放課後の図書室は、いつも静かだった。
僕は特に本が好きというわけじゃなかった。それでも週に一度、決まって図書室に足を運んでいた。
理由は、ひとつしかない。
カウンターの向こうで本の整理をしている、唯の姿を見るためだった。
肩の高さで切り揃えられた髪、化粧っ気のない素顔、眼鏡の奥の目は、いつも本に向けられている。派手さはないけれど、その静かな佇まいに、僕は自然と目を引かれていた。
「返却、お願いします」
差し出した本を、唯は静かに受け取る。
「……はい、ありがとうございます」
小さな声で、事務的なやり取りが交わされる。それだけで、僕の一日は少しだけ報われた気がしていた。
いつも通り、適当に選んだ本を借りて帰ろうとした、その日。
僕は、思い切って口を開いた。
「あの……」
唯が、顔を上げる。
「おすすめの本、教えてくれませんか?」
自分でも、驚くくらい声が上ずっていた。
唯は一瞬、意外そうな顔をした。それから、少し考えるように視線を本棚に移して、
「……好きなジャンルとか、ありますか?」
「いや、特には……なんでも」
我ながら、頼りない答えだと思った。
唯は小さく笑って、本棚の方へ歩いていった。
「じゃあ、これなんてどうですか」
差し出されたのは、表紙が少し色褪せた文庫本だった。
「短編集なので、読みやすいと思います」
そう言って、唯が微笑んだ。
はにかむような、控えめな笑顔だった。
――ああ、この笑顔だ。
僕は、心の中でそう思った。何度も見てきたはずの表情なのに、その瞬間、なぜか強く胸に残った。
「ありがとう。読んでみる」
本を受け取りながら、そう答えるのが精一杯だった。
それから、図書室に行くたびに、唯と交わす言葉が少しずつ増えていった。
「この本、面白かったです」
そう伝えると、唯は少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに頬を緩めた。
「よかった……。実は、あんまり人に勧めたことなかったので」
「そうなんだ。もったいないよ、こんなに面白いのに」
「……ありがとうございます」
小さな声だったけど、確かに弾んでいるのが分かった。
別の週には、返却した本を見て、唯がぽつりと言った。
「これ、ミステリーの中でも結構好きな作品なんです」
「え、唯さんミステリー好きなの?」
「はい……犯人が誰かとか考えるの、楽しくて」
意外な一面だった。おとなしくて物静かな印象しかなかった唯が、目を輝かせながら本の話をする。その姿が、なんだか新鮮だった。
気づけば、本を返すためだけだったやり取りが、いつの間にか「今週のおすすめ」を聞くための時間になっていた。
「唯さんの好きな本、今度全部読んでみようかな」
そう言うと、唯は驚いたように瞬きをして、それから、いつものはにかんだ笑顔を見せた。
「……本当に読むんですか? 結構、量ありますよ」
「うん、本当に」
その笑顔を見るたびに、僕の心臓は少しずつ、確実に何かに変わっていった。
昼休み、教室の隅で、いつものメンバーで昼食を取っていた。
「なあ、今年のクラスで一番可愛いのって誰だと思う?」
誰かがふと言い出した話題に、周りがすぐに食いついた。
「それはもう、美里だろ」
「だよな。やっぱ断トツで美里だわ~」
みんなが当たり前のように頷く。
僕も、内心では同意していた。教室にいるだけで、自然と視線を集めてしまう存在感。明るい笑い声、誰とでも分け隔てなく話す人当たりの良さ、華やかなオーラ。美里が可愛くて目立つのは、誰の目にも明らかだった。
「他には? 意外と隠れた美人枠とかいるんじゃね?」
そんな流れの中、ふいに一人が言った。
「唯は?」
一瞬、空気が止まった気がした。
「……唯?」
「ほら、廊下側の一番前の席で、いつも本読んでるやつ」
「ああ……」
数人が、ようやく誰のことか分かったように頷いた。それくらい、印象が薄いということだった。
その名前が出た瞬間、僕の心臓が跳ねた。
「え~、唯はないわ~」
「地味すぎるだろ」
「存在感薄いもんな」
みんなが笑いながら、次々とそんな言葉を口にした。
――違う。
僕は、心の中でそう叫んでいた。
