朝日に、その横顔が照らされている。
見覚えのある横顔だった。見間違うはずのない。
ずっとずっと、会いたかった。
トレードマークの、高い位置で結んだポニーテール。色白の肌。横顔でも分かる、パッチリとした大きな澄んだ瞳。
――亜季。
俺が立ち止まると、彼女はこちらを向いた。
心臓が、大きく高鳴る。
久しぶりに間近で見る、朝日に照らされた亜季の顔。あまりの可愛さに、言葉が出なかった。
――会いたかった。
会えた喜びが、胸の奥から込み上げてくる。
「おはよう、裕也くん。久しぶり!」
上がっていた息を整えながら、それでも心臓の鼓動は、高鳴ったまま抑えられなかった。
言葉を絞り出す。
「おはよう……亜季」
「ごめんね! 朝の練習中に」
久しぶりに裕也くんを近くで見た瞬間、心臓の鼓動が、一気に速くなる。
――駄目だ。私、裕也くんのことが、本当に好きだ。
今にも胸に飛び込んでいきたい衝動を抑えながら、亜季は言った。
目に、じわりと涙をためながら。
「今日は裕也くんに、どうしても伝えたいことが……ううん、伝えなきゃいけないことが、あるんだ」
亜季は、大きく息を吸い込んだ。
「私は……私は、裕也くんのことが好きです!」
言った瞬間、涙が頬を伝った。
亜季は、涙を拭いもせず、話し始めた。
「せっかく小学校の時、仲良くなれたと思ったのに。気がつくと、中学に入ってから距離ができちゃって」
「一度できてしまった距離を、どう縮めたらいいのか。何て声をかければいいんだろうって、そんなことばかり考えながら、ずっと、遠くで見てた」
「裕也くんが、部活対抗駅伝の時。心配で、気がついたら、思わず叫んじゃってた。負けてほしくなくて。二回も」
「裕也くんの力になりたかった」
「私は……私は……ずっと、裕也くんのそばにいたい」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
「……あの時の声、亜季だったんだね」
ようやく、そう口にした。
「ありがとう。また、亜季のおかげで頑張れた。亜季に、助けてもらった」
「俺も、ずっと気になってた。でも、遠くから見てるだけだった」
亜季の目を、まっすぐに見つめる。
「もう、見てるだけは、嫌だ」
「そばにいてほしい。ずっと」
その声を聞いた瞬間、亜季は堪えきれずに、俺の胸に飛び込んできた。
俺は、そっと、その背中に手をまわした。
まるで、二人を祝福するように。まるで、二人を応援するように。
二人の始まりを見守るように、少しずつ、少しずつ、太陽が昇っていく。
二人は、しばらくの間、その朝日を眺めていた。
チャイムが鳴ると同時に、教室を飛び出す。グラウンドから聞こえてくる、駅伝練習の掛け声を背中に聞きながら。
「また裕也、逃げたよ」
そんな声が聞こえた気もしたけど、気にしないことにしていた。
図書室の隅の席に座って、宿題を済ませる。それが終われば、あとは五時半まで、好きな本を読んで過ごす。それが、ここ最近の俺の日課だった。
「なんで駅伝出ないんだよ」「五年の時、県大会まで行ったのに」
担任の矢口や、クラスメイトが何度も練習に誘いに来た。でも、俺の答えはいつも同じだった。
「もうやらない。俺抜きでやってくれ」
本音を言えば、駅伝そのものが嫌いなわけじゃなかった。ただ、あの練習が、どうしても好きになれなかった。
やる気のない奴、だるそうにする奴。そんな奴らに合わせて、質の低い練習をだらだら続ける。遅い奴の尻拭いをするみたいに走らされて、それで称賛される。馬鹿らしいと思っていた。
でも、それを口に出したら、空気が悪くなる。友達付き合いにも響く。だから、誰にも言えなかった。
その日も、いつものように文庫本のページをめくっていた。
ふわりと、いい香りがした。
「今日も何してるの?」
不意に声をかけられて、顔を上げた。
――また、誰かに説教されるのか。
そう思って身構えたけど、そこに立っていたのは、話したこともない女の子だった。
――え。
一瞬、時間が止まった気がした。
色白で、目がぱっちりとした、綺麗な顔立ち。高い位置で結ばれたポニーテールが、よく似合っていた。
可愛い。めちゃくちゃ、可愛い。
三組の亜季だった。学年で一番可愛いと評判の女子。遠目に見かけたことはあったけど、こんな近くで見るのは初めてだった。
噂には聞いていたけど、実物は、その評判をはるかに超えていた。
話したことなんて、一度もなかった。
思わず見とれてしまった自分に、はっと我に返る。
――なんで、亜季が。
同時に、じわりと苛立ちが込み上げてきた。
誰かが頼んだんだろう。「亜季が誘えば、来るんじゃないか」とでも思われたのか。可愛い女の子を使えば、意固地な奴も動くだろうって。
プライドが、ちりちりと焼けるように痛かった。
「なんだよ、急に」
自分でも、驚くくらい冷たい声が出た。
「どうせ、誰かに頼まれたんだろ。クラスも違うし、俺には関係ないだろ」
言い切って、俺は本を閉じ、荷物をまとめた。
「じゃあ、俺帰るから」
亜季の反応を見ることもなく、図書室を後にした。
次の日も、俺は同じように図書室にいた。
昨日、あんな態度を取ったんだから、もう来ないだろう。そう思っていた。
でも、開いた扉から、ジャージ姿の亜季が、また姿を現した。
――しつこいな。
内心でそう思いながら、あえて視線を本に落としたまま、無視を決め込んだ。
「ねえ」
亜季は、構わず近づいてきて、隣の椅子に腰かけた。
ふわっと、昨日と同じいい香りがした。
――近い。
距離の近さに、思わず心臓が跳ねた。緊張で、指先がわずかに強張る。それを悟られたくなくて、視線を本に戻す。
「他のクラスの女の子のことは、よく分からないけど。君も、クラス代表に選ばれてるんだよね? 練習、行きなよ」
「……」
「なんで、裕也くんは駅伝出ないの?」
その口調は、責めるようでも、からかうようでもなく、ただ純粋に不思議がっているように聞こえた。それが、余計に苛立たしかった。
「誰に頼まれて来たんだよ」
俺は、ようやく本から顔を上げた。
「担任の矢口か? それとも、同じクラスの奴らか?」
「可愛い子が頼めば、裕也くんも来るだろうからって、誰かに頼まれたのか?」
言った瞬間、しまったと思った。自分で言っておいて、恥ずかしくなる。
亜季は、一瞬きょとんとした顔をしてから、小さく笑った。
「誰にも頼まれてないよ」
「悪いけど、もう出る気はない。五年の時、県大会まで行ったんだから、もう十分だろ」
そう言い切って、俺は席を立った。
亜季は、それ以上何も言わずに、俺の背中を見送っていた。
三日目も、亜季は図書室に現れた。
――しつこい。
そう思う一方で、内心では、少しだけほっとしている自分もいた。
――また来た。
素直に言葉にはできないけれど、亜季の顔を見ると、なぜか、悪くない気分になる。
もうこの流れには、慣れ始めていた。
「練習、行こう」
亜季は、当たり前のようにそう言った。
「俺、練習とか嫌いだから行かない」
苛立ち混じりにそう答えると、亜季は、思いもよらない言葉を返してきた。
「練習嫌い? 嘘つき」
「は?」
「練習嫌いな人が、あんなに一生懸命、朝も晩も走るのかな?」
亜季は、不思議そうな、それでいてどこか楽しそうな笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
――え。
心臓が、大きく跳ねた。
誰にも見られないように、河原を走っていたはずだった。小学校低学年の頃から、ずっと。誰の目にも触れないように、朝と夜、こっそりと。
――見られてた? どこで? いつから?
表に出さない努力を、こっそり見られていたことが、たまらなく恥ずかしかった。
「五年生の駅伝大会、市内の大会、見に行ったんだ」
亜季は、構わず続けた。
「アンカーで、四人抜いて、最後の一人も抜いて、五人抜きで一位でゴールしたの見て、感動したんだよ~!」
「……で?」
俺は、わざと冷めた声を出した。
「それ、みんな同じこと言うよな」
そう言いながら、内心では、テンションが急速に下がっていくのを感じていた。
――結局、それか。
速いから、すごいから、感動した。
そんな言葉は、これまで何度も聞いてきた。特別でもなんでもない、ただの「結果」に対する称賛。
俺が本当に見てほしかったのは、そこじゃなかった。
「で?」
俺の反応に、亜季は一瞬、きょとんとした顔をした。
「ああ、違うの。感動したのは、それだけじゃなくて」
そう言って、亜季は少し考えるように視線を上げた。
「私、河原に朝日を見に行くのが好きなんだ。毎日じゃないけど。それで、ある日、必死に走ってる裕也くんを見かけたの」
「……」
「がむしゃらに、本当に必死に走ってて。こんなに頑張ってるんだ、って、びっくりした」
亜季は、そこで一度言葉を止めて、また続けた。
「でね、別の日、夜遅くに、お母さんの車で河原の近くを通ったの。そしたら」
――まさか。
嫌な予感が、胸に広がっていく。
「裕也くんが、走ってた」
「……夜も?」
「うん。朝も夜も、こんなに走ってるんだって思ったら」
亜季は、まっすぐに俺を見た。
「裕也くん、一年生の頃からずっと一番速くて。だから、正直、もともと足が速いだけなんだと思ってた。羨ましいな、生まれつき得意なことがあって、って」
亜季は、少し照れくさそうに笑った。
「でも、違った」
そこで、表情が変わった。
「あんなに必死に、朝も夜も走ってるの見て、全然違うんだって、分かったの」
「毎日、必死に努力した結果だったんだね」
その言葉に、俺は何も言い返せなかった。
誰にも見せるつもりのなかった、一番恥ずかしい部分を、全部見られていた。
でも、不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ、初めて誰かに、本当の意味で「見てもらえた」気がした。
その日も、図書室に亜季がやってきた。
「まだ来るんだ」
俺が、ため息交じりにそう言うと、亜季は気にする様子もなく、隣の椅子に腰かけた。
「うん。裕也くん、来て欲しくなさそうだけど」
「……」
図星を突かれて、何も言えなかった。
「でも、なんでだろうね。裕也くんが、来るなって本気で言ってる感じがしないから、私も来ちゃうんだと思う」
その言葉に、俺は思わず苦笑いした。
「そんなわけないだろ」
強がって、そう返した。
「じゃあ、行こう」
「え?」
言うが早いか、亜季は俺の手を掴んで、ぐいっと引っ張った。
――え、え、え。
女の子と手を繋いだことなんて、一度もなかった。
しかも、相手は、とびきり可愛い亜季だ。
すべすべとした、柔らかい感触が、手のひらに広がる。
言葉にはうまく言い表せない、じんとした感動が、胸の奥に広がっていった。
心臓が、うるさいくらい鳴り出す。頭の中が、真っ白になった。
引っ張られるまま、図書室を出て、廊下を歩いていく。
このまま、手を繋いだまま連れて行かれるのか。
そう思うと、余計に落ち着かなくなって、俺は思わず、繋がれていた手を振りほどいた。
亜季が、驚いたように振り返る。
「……」
気まずい沈黙が流れた。
でも、その沈黙のせいなのか、それとも振りほどいてしまった気まずさのせいなのか、俺は思わず、大きく息を吐いた。
「あんな練習行って、何になるんだよ」
一度口を開くと、止まらなかった。
「やる気のない奴、だるそうにしてる奴。そんな連中を見ても、顧問は注意ひとつしない。それで一位取って、県大会行ったら、みんなで喜んで、みんなで頑張った、みたいな空気になる」
捲し立てるように、言葉が止まらなかった。
「は? みんなで勝ち取った? たいして頑張ってもない癖に。馬鹿馬鹿しくて、やってられるかよ」
「俺は、負けるのが嫌なんだよ!」
大きな声が出た。自分でも驚くくらい、感情のままの声だった。
「他の奴にも、自分にも。もっと速くなるための練習なら、いくらだってやるよ! でも、あんな練習に付き合う意味あんのかよ!」
「前に、矢口が俺になんて言ったか知ってるか?」
一度堰を切ると、止まらなかった。
「練習来ないんだったら、大会には出さないぞって、言ったんだぞ? あんな、へらへら喋りながらダラダラ練習してる奴らと同じ扱いで。俺が頑張って結果出したんじゃないのかよ」
「練習来い、練習来いの一点張りで、理由すら聞こうとしない。そんな奴の下で、あんな奴らと練習できるかよ!」
言った瞬間、はっとした。
亜季に向けて、そんな強い言い方をするつもりはなかった。
「……ごめん」
慌てて、そう付け加えた。
言い終えて、俺は自分の言葉に、少し驚いていた。誰にも言えなかったはずのことを、初めて口に出せた。
亜季は、しばらく黙って聞いていた。
「……わかった。ありがとう」
それだけ言うと、亜季は、くるりと背を向けて去っていった。
――あれ。
拍子抜けするくらい、あっさりとした反応だった。
まあ、いいか。
これで、終わりだろう。
そう思っていた。
翌日、授業が終わると、俺はいつも通り図書室に向かおうとした。