唯の、本を語る時の目の輝き。ページをめくる指先の丁寧さ。ふとした瞬間に見せる、あの、はにかむような笑顔。
お前らに、唯の何がわかるんだ。
そう言いたかった。喉元まで、言葉が込み上げていた。
でも、口を開くことはできなかった。
「な、啓太もそう思うだろ?」
不意に話を振られて、心臓が大きく跳ねた。
みんなの視線が、一斉にこちらを向く。
「え……」
頭の中が、真っ白になった。何か言わなきゃいけない。でも、何を言えばいいのか分からない。
もし「そんなことない」と言ったら、変に思われるだろうか。もしかして、唯のことが好きなのかと勘繰られるだろうか。
そんな考えが、一瞬で頭の中を駆け巡った。
その時、教室の隅に視線が向いた。唯が、席にいないことを確かめるように。
――聞こえてないよな。
そう自分に言い聞かせながら、
「……うん」
気づけば、そう答えていた。
自分の口から出た言葉なのに、まるで他人の声のように聞こえた。
友人たちは、特に気にする様子もなく、また別の話題に移っていった。
でも、僕の中では、何かが音を立てて崩れていくような感覚があった。
――最低だ。
好きな人を、守れなかった。それどころか、否定する側に回ってしまった。
情けなさが、胸の奥にじわりと広がっていった。
「じゃあ今日は、席替えをします」
担任の言葉に、教室がざわめいた。
くじを引いて、僕が引き当てたのは、窓際から二列目の、一番後ろの席だった。
――窓際が良かったな。
そんなことを思いながら席に着こうとした時、隣の席に座っている人物を見て、僕は思わず固まった。
窓際の席には、美里が座っていた。
「よろしくね!」
明るい声で、屈託なくそう言われた。
「あ、ああ……よろしく、美里さん」
「さん、はいらないよ」
美里は、くすっと笑った。
「同級生なんだし、呼び捨てでいいよ。私も、啓太って呼ぶし」
「え……」
「駄目?」
美里が、少しだけ顔を近づけてきた。
――近い、近い。
心臓が、一気に跳ね上がった。
駄目じゃない。駄目なわけがない。そう自分に言い聞かせながら、
「い、いいよ」
なんとか、それだけ絞り出した。
「じゃあ、これからよろしくね、啓太」
そう言って、美里は満足そうに微笑んだ。
心臓が、やけに大きく鳴っていた。
――やばい、マジか。
改めて隣に座る美里を見ると、その可愛さに、思わず息を呑んだ。近くで見ると、余計にそう感じた。それに、ふわりといい匂いがした。
このドキドキを悟られたくなくて、僕はさりげなく深呼吸をしようとした。
「どうかした?」
不意に、美里がこちらを覗き込んできた。
「な、なんもしてないよ! 大丈夫、よ、よろしくね!」
自分でも分かるくらい、声が上ずっていた。
美里は、くすっと笑って、また前を向いた。
外を眺めるふりをしながら、僕はこっそり隣を見た。
窓から差し込む光を受けて、白く透き通るような肌が輝いていた。艶のある、さらさらの黒い髪が、風でもないのにふわりと揺れる。
――綺麗だな。
思わず、そう思ってしまった。
休み時間になると、近くの席の友人が、こっそり近寄ってきて、ニヤニヤしながら肩を叩いてきた。
「お前マジ当たりだな。担任に賄賂でも送ったのか?」
「ば、馬鹿、そんなわけないだろ」
小声でそう返しながらも、心臓はまだ落ち着かなかった。
席替えから数日が経った。
隣の席になってから、美里は驚くほど自然に話しかけてくるようになった。
「啓太って、休みの日何してるの?」
「え、いや……そんな特別なことは。家でゲームしてるくらい」
「わかる! 私もゲーム好きだよ。何のやってるの?」
そんな他愛のない会話が、休み時間のたびに交わされるようになった。
友達の話、好きな食べ物の話、最近見た映画の話。美里は、話題に困ることがないのか、次々と会話の糸口を見つけては、僕に振ってくる。
最初は戸惑うばかりだった僕も、少しずつ、その時間が心地よくなっている自分に気づいていた。
美里との会話が増えるにつれて、クラスの空気も少しずつ変わっていった。
「なあ、最近美里とめっちゃ仲良くない?」
昼休み、友人の一人がにやにやしながら聞いてきた。
「いや、別に。ただ席が隣なだけで」