でも、廊下に出た瞬間、待ち構えていたように亜季に腕を掴まれた。
「今日だけ、参加してみて」
「は? 何言って――」
「いいから!」
有無を言わさぬ強さで、腕を引っ張られる。
――なんだよ、これ。
戸惑いながらも、振りほどく間もなく、グラウンドまで連れて行かれた。
そこで、俺は目を疑った。
いつもの、だらだらとした練習風景じゃなかった。
タイム順にA組からF組まで、六つのチームに分けられている。それぞれのチームごとに、レベルに合わせた目標タイムが設定されていて、選手たちの表情も、明らかに違っていた。
「今日から、これでやるの」
亜季が、ニコニコしながら言った。
「毎日、最後にタイムトライアルして、チームの入れ替えもするんだって」
――なんで、こんな急に。
呆気に取られる俺に、亜季はさらに続けた。
「やる気出る? やる気のある人たちとやるの、楽しいよ。ここなら、頑張れそうじゃない?」
正直、驚いていた。
昨日まであんなにだらけていた空気が、まるで別物のように変わっている。
「……どうやって、これ」
「顧問の先生に聞いたら分かるよ」
亜季は、意味ありげにそう言った。
その日の帰り際、矢口先生に呼び止められた。
「あー……そういえば」
先生は、少し言いにくそうに、頭をかいた。
「今日みたいなメニューだったら、続けられそうか?」
「あ……えっと、また今度、そのうち考えます」
正直、まだ心の整理がついていなかった。急に環境が変わって、戸惑いの方が大きかった。
でも、そんな俺の返事を、亜季は許してくれなかった。
翌日から、休み時間のたびに、亜季が教室にやってきた。
「今日からじゃなきゃ、駄目なんだよ」
「いや、そんなすぐには……」
「駄目。今日から」
昼休みになっても、亜季は諦めなかった。
「お願い。今日からやろう」
その必死さに、俺は思わず聞いてみた。
「なんで、そんなに必死になるんだよ」
亜季は、一瞬言葉に詰まってから、ぽつりと言った。
「……昨日の朝、矢口先生に相談しに行ったんだけど、最初は全然、相手にしてもらえなかったんだ」
「え?」
「休み時間の度に、先生のところ行って。それでも、生徒が口出すことじゃないって言われて」
亜季は、少し苦笑いした。
「でも、昼休みにも、もう一回お願いしに行ったの。絶対に、練習内容変えてほしいって」
「それで、やっと先生が、わかった、考えてみるって言ってくれて」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
「思ってた通り、先生に、生徒がそんなこと口出すなって、言われた。それでも、裕也くんが本音言ってくれたの、無駄にしたくなかったから」
「だから、今日からやろう。裕也くんの本気、ちゃんと形にしたいから」
その真剣な表情に、俺は言葉に詰まった。
「授業後、また来るから」
「……わかった。もう、来なくていい」
「え?」
亜季が、不安そうな顔をした。
「練習、行くから。本気でやるから」
そう言い切ると、亜季の表情が、ぱっと明るくなった。
「本当に?」
「ああ」
その日から、あの新しい練習メニューが、正式に続けられることになった。
それから、練習は驚くほど変わった。
やる気のある奴らと本気でぶつかり合う日々は、想像していた以上に楽しかった。
そして、それを実現してくれたのは、他の誰でもない、亜季だった。
誰よりも可愛くて、目立つ存在なのに、俺の誰にも見せていなかった努力を見つけて、認めてくれた。それだけじゃなく、実際に環境まで変えてくれた。
そんな亜季のことを、俺はいつしか、好きになっていた。
――これが、俺の初恋だった。
中学に入ってから、俺と亜季は、クラスも部活も違って、顔を合わせる機会はほとんどなくなった。
亜季はテニス部に入って、俺は当然のように陸上部に入部した。
長距離選手として、全国区の実力を持つ俺は、毎日のように運動場で走り込みをしていた。テニスコートは、その運動場のすぐ脇にある。
練習の合間、外周を走るコースがテニスコートの近くを通る時、俺はいつも、ちらりとその方向に視線をやった。
亜季の姿が見えることもあれば、見えないこともある。ラケットを振る、あの姿を遠目に眺めるだけの日々。
声をかけることはなかった。小学校の頃とは違って、今の亜季とは、話す理由も、きっかけもなかったから。
それでも、年に二回、五月のクラス対抗駅伝と、十月の部活対抗駅伝の時だけは、少し違った。
スタートラインに立つたび、俺は心の中で、同じことを考えていた。
――見てるかな。
亜季が、この会場のどこかにいるかもしれない。そう思うだけで、いつも以上に力が入った。
小6の頃、あいつが変えてくれた練習環境。あの日々がなければ、今の俺はなかった。
だから、駅伝の日だけは、誰よりも本気で走った。それが、亜季への、ある種の恩返しのつもりだった。
もっとも、亜季がそのことを知っているのかどうかは、分からなかった。
――どうせ、伝えたことなんてないんだから。
そう思いながら、俺は今日も、テニスコートの方角を、ちらりと見た。
中学二年のある日の昼休み、俺は自分の席で友人と話していた。
「裕也」
不意に声をかけられて振り向くと、そこにいたのはクラスでも目立つ存在の祥子だった。すらっと背が高く、気の強そうな顔立ち。取り巻きらしき三人の女子を引き連れている。
――なんだ? 何かしたか?
思い当たる節もなく、身構えながら振り返る。
祥子は、満面の笑みを浮かべると、俺の顔をじっと見た。
「裕也、今日誕生日でしょ?」
「……そうだけど」
なんで知ってるんだ、と思いながらも、素直に頷いた。
祥子は、包み紙に包まれた何かを、俺の机の上に置いた。
「これ、絵理から。誕生日プレゼント!」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
絵理。隣のクラスの、絵理か。
一年の時は同じクラスで、部活もソフトボール部で運動場が同じだから、ちょくちょく話す仲だった。帰る方向が同じで、たまに時間が合うと、途中まで一緒に帰ることもある。
でも、それだけだ。プレゼントを贈り合うような関係だとは、思ってもみなかった。
「え、なんで……」
戸惑う俺に、祥子が畳みかけるように言った。
「裕也、どういう意味かわかるよね?」
その言い方には、なぜか威圧的な響きがあった。
「わかりません」
正直にそう答えると、祥子の眉が、わずかに動いた。
――そもそも、なんで祥子が持ってくるんだよ。
絵理と祥子は、部活も同じソフトボール部、クラスも同じだ。頼まれて、届けに来たんだろうか。
でも、それにしたって、この空気は何なんだ。
包み紙を手に取ったまま、俺はしばらく、状況が飲み込めずにいた。
放課後、家に帰ってから、俺は机の上に置いたプレゼントを、じっと見つめていた。
包み紙を開けると、中には、スポーツタオルが入っていた。しかも、俺がいつも使っている、お気に入りのメーカーのものだった。
一緒に、小さなメッセージカードが添えられていた。
「誕生日おめでとう。絵理より」
シンプルな一言だったけど、丁寧な字で書かれたその言葉に、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――なんで、これ知ってるんだ。
驚きながらも、意外と細かいところまで見られていたことに、少し照れくさくなった。
――絵理が、これを選んだのか。
少し日焼けした肌に、よく似合うショートカット。いつも快活に笑う顔が、自然と頭に浮かんだ。
想像すると、なんだか落ち着かない気持ちになった。
絵理とは、確かに仲がいい。クラスが分かれてからも、部活が同じ運動場だから、顔を合わせれば自然と話す。特に意識したことはなかったけど、話してて気を遣わない相手だった。
それでも、こんな風に、自分の好みまで気にかけてもらえるとは、思ってもみなかった。
――どういうつもりなんだろう。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
でも、心のどこかで、少しだけ嬉しい自分もいた。
こんな風に、誰かに「誕生日おめでとう」と気にかけてもらえることなんて、今まであまりなかったから。
一方で、頭の片隅には、いつも通り、亜季のことがあった。
テニスコートの脇を走りながら、遠くに見えるあの姿。声をかけることすらできない、届かない想い。
比べても仕方がないのは分かっていた。でも、今日、絵理からのプレゼントを受け取ってから、ずっと、二人のことが頭の中で行ったり来たりしていた。
――近くにいて、気を遣わずに話せる絵理。
――ずっと遠くから想い続けている、亜季。
自分でも、どうしたいのか、よく分からなかった。
スポーツタオルを、そっと手に取る。
柔らかい感触が、なんだか今の自分の心情を象徴しているような気がした。
翌日、部活前のグラウンドで、絵理を見かけた。
ソフトボール部の練習着姿で、仲間たちと準備運動をしている。
いつも通りの、快活な様子だった。
――どう声をかけたらいいんだろう。
昨日から、ずっと考えていたはずなのに、いざその姿を見ると、頭が真っ白になった。
「あ、裕也!」
先に気づいたのは、絵理の方だった。
軽く手を挙げて、こちらに駆け寄ってくる。
でも、近づくにつれて、その足取りが、心なしかぎこちなくなった。
「あの……タオル、届いた?」
いつもの快活さが少し引っ込んで、照れくさそうに、絵理はそう聞いてきた。
「あ、うん……ありがとう」
なんとか、それだけ返した。
「よかったら、使ってね」
絵理は、頬をわずかに赤くしながら、そう付け加えた。
「気に入ってくれるといいなーって思って。メーカー、前に裕也が言ってたの覚えてたから」
「そんな話、したっけ」
「したよ。夏休み前、部活終わりに話した時」
言われてみれば、そんな会話をした記憶が、うっすらとあった。何気ない雑談の中の、ほんの一言。それを、絵理はちゃんと覚えていてくれたということだった。
「昨日のプレゼント、なんで、祥子に頼んだんだ?」
気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
絵理は、一瞬、目を逸らした。
「……直接渡すの、恥ずかしくて。それで、祥子に色々相談してたら」
「祥子が、私が渡してきてあげる! って、言い出して」
絵理は、少し困ったように笑った。
「気づいたら、もう祥子が先に、裕也のところ行っちゃってて」
「じゃあ、練習始まるから!」
そう言って、逃げるように仲間の元へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は、昨日から続いていたモヤモヤが、余計に大きくなっていくのを感じていた。
五月、クラス対抗駅伝大会の日がやってきた。
競技場のスタートラインに立つと、周りのざわめきが、いつもより遠く聞こえた。
「裕也、当然だけどアンカーな。頼んだぞ」
クラスメイトたちの期待の声を背中に受けながら、俺は小さく頷いた。
一組は、俺がいることで、当然のように優勝候補として見られていた。プレッシャーがないと言えば嘘になる。それでも、不思議と嫌な気持ちはなかった。
自分の区間のスタート地点で、たすきを待つ間、俺は無意識に、観客席の方へ視線を送っていた。
――見てるかな。
亜季は、来てるだろうか。クラス対抗だから、亜季は七組の応援に回ってるはずだけど。