「いいな~、俺も隣の席がよかったわ。替わってくれよ」
「無理に決まってるだろ」
軽口を叩き合いながらも、視線の圧を感じることが増えていた。
廊下ですれ違う他クラスの男子から、値踏みするような目を向けられることもあった。休み時間、美里と話しているだけで、教室の空気がわずかに張り詰めるのを感じることもあった。
「お前、マジで両想いなんじゃねえの?」
からかい半分の言葉に、僕は苦笑いで返すしかなかった。
「ないない、そんなんじゃないって」
否定しながらも、内心では複雑だった。
注目されるのは、正直嬉しくないわけじゃなかった。今まで女子から特別扱いされたことなんて、一度もなかったから。
でも、その視線の中に、時々、明らかな嫉妬や苛立ちが混じっているのも感じていた。
――なんで僕なんかが。
そう思われている気配が、痛いほど伝わってきた。
ある日の放課後、荷物をまとめていると、美里が声をかけてきた。
「啓太の家って、駅の方だっけ?」
「え、うん、そうだけど」
「私も途中まで同じ方向だ。……一緒に帰ろうか?」
不意打ちのような誘いに、僕は一瞬固まった。
――からかわれてるのか? それとも、本当に?
美里の表情を窺うと、屈託のない笑顔がそこにあった。冗談を言っているようには見えない。
「え、あ……」
言葉に詰まっている間に、ふと、今日が図書委員の当番の日だということを思い出した。
放課後、唯に会える貴重な日だった。
「ごめん、今日は用事があって」
そう答えると、美里は少しだけ意外そうな顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そっか。また今度誘うね」
軽く手を振って、美里は教室を出ていった。
その背中を見送りながら、僕はどこか落ち着かない気持ちになっていた。
――今の、断ってよかったんだよな。
自問しながらも、頭の片隅には、美里の残念そうな一瞬の表情が、なぜか焼きついていた。
◇美里視点◇
啓太の名前を、クラス名簿で見つけた瞬間のことを、私はきっと一生忘れない。
――同じだ。まさか。
信じられなくて、何度も名前を見返した。漢字も、読み方も、全部同じだった。
思い出したのは、幼稚園の頃のこと。
私は昔から、人と話すのが苦手だった。輪に入れなくて、いつも一人で砂場の隅にいた。
そんな私に、真っ先に声をかけてくれたのが、啓太だった。
「一緒に遊ぼう!」
屈託のない笑顔で、そう言って手を引いてくれた。
それから、いつも一緒だった。お絵描きをしたり、鬼ごっこをしたり、お昼寝の時間も隣同士で。
啓太のおかげで、いつも笑顔でいられた。毎日が楽しくて、大好きだった。啓太に会えるから、幼稚園に行くのが楽しみだった。
でも、小学校に上がる時、離れ離れになった。
引っ越したのか、別の小学校に行ったのか、当時の私には分からなかった。
ただ、ある日を境に、啓太がいなくなった。
寂しかった。誰にも言えなかったけど、ずっと心のどこかで、啓太を探していた気がする。
中学生になっても、高校生になっても。
新しい友達もできたし、楽しいこともたくさんあった。それでも、ふとした瞬間に、あの頃の記憶がよみがえることがあった。
一緒に遊ぼうと、手を引いてくれた、あの笑顔。
高校入学初日、クラス名簿で名前を見つけた時、心臓が飛び跳ねそうになった。
――もしかして。
でも、確信が持てなかった。同姓同名の別人かもしれない。
教室に入って、啓太らしき人を見つけた時、こっそり横顔を観察した。
幼稚園の頃の面影が、はっきりと残っていた。
――本人だ。
嬉しさで、その場で飛び跳ねそうになるのを、必死にこらえた。
でも、啓太は、私に気づいていないようだった。
当たり前だ。あれから何年経ったと思ってるんだろう。私だって、面影を頼りに、やっと確信できたくらいなんだから。
どうやって話しかけよう。
いきなり「幼稚園の時、一緒に遊んでたよね?」なんて、変に思われないだろうか。
そんなことを考えては、なかなか行動に移せない日々が続いた。
そんな時、席替えがあった。
くじで、啓太の隣の席になった瞬間、心の中でガッツポーズをした。