考えても、確かめようがなかった。それでも、その「見てるかもしれない」という思いだけで、体の奥から力が湧いてくる気がした。
たすきの受け渡しゾーンで、俺は今か今かと、自分の前の走者を待っていた。
一位、二位と、次々にたすきが繋がれていく。
――まだか。
視線を走らせると、遠くに、見覚えのあるクラスメイトの姿が見えた。
来た。
苦しそうに顔を歪めながら、それでも必死に足を動かしている。
――四位か。トップとの差は、二十秒くらい。
本気で走れば、いける。
前の走者が、どんどん近づいてくる。
「絶対勝ってやる」
そう思った瞬間、目の前まで来た彼が、声を振り絞った。
「裕也、頼む!」
「任せろ!」
たすきを受け取ると同時に、俺は地面を蹴った。
背後から、クラスメイトたちの声が飛んでくる。
「裕也、頼むぞー!」
その声援を背に、俺は走り出した。
前を走る選手たちの背中が、少しずつ近づいてくる。一人、また一人と抜いていく。
苦しさよりも、走ることそのものへの集中が、頭の中を支配していた。
小6の頃の、あの練習を思い出す。やる気のある奴らと、本気で競い合う気持ちよさ。あれを教えてくれたのは、間違いなく亜季だった。
だから、この瞬間だけは、誰よりも本気で走りたかった。
ゴールテープが、目の前に迫ってくる。
最後の力を振り絞って、俺はテープを切った。
一位。
クラスメイトたちの歓声が、遠くから聞こえてくる。
息を切らしながら、俺はもう一度、観客席に視線を送った。
亜季らしき姿は、見当たらなかった。
――まあ、いつものことか。
小さく苦笑いしながら、俺は肩で息をした。
その時、不意に名前を呼ばれた。
「裕也、お疲れ!」
振り返ると、そこにいたのは絵理だった。
汗だくの俺を見て、屈託なく笑っている。
「めっちゃかっこよかったよ、ラストの追い上げ!」
「……見てたのか」
「もちろん! 応援してたし」
その笑顔に、俺は少し面食らった。
亜季のことばかり考えていたはずなのに、今、目の前で自分を見て、素直に喜んでくれている絵理がいる。
そのことに、なぜか胸の奥が、ざわついた。
夏休みに入っても、陸上部の練習は休みなく続いた。
蝉の声がうるさいくらい響く中、照りつける日差しを浴びながら、今日も俺は運動場にいた。
止めどなく流れ落ちる汗を拭うたびに、俺は絵理にもらったタオルを使っていた。
――こんなに使うことになるとはな。
最初は、少し照れくさい気持ちもあった。でも、使い込むうちに、それも当たり前の日常になっていった。
「裕也、今日も気合入ってんな」
チームメイトに、そう声をかけられることも増えた。夏の暑さに負けず、黙々と走り込む日々。
その合間、ふと視線が、テニスコートの方に向くこともあった。
亜季は、夏の大会に向けて、真剣に練習しているのだろうか。
会うことも、話すこともないまま、季節だけが過ぎていく。
同じ運動場の向こうでは、ソフトボール部が声を張り上げて練習していた。
――あれ、絵理かな。
ひときわ大きな声を出して、仲間を鼓舞している姿があった。いかにも絵理らしい、活気のある声だった。
そんな絵理を横目に眺めながらも、俺の心の中からは、亜季の存在が離れなかった。
そういえば、と思い出す。
先日、教室でクラスメイトが話していた噂話が、ふと頭をよぎった。
「七組の亜季ちゃん、また告白されたらしいよ」
「あの子マジで可愛いもんね~。私もあんな風に可愛く生まれたかったな~」
「しかも、三年のあのサッカー部のキャプテンのあの人にだよ」
「え、断ったの? 意味わかんなくない?」
「なんか、好きな人がいるとかって」
「いつもそう言って断ってるから、実は好きな人なんていないんじゃない? とか、好きな人、二次元だったりしてなんて言われてるらしいよ」
その時は、特に気にも留めずに聞き流していた。陸上のことで頭がいっぱいで、そういう噂話には、あまり耳を貸してこなかったから。
でも今、ふとその会話を思い出すと、少しだけ、胸がざわついた。
――好きな人、か。
誰なのかは、分からない。考えたところで、答えが出るはずもなかった。
それでも、なぜか、その言葉だけが、頭の隅に引っかかって離れなかった。
「なあ、そのタオル。ソフト部の絵理ちゃんに、もらったんだって?」
不意に、陸上部の友人にそう聞かれた。
「……誰に聞いたんだよ」
「そうだけど」
「マジか……いいなぁ。付き合おうとか思わないの? 絵理ちゃん、マジで可愛いよな~」
「……そんな簡単じゃないんだよ」
それだけ言って、俺は練習に戻った。
タオルで汗を拭いながら、俺はふと、そのことに気づく。
――絵理のタオルを使いながら、考えてるのは、亜季のことばかりか。
矛盾している自覚はあった。それでも、どうすることもできなかった。
夏が終わり、少しずつ気温が下がり始めた頃、十月の部活対抗駅伝大会の日が近づいてきた。
この大会は、各部活が二~三チームを組んで、学年の枠を超えて競う一大イベントだ。野球部、サッカー部、バスケ部――それぞれが「一位は自分たちの部活だ」と意気込み、最強のメンバーを揃えてくる。
陸上部は、毎年「表彰台独占」を目標に掲げていた。でも、戦力を三チームに分散させる関係で、未だに達成したことはない。
今年は、中長距離の選手が例年より多く、顧問の期待も高かった。
でも、発表されたチーム編成を見て、俺は自分の目を疑った。
――なんだよ、これ。
一番速いメンバーが集められた二チームに、俺の名前はなかった。俺のチームには、幅跳びや高跳びの選手が混じっている。
――このメンバーで、一位なんて無理だ。
各部活の最強メンバー相手に、三位すら怪しい。
「裕也! お前にかかってるんだ、頼むぞ!」
顧問の声に、怒りが込み上げてきた。
――どう頑張っても、無理だろ。なんで、一番速い俺が、こんなチームに。
公式戦じゃない。大差がついたら、それっぽく流せばいい。
そんな投げやりな考えが、頭をよぎった。
――結局、また俺が尻拭いか。
気持ちが沈んだまま、当日を迎えた。
レース前、絵理が声をかけてきた。
「今日もアンカーだよね! 応援してるよ、頑張ってね!」
「……ああ、まあ、やるだけやるよ」
「……裕也?」
絵理が、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
いつもなら、迷わず「任せろ」と返していたはずだった。自分でも、その返事に違和感を覚えながら、俺はその場を後にした。
レースが始まる。
一位、二位には、陸上部の他の二チームがついていた。
――やっぱり、速いよな。
自分がいなくても、それだけの実力がある奴らだった。
サッカー部、野球部、バスケ部が、僅差でその後ろに続いている。
たすきの受け渡しゾーンで、俺は前の走者を待っていた。
――まだか。トップとは、三十秒差。
もう、一位は取れない。三位も、正直厳しいだろう。
やっと、前の走者の姿が見えてきた。各部活のBチームと競り合いながら、苦しそうな顔で走ってくる。
――駄目だ。頑張らないと。
そう思うのに、気持ちが入らなかった。
その時。
「悪い、頼む!」
前の走者が、苦しそうな声を絞り出しながら、たすきを差し出してきた。
「裕也! 負けるな――!!」
同時に、また、あの声が響いた。
――絵理じゃない。誰だ。
「任せろ!」
考える間もなく、そう叫び返しながら、たすきを受け取った。
――六位か。
――よし。俺は、負けない。
裕也は、気合いを入れて走り出した。
前を走る一人を、まず追い抜く。
――五位。
一位、二位は、もう届かない。三位を狙うにも、前にまだ二人いる。
――このままじゃ、五位か。
諦めかけた、その時だった。
「裕也! 諦めるな――!!」
また、あの声が響いた。
心臓が、大きく跳ねた。
――誰だ。
考えている暇はなかった。その声に、負けん気の火がついた。
――誰が、諦めるかよ。
まだ少し早いと分かっていながら、俺はラストスパートをかけた。猛追する。
ゴール前、息が苦しい。
――スパート、早すぎたか。
――くそ、負けるか。
ものすごい声援の中、最後の力を振り絞って、俺はゴールした。
タッチの差だった。
――三位か? 四位か?
息が上がって、立っているのもやっとだった。
順位が発表される。
「三位、陸上部!」
歓声が沸いた。
――まさかの結果だった。
最後の追い上げによるデッドヒートに、観客からもチームメイトからも、拍手と歓声が送られた。
陸上部員たちが、次々と駆け寄ってくる。初めての表彰台独占。顧問の先生が、部員たちに胴上げされていた。
――よかった。
俺は、ほっと息をついた。
でも、たすきを受け取った瞬間。そして、最後のあの瞬間。
あの声援は、絵理じゃなかった。
――まさか、亜季か?
そう思って、辺りを見渡した。
でも、亜季らしき姿は、どこにもなかった。
◇亜季視点◇
小学生の頃の私は、ずっと自分に自信が持てなかった。
「亜季ちゃん可愛いね」
そう言われることは多かった。でも、それがずっと、心のどこかで引っかかっていた。
――可愛いだけ。
本当に、みんなそう思ってくれているんだろうか。可愛いという言葉の裏に、何もない自分がいるんじゃないか。そんな風に、塞ぎ込んでしまう日がよくあった。
そんな時、決まって河原に朝日を見に行った。
昇り始めたばかりの朝日を見ていると、不思議と心が安らぐ気がしたから。
ある日、いつものように河原に行くと、必死に走っている男の子の姿が見えた。
――嘘。裕也くんだ。
足が速いという噂は聞いたことがあった。でも、こんな朝早くから、誰にも見せずに練習しているなんて、思ってもみなかった。
驚いた。数日後、今度は夜、母の車で移動している時、また同じ場所を走る裕也くんの姿を見かけた。
「ごめん! お母さん、車止めて!」
「え、どうしたの、急に」
戸惑う母をよそに、とっさに窓ガラスを開けた。
夜の暗がりの中、必死に走る裕也くんの姿が見えた。
――あんなに苦しそうなのに、頑張ってる。朝も、夜も。
裕也くんの必死な走る姿に、私はしばらく、声も出なかった。
言葉が出なかった。
――私は、何もやってない。
そう思った瞬間、何かが動き出した気がした。
次の日から、積極的に人に話しかけるようになった。勉強も頑張るようになった。
うまくいかない時もたくさんあった。そんな時は、また朝日を見に、河原に行った。全力で頑張る裕也くんの姿を見ると、また頑張れる気がした。
六年生になったある日、放課後、教室で男子たちが話しているのが聞こえた。
「裕也、やる気なくて駅伝出ないらしいよ」「二組、終わったな」
――あなたたちみたいな、大した努力もしてない人が、何を言ってるの。
込み上げる怒りを抑えながら、二組に急いだ。
でも、裕也くんの姿はなかった。
「裕也くんって、もう帰っちゃった?」
近くにいた子に聞くと、「たぶん図書室じゃない?」と言われた。
図書室に向かいながら、心臓がどんどん速くなっていった。
――話したこともないのに。
「お前誰?」って言われるかもしれない。「関係ないだろ」って突き放されるかもしれない。
それでもいい。何を言われてもいい。
努力は、報われなきゃいけない。
そう思って、意を決して声をかけた。
結果として、裕也くんは駅伝大会に出て、五年生に続いて、県大会まで進んだ。
あの時、裕也くんに言われた言葉を、今でも覚えている。
「君のおかげで頑張れた。本当にありがとう」
その言葉に、涙が出た。
――私なんかでも、誰かの役に立てるんだ。
これが、私の初恋だった。
一生忘れられない、大切な思い出。
でも、中学に入ってから、クラスは一緒にならなくて――
「また告白されたんだって?」
昼休み、親友にそう聞かれて、私は曖昧に笑って返した。
「三年のサッカー部のキャプテンでしょ? あの背の高い」
「うん……ごめんなさいって言った」
「マジで!? もったいないよ~。三年の先輩だよ? かっこいいのに」
「そういう問題じゃないんだって」
「じゃあ、どういう問題? 好きな人がいるって、前から言ってるけど、誰なの?」
「秘密」
いつも通り、そう言ってはぐらかす。
本当は、誰なのか聞かれるたびに、心臓が小さく跳ねていた。
中学に入ってからは、クラスも部活も違う。話す機会なんて、ほとんどなくなった。
それでも、五月と十月、駅伝の日だけは違った。