――これは、チャンスだ。
自然に話せる。距離を縮められる。
そう思った私は、積極的に話しかけることに決めた。
「よろしくね!」
明るく声をかけながら、内心では、ずっと会いたかった人にようやく再会できた喜びで、胸がいっぱいだった。
◇◇◇
美里との一件があってから、僕は前よりも、教室で人目を気にするようになっていた。
放課後、いつも通り図書室に向かおうとした時、廊下で友人に声をかけられた。
「あれ、帰らないの? どこ行くんだ?」
「図書室にね」
「そうなんだ。じゃあな~」
軽くそう言って、友人は昇降口の方へ歩いていった。
何気ないやり取りだったはずなのに、なぜか落ち着かなかった。
図書室に着くと、いつものようにカウンターの向こうに唯がいた。
「あ……こんにちは」
唯が、いつものはにかんだ笑顔を見せる。
「うん、こんにちは」
いつもなら、その笑顔を見るだけで嬉しくなっていたはずなのに、今日はどこか、ぎこちなさが拭えなかった。
「今日のおすすめ、決まってますか?」
唯がそう尋ねてくる。
「あ、ああ、うん。お願いします」
いつもより早口になっている自分に、僕自身が戸惑っていた。
本を選んでいる唯の横顔を、いつもなら自然と見つめていたはずなのに、今日はなぜか、意識的に視線を逸らしてしまう。
――誰かに見られてないよな。
そんな考えが、頭の隅にちらついていた。
唯が本を差し出してくる。
「これ、どうですか?」
「あ、うん。ありがとう」
受け取る手つきも、心なしかそっけなくなっていた。
唯が、ふと表情を曇らせた。
「……啓太くん、今日、なんか元気ないですか?」
「え、いや、そんなことないよ! ちょっと疲れてるだけ」
慌てて取り繕う声が、自分でも不自然だと分かった。
唯は、それ以上何も言わず、小さく「そうですか」とだけ返した。
その声のトーンが、いつもより少しだけ低く感じられた。
図書室を出た後、僕は自己嫌悪に苛まれていた。
――なんで、あんな態度取ったんだろう。
好きな人を前にして、素直になれない自分が、たまらなく情けなかった。
◇唯視点◇
啓太くんの様子が、いつもと違うと感じたのは、今日が初めてじゃなかった。
最近、時々ある。話しかけても、どこか上の空だったり、視線を合わせてくれなかったり。
今日も、そうだった。
「今日、なんか元気ないですか?」
そう聞いたけど、返ってきたのは、いつもより早口な否定の言葉だった。
「そうですか」とだけ返して、それ以上は聞かなかった。
聞く資格なんて、私にはない気がしたから。
啓太くんが図書室に来てくれるようになってから、私の毎週は、少しだけ変わった。
最初は、本の貸し借りだけの、事務的な関係だった。それでいいと思っていた。誰かと深く関わるのは、あまり得意じゃなかったから。
でも、「おすすめの本を教えてほしい」と聞かれたあの日から、何かが変わった。
啓太くんは、私が勧めた本を、ちゃんと読んでくれた。感想を、ちゃんと伝えてくれた。
それが、こんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。
誰かに必要とされてる気がした。地味で、目立たなくて、教室ではほとんど話しかけられることもない私に、週に一度でも会いに来てくれる人がいる。それだけで、十分だった。
でも、最近の啓太くんは、どこか違う。
クラスで、美里さんと仲がいいという話は、私の耳にも入ってきていた。
――当然だよね。
心の中で、そう呟いた。
美里さんは、明るくて可愛くて、誰からも好かれる人だ。私みたいな地味な人間と、比べるまでもない。
啓太くんが、美里さんと親しくなっていくのは、自然な流れだと思う。
それなのに、なぜか、胸の奥が締めつけられるように痛かった。
自分でも、この気持ちに名前をつけるのが怖かった。
期待して、それが崩れた時、傷つくのが怖かったから。
「今日、なんか元気ないですか?」
さっき自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。
本当に聞きたかったのは、そんなことじゃなかった。
――私といる時間、楽しくないの?
そう聞きたかった。でも、聞けなかった。
唇を、きゅっと噛み締めた。
目の奥が、じんわりと熱くなる。
窓の外を見ながら、私は目にうっすらと涙を浮かべたまま、小さくため息をついた。
◇◇◇
◇美里視点◇
啓太と話す時間が増えるほど、私は少しずつ、彼のことを知っていった。
好きな食べ物、好きなゲーム、通ってた小学校の話。
でも、ひとつだけ、気になることがあった。
啓太は、時々、心ここにあらずのような顔をすることがある。
授業中、ふと廊下側の方に視線を向けて、何か考え込んでいる横顔。
昼休み、友達との会話の中で、一瞬だけ表情が曇る瞬間。
最初は気のせいかと思っていた。でも、何度か重なるうちに、ある予感が拭えなくなっていった。
――誰か、気になる人がいるんじゃないかな。
そう思い始めたのは、ある日の放課後だった。
「啓太、今日一緒に帰らない?」
軽い気持ちで誘うと、啓太は一瞬、時計を見てから、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、今日は用事があって」
その言い方が、いつもと少し違っていた。誤魔化すような、それでいてどこか、大事な予定を守ろうとしているような口調だった。
――何の用事だろう。
気になって、少しだけ後をつけてみたことがある。
啓太が向かった先は、図書室だった。
窓越しに中を覗くと、カウンターに、地味な眼鏡をかけた女の子が立っていた。
啓太が、その子と話している。
遠くからでも、分かった。
ぎこちない態度を取りながらも、それでも隠しきれない、どことなく嬉しそうな、楽しそうな顔。
――ああ、そうか。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
同時に、妙に納得している自分もいた。
啓太が時々見せる、あの遠い目。あれは、きっとあの子のことを考えていたんだ。
その日の帰り道、私はずっと、あの光景が頭から離れなかった。
好きだった。ずっと、探していた人だった。ようやく再会できて、これから、もっと近づけると思っていた。
でも――
「気づいてなかった振りをすればいいのかな」
誰にともなく、そう呟いていた。
答えは、まだ出なかった。
◇◇◇
美里との会話は、日を追うごとに増えていった。
休み時間、放課後、時には昼休みも。気づけば、クラスの中でも「仲がいい二人」として見られるようになっていた。
それでも、僕自身は、どこか他人事のように感じていた。
「最近、美里といい感じじゃない?」
そう聞かれても、素直に頷けなかった。
――からかわれてるだけだろ。
そう思うのが、一番自然だった。美里みたいな子が、僕を相手にするはずがない。そう思い込むことで、変に期待して傷つかずに済むと、心のどこかで分かっていた。
ある日の昼休み、友人が真剣な顔で聞いてきた。
「今だったら、ひょっとして、告ったら美里と付き合えるんじゃない? 告白とかしないの?」
「いやいや、僕には釣り合わないだろ。そもそも、美里みたいな可愛くて目立つ子が、僕みたいなやつ相手にするわけないって」
「そうか? でも分かんないぞ」
友人は、にやにやしながら続けた。
「でも、もしあんな可愛い子に告白されたら、当然OKするんだろ? 美里に言われて断るやつとか、いないよな~」
その言葉に、僕は返事に詰まった。
――確かに。
もし、万が一。美里が僕に気があるようなことがあったら。
人生で、あんな可愛い子に言い寄られることなんて、この先一生ないかもしれない。
もし本当に告白なんてされたら、僕はどうするんだろう。
そこまで考えて、僕は小さく苦笑した。
――いや、さすがに、そんなことないか。
友人の言葉を、笑って受け流すことしかできなかった。
その時の僕は、まだ知らなかった。
数日後、その「もしも」が、現実になることを。
放課後、教室に僕一人が残っていた時だった。
「啓太、ちょっといい?」
振り返ると、美里が立っていた。いつもの明るい表情とは、どこか違って見えた。
「うん、どうかした?」