その日だけは、遠くからでも、裕也の姿を追いかけることができたから。
今年の十月の駅伝も、もちろん見に行った。
チーム編成が発表された時、裕也の名前が、速いメンバーのチームになかったことも知っていた。
――大丈夫かな。
心配だった。あの負けず嫌いな裕也が、納得できるはずがない。
レース当日、遠くから見ていた私は、ずっと、ハラハラしながら見守っていた。
裕也がたすきを受け取る瞬間。そして、諦めかけたように見えた、あの瞬間。
――頑張って。
心の中で、何度もそう繰り返していた。
結果は、まさかの三位。
表彰台に立つ陸上部員たちを見ながら、私は自分のことのように、嬉しくなった。
でも、それと同時に、少しだけ、複雑な気持ちもあった。
――絵理さん、また応援に来てたな。
裕也の周りに、いつも絵理さんがいることは、知っていた。仲が良さそうに話す二人を見かけるたびに、胸の奥が、ちくりと痛む。
私には、その輪に入っていく勇気が、まだなかった。
小学生の頃のように、まっすぐ声をかけられたら、どんなにいいだろう。
でも、あの頃とは違う。今は、お互い、もう子供じゃない。
想いを伝えることの重さを、ちゃんと分かってしまうくらいには、大人になっていた。
だから、私はいつも、遠くから見ているだけだった。
◇◇◇
◇絵理視点◇
中学に入学して、私はソフトボール部に入った。
運動場を共有する陸上部とは、練習時間が重なることも多かった。
ある日の練習中、ふと視線を向けた先に、綺麗なフォームで走る男の子がいた。
長い脚を弾ませるように、軽やかに、それでいて力強く。まるで、風みたいだった。
――かっこいい。
目が離せなかった。
それが、裕也との出会いだった。
一目惚れだった。
それからは、練習の合間、気づけば陸上部の方を見るのが、日課のようになっていた。
「何見てるの、いつも?」
祥子に聞かれて、思わず口を滑らせてしまった。
「陸上部の裕也くん、かっこよくない?」
「え!? 絵理、裕也のこと好きなの?」
祥子は、驚いたように目を丸くした。
「あいつ、陸上馬鹿って感じで、女の子に興味とかなさそうだけどな」
「で、告白するの?」
「何言ってるの。話したこともないんだよ? 一応、同じクラスだけど」
一年の時、同じクラスだった。それでも、話したことなんて、ほとんどなかった。
「私、同じ小学校だったし、紹介してあげようか?」
「紹介とかいいから! 大丈夫だから、ありがとう」
祥子の申し出を断って、私は決めた。
――自分で、話しかけてみよう。
勇気を出して、話しかけてみた。「自然っぽく、自然っぽく」と、自分に言い聞かせながら。
同じ運動部同士ということもあって、会話は自然と弾んだ。
それからは、時間が合う時、途中まで一緒に帰ることもあった。
裕也と一緒に帰る時間が、楽しくて仕方なかった。
部活の話、クラスの話。色んな話をしていくうちに、私はどんどん、裕也のことを好きになっていった。
それとなく、誕生日を聞いてみたり、好きなものを聞いてみたり。
――彼女は、いなさそうだな。
そんなことを考えながら、ふと思う。
――ってか、二人でこうして歩いてたら、カップルみたいじゃない?
急に、顔が熱くなった。
「どうかした?」
裕也に聞かれて、慌てて答える。
「なんでもないよ!」
そんな日常が、とても楽しかった。
部活対抗駅伝大会が終わって、数日後のことだった。
帰り際、たまたま一人でいる亜季さんを見つけた。
――今しかない。
「あの……」
声をかけると、振り返った彼女が、小さく首をかしげた。
「二組の絵理ちゃんだよね? どうかした?」
――うわ、やっぱり可愛い。
女の私から見ても、本当にすごく可愛い人だった。
ドキドキしながら、それでも言葉を続けた。
「話したいことがあるんですけど……」
「二人で、話す?」
「はい」
人気のない場所に移動して、二人で向き合った。
「亜季さんって……裕也のこと、好きなんですか?」
心臓が、うるさいくらい鳴っていた。それでも、思い切って続けた。
「裕也の、何なんですか? 私、部活対抗駅伝の時……見てました」
亜季さんの表情が、わずかに固まった。
「亜季さんの声で、裕也が変わるの」
下を向いて、唇を噛んだ。
「私じゃ、無理なんだ。私じゃ、駄目なんだって、思った」
悔しさと、どうしようもない寂しさが、胸の奥から込み上げてくる。
亜季さんは、しばらく黙っていた。
「私は……裕也が、好きなの」
搾り出すように、私は続けた。
「ねえ、亜季さん。そんなに可愛いんだから、いくらでもかっこいい人、寄ってくるでしょ? 裕也じゃなくても、いいじゃないですか」
目の奥が、じわりと熱くなった。涙が、今にも溢れそうだった。
「私は……私は、どうしても、裕也がいいの」
こらえきれず、涙がこぼれ落ちた。
「付き合う気がないなら、ちょっかい出さないでください。ずるいよ……」
言い終えた瞬間、自分の言葉に、はっとした。
涙を拭いながら、私は続けた。
「ごめんなさい……変なこと言って」
「私は、思いを伝えたいだけなんです。無理かもしれないけど……それを、伝えたくて。亜季さんには」
亜季さんは、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて、まっすぐに私の方を向いて、静かに口を開いた。
「……駅伝の時、見てたんだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「私は……ずっとずっと、裕也くんだけが好きだった」
亜季さんの声は、震えていた。
「小学校の時、色々あって。裕也くんのおかげで、今の私があると思ってる。裕也くんには、すごく感謝してる」
「でも、クラスも部活も離れてるし、遠くから見てるだけだった。あの駅伝の時も、見てるだけのつもりだった」
「でも、裕也くんの顔見てたら……思わず、叫んじゃった」
亜季さんの目に、涙が浮かんでいた。
「叫んだ時に、思ったの。裕也くんのことが、好きだって。本当に、大好きだって」
亜季さんは、まっすぐに私の目を見つめた。