「……少し、話したいことがあって」
そう言われて、二人は屋上に続く階段の踊り場に移動した。夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
美里は、しばらく黙っていた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないような、そんな沈黙だった。
「あの……」
ようやく口を開いた美里の声は、微かに震えていた。
「啓太、図書委員の子のこと、好きだよね」
不意打ちのような言葉に、僕は息を呑んだ。
「え……」
「見てたの。啓太が、図書室であの子と話してるところ」
否定しようとした言葉が、喉の奥で止まった。美里の表情が、それを許さないくらい、真剣だった。
「ごめんね、勝手に後をつけたりして」
美里は、小さく笑おうとして、でもうまく笑えていなかった。
「本当は、ずっと気づかない振りをしようと思ってた。啓太と、もっと仲良くなりたかったから」
「美里……」
「でも、無理だった」
美里の目に、みるみる涙が浮かんでいった。
「私ね、啓太のこと、幼稚園の頃から知ってるの。覚えてないよね、当たり前だけど」
「え……」
初めて聞く話に、僕は言葉を失った。
「引っ込み思案だった私に、一番に声をかけてくれたの、啓太だったんだよ。『一緒に遊ぼう』って。あの時の啓太の笑顔、ずっと忘れられなかった」
涙が、頬を伝っていった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かがかちりと繋がった。
――え……?
幼稚園の頃の、ぼんやりとした記憶が、急に輪郭を持ち始めた。
いつも一緒に遊んでいた、キラキラした可愛い女の子。名前も、顔も、はっきりとは思い出せなかったはずなのに。
まさか。
僕の動揺には気づかず、美里は言葉を続けた。
「小学校に上がって、離れ離れになって。ずっと、心のどこかで探してた。高校で名前を見つけた時、本当に嬉しかった」
――美里が、あの時の子だったのか。
幼すぎて、初恋と呼んでいいのか分からない記憶だった。それでも、あの頃感じた「楽しい」という気持ちだけは、確かに残っていた。
まさか、こんな形で繋がるなんて、思ってもみなかった。
「席替えで隣になれた時、これはチャンスだって思った。もっと仲良くなれるって、浮かれてた」
美里は、涙を拭うこともせず、まっすぐに僕を見つめていた。
「啓太、唯ちゃんのこと、好きでしょ?」
不意打ちの言葉に、僕は喉の奥が詰まったようになった。
とっさに目を逸らしてしまう。何か言おうとしても、言葉が出てこなかった。
その反応こそが、何よりの答えだった。
「わかるよ……私には見せない顔で、楽しそうに笑ってる啓太を見たら」
美里は、寂しそうに、でも確信を持ったように、そう続けた。
「でも、啓太の本当の気持ちに気づいた時、すごく悔しかった。悔しくて、悲しくて……それでも」
声が、一段と震えた。
「それでも、好きな気持ちは、止められなかった」
「私、啓太のことが好きです。ずっと前から、ずっと」
涙声のまま、美里ははっきりと、そう言い切った。
「誰よりも好き。図書委員の子より、絶対好き」
言った後で、はっと我に返ったように、美里は口元を手で覆った。
「……ごめんね」
自分の言葉に、自分で戸惑っているようだった。
「今の、忘れて。おかしいこと言った」
涙が、次から次へと溢れていった。
「啓太が誰を想ってるか、知った上で言ってる。困らせてるのも、分かってる」
「それでも、ちゃんと自分の口から伝えたかった。伝えないまま終わるのは、嫌だったから」
夕日が、美里の涙を照らしていた。
僕は、何も言えなかった。ただ、美里の想いの重さに、圧倒されていた。
「ごめん」と言うことすら、今は正しくない気がした。
美里は、しばらく僕の返事を待っていたけれど、やがて、涙を拭って、無理に笑顔を作った。
「返事とか、いいから。ただ、言いたかっただけ」
「今まで通り、友達でいてくれたら、それでいい」
そう言って、美里は踊り場を後にした。
一人残された僕は、しばらくその場から動けなかった。
美里の想いの強さと、その裏にあった長い年月の切なさが、胸に重くのしかかっていた。
そして同時に、自分の中の答えが、これまでよりもはっきりと、輪郭を持ち始めていた。
◇唯視点◇
あの日から、啓太くんは図書室に来なくなった。
理由は、分からない。忙しいのかもしれないし、単に本に飽きたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、カウンターに座るたびに、無意識に扉の方を見てしまう自分がいた。
美里さんと啓太くんが仲良くなっていく様子は、私の耳にも自然と入ってきていた。
最初はただ、席が隣になっただけの関係だと思っていた。美里さんみたいに目立つ人と、啓太くんが釣り合うなんて、失礼だけど、少し意外にも感じていた。
でも、日が経つにつれて、二人が一緒にいる時間は、目に見えて増えていった。
「あの二人、お似合いだよね」「いつ付き合うんだろうね」
そんな言葉も、教室の隅で聞こえてくるようになった。
――やっぱり、そうだよね。
分かっていたはずなのに、その度に、小さく胸が痛んだ。
返却期限の過ぎた本を整理しながら、私は、ふと自分の気持ちに向き合った。
いつから、こんなに啓太くんのことばかり考えるようになったんだろう。
きっと、「おすすめの本を教えてほしい」と聞かれた、あの日からだ。
誰かに必要とされることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。啓太くんが読んでくれた本の感想を聞くたびに、私の世界が少しずつ広がっていく気がした。
地味で、目立たなくて、誰の視界にも入らないような自分。それでも、啓太くんだけは、ちゃんと私を見てくれている気がしていた。
――それも、勘違いだったのかな。
そんな風に、諦めかけていた時だった。
放課後、いつものように図書室の片付けをしていると、扉が開く音がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、啓太くんだった。
「……啓太くん?」
久しぶりに聞く声に、心臓が跳ねた。
啓太くんは、少し緊張した面持ちで、まっすぐにこちらを見ていた。
その表情には、これまで見たことのない、真剣な色が宿っていた。
◇◇◇
「……啓太くん?」
久しぶりに聞く声に、唯は戸惑ったような表情を浮かべていた。
僕は、しばらく言葉が出てこなかった。何を、どこから話せばいいのか、頭の中で何度も考えてきたはずなのに、いざその場に立つと、全部飛んでしまいそうだった。
それでも、ここで黙っていたら、きっとまた同じことを繰り返す。
周りの目を気にして、本心を隠して、大切なものを見て見ぬふりする。そんな自分は、もう終わりにしたかった。
「急に来て、ごめん」
「ううん……大丈夫、ですけど」
唯は、カウンターの本を胸に抱えたまま、僕を見つめていた。
「最近、態度おかしかったよな。素っ気なかったり、変に焦ったり」
「……はい、少し」
正直に頷く唯に、胸が締めつけられた。
「ごめん。理由、ちゃんと話したいんだ」
深呼吸を一つして、僕は続けた。
「クラスの奴らに、唯のこと『地味だ』とか『存在感ない』とか言われた時、本当は、そんなことない、って言いたかった。唯がどれだけ本の話を楽しそうにするか、どれだけ丁寧にページをめくるか、どんな風に笑うか――ちゃんと知ってるのは、僕だから」
「でも、言えなかった。周りにどう思われるか、怖かったから。それで、誤魔化すみたいに、頷いてしまった」
唯は、何も言わずに、ただ僕の言葉を聞いていた。
「最近、美里と仲がいいって、噂になってたと思う。実際、話す機会も増えてた。でも、それとは違う気持ちで、僕はずっと唯のことを考えてた」
「唯と話す時間が、一週間で一番楽しみだった。おすすめの本を聞くのも、返した本の感想を伝えるのも、全部、唯に会うための口実みたいなものだった」