「私は、誰よりも裕也くんが好き。優しくて、努力家で、どこまでもまっすぐな裕也くんが、好き」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
覚悟していたはずなのに、実際に本人の口から聞くと、胸が締めつけられるように痛かった。
でも、同時に、どこかで、ほっとしている自分もいた。
――やっぱり、そうだったんだ。
確信はあったけど、それでも、どこかで違ってほしいと思っていた自分もいたのかもしれない。
そして、亜季さんの想いの重さも、痛いほど伝わってきた。
それでも――。
私は、拳を強く握りしめた。
――私の気持ちも、ちゃんと伝える。
◇◇◇
亜季さんと話した、翌日の放課後だった。
「裕也、ちょっといい?」
グラウンドの隅で、俺を呼び止めたのは絵理だった。
いつもの快活な様子とは、どこか違っていた。
「どうした?」
「少し、時間もらってもいい?」
俺たちは、部活が終わった後の、人気のない校庭の隅に移動した。
夕方の風が、少し冷たくなり始めている。
絵理は、しばらく黙っていた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないような、そんな沈黙だった。
「あの、さ」
ようやく口を開いた絵理の声は、微かに震えていた。
裕也が、不意にこちらを向いて、目が合った。
絵理は、大きく息を吸い込んで、言った。
「私は……裕也のことが、好きです」
不意打ちの言葉に、俺は息を呑んだ。
「一年の時、初めて練習してる裕也を見てから。それから、ずっとずっと」
「裕也のことが、どうしようもなく好きなの!」
言った瞬間、我慢していた涙が溢れた。
――絵理が、こんなに。
驚きのあまり、何も言葉が出てこなかった。
溢れる涙を拭いながら、絵理は続けた。
「急に、こんなこと言われても困るよね?」
否定できなかった。困っているというより、ただ、呆然としていた。
「でもね……でも、本当に大好きで。好きすぎて、どうしても伝えずにはいられなかった」
頬に、また涙が流れる。
俺は、何も言えないまま、ただ絵理の言葉を、黙って受け止めることしかできなかった。
涙を払って、絵理は、赤く腫らした目のまま、笑顔を作った。
「返事とか、いらないからね」
「ただ、どうしても、どうしても、思いを伝えたかったの。好きだから」
いつもの、弾けるような笑顔で、大きな声で。
「大好きだから!」
「ごめんね……ずっと黙ってるの、苦しかったから」
夕日が、絵理の涙を照らしていた。
「今まで通り、友達でいてくれたら、それでいいから」
そう言って、絵理は小さく頭を下げた。
「変なこと言って、ごめんね」
そのまま、絵理は背を向けて、校舎の方へ歩いていった。
一人残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
――絵理が、俺のことを。
驚きと、申し訳なさと、色んな感情が入り混じって、うまく整理がつかなかった。
同時に、頭の片隅で、もう一つの想いが、じわじわと存在感を増していくのを感じていた。
――亜季は、今、何を考えてるんだろう。
答えの出ない問いが、頭の中で渦を巻いていた。
翌朝、まだ薄暗い中、俺は今日も、日課となっている朝の練習で、河原を一人走っていた。
昨日の絵理との出来事が、頭から離れなかった。
――絵理が、俺のことを。
でも、俺は――。
そこまで考えて、答えの出ないまま、頭を振った。
そんな思いが、頭の中を駆け巡る中、先の方に人影が見えた。
――散歩の人かな。珍しいな。
近づいたところで、俺は急に立ち止まった。
――なんで。
昇ってきた朝日に、その横顔が照らされている。
見覚えのある横顔だった。見間違うはずのない。
ずっとずっと、会いたかった。
トレードマークの、高い位置で結んだポニーテール。色白の肌。横顔でも分かる、パッチリとした大きな澄んだ瞳。
――亜季。
俺が立ち止まると、彼女はこちらを向いた。
心臓が、大きく高鳴る。
久しぶりに間近で見る、朝日に照らされた亜季の顔。あまりの可愛さに、言葉が出なかった。
――会いたかった。
会えた喜びが、胸の奥から込み上げてくる。
「おはよう、裕也くん。久しぶり!」
上がっていた息を整えながら、それでも心臓の鼓動は、高鳴ったまま抑えられなかった。
言葉を絞り出す。
「おはよう……亜季」
「ごめんね! 朝の練習中に」
久しぶりに裕也くんを近くで見た瞬間、心臓の鼓動が、一気に速くなる。
――駄目だ。私、裕也くんのことが、本当に好きだ。
今にも胸に飛び込んでいきたい衝動を抑えながら、亜季は言った。
目に、じわりと涙をためながら。
「今日は裕也くんに、どうしても伝えたいことが……ううん、伝えなきゃいけないことが、あるんだ」
亜季は、大きく息を吸い込んだ。
「私は……私は、裕也くんのことが好きです!」
言った瞬間、涙が頬を伝った。
亜季は、涙を拭いもせず、話し始めた。
「せっかく小学校の時、仲良くなれたと思ったのに。気がつくと、中学に入ってから距離ができちゃって」
「一度できてしまった距離を、どう縮めたらいいのか。何て声をかければいいんだろうって、そんなことばかり考えながら、ずっと、遠くで見てた」
「裕也くんが、部活対抗駅伝の時。心配で、気がついたら、思わず叫んじゃってた。負けてほしくなくて。二回も」
「裕也くんの力になりたかった」
「私は……私は……ずっと、裕也くんのそばにいたい」
俺は、しばらく言葉が出なかった。
「……あの時の声、亜季だったんだね」
ようやく、そう口にした。
「ありがとう。また、亜季のおかげで頑張れた。亜季に、助けてもらった」
「俺も、ずっと気になってた。でも、遠くから見てるだけだった」
亜季の目を、まっすぐに見つめる。
「もう、見てるだけは、嫌だ」
「そばにいてほしい。ずっと」
その声を聞いた瞬間、亜季は堪えきれずに、俺の胸に飛び込んできた。
俺は、そっと、その背中に手をまわした。
まるで、二人を祝福するように。まるで、二人を応援するように。
二人の始まりを見守るように、少しずつ、少しずつ、太陽が昇っていく。
二人は、しばらくの間、その朝日を眺めていた。