唯の目が、少しずつ見開かれていくのが分かった。
「好きです」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。
「ずっと前から、唯のことが好きでした。周りにどう思われても、もう、隠したくない」
図書室は、しんと静まり返っていた。
唯は、しばらく何も言わずに、僕を見つめていた。
やがて、その目に、じんわりと涙が浮かんでいった。
「……本当に、私でいいんですか?」
震える声で、唯はそう尋ねた。
「美里さんみたいに可愛くもないし、目立つこともできないのに……」
信じられない、というように、唯は自分の胸元をぎゅっと握りしめていた。
「本当に、私で……」
「唯がいいんだ」
僕は、迷わずそう答えた。
「唯だから、好きになった」
その言葉に、唯の目から涙がこぼれ落ちた。
「……私も、ずっと好きでした」
震える声で、唯はそう言った。
「啓太くんのこと、ずっと」
言葉の続きは、涙でうまく形にならなかった。それでも、その一言だけで、十分だった。
夕日が、図書室の窓から差し込んでいた。
本棚に並んだ本の背表紙が、オレンジ色に染まっている中で、僕たちは、ようやく本当の気持ちを、お互いに伝え合うことができた。
――周りになんて言われたっていい。
僕は、自分にとって一番大切な人に、ちゃんと想いを伝えられた。
その事実だけが、今は何より、確かなものだった。
僕は特に本が好きというわけじゃなかった。それでも週に一度、決まって図書室に足を運んでいた。
理由は、ひとつしかない。
カウンターの向こうで本の整理をしている、唯の姿を見るためだった。
肩の高さで切り揃えられた髪、化粧っ気のない素顔、眼鏡の奥の目は、いつも本に向けられている。派手さはないけれど、その静かな佇まいに、僕は自然と目を引かれていた。
「返却、お願いします」
差し出した本を、唯は静かに受け取る。
「……はい、ありがとうございます」
小さな声で、事務的なやり取りが交わされる。それだけで、僕の一日は少しだけ報われた気がしていた。
いつも通り、適当に選んだ本を借りて帰ろうとした、その日。
僕は、思い切って口を開いた。
「あの……」
唯が、顔を上げる。
「おすすめの本、教えてくれませんか?」
自分でも、驚くくらい声が上ずっていた。
唯は一瞬、意外そうな顔をした。それから、少し考えるように視線を本棚に移して、
「……好きなジャンルとか、ありますか?」
「いや、特には……なんでも」
我ながら、頼りない答えだと思った。
唯は小さく笑って、本棚の方へ歩いていった。
「じゃあ、これなんてどうですか」
差し出されたのは、表紙が少し色褪せた文庫本だった。
「短編集なので、読みやすいと思います」
そう言って、唯が微笑んだ。
はにかむような、控えめな笑顔だった。
――ああ、この笑顔だ。
僕は、心の中でそう思った。何度も見てきたはずの表情なのに、その瞬間、なぜか強く胸に残った。
「ありがとう。読んでみる」
本を受け取りながら、そう答えるのが精一杯だった。
それから、図書室に行くたびに、唯と交わす言葉が少しずつ増えていった。
「この本、面白かったです」
そう伝えると、唯は少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに頬を緩めた。
「よかった……。実は、あんまり人に勧めたことなかったので」
「そうなんだ。もったいないよ、こんなに面白いのに」
「……ありがとうございます」
小さな声だったけど、確かに弾んでいるのが分かった。
別の週には、返却した本を見て、唯がぽつりと言った。
「これ、ミステリーの中でも結構好きな作品なんです」
「え、唯さんミステリー好きなの?」
「はい……犯人が誰かとか考えるの、楽しくて」
意外な一面だった。おとなしくて物静かな印象しかなかった唯が、目を輝かせながら本の話をする。その姿が、なんだか新鮮だった。
気づけば、本を返すためだけだったやり取りが、いつの間にか「今週のおすすめ」を聞くための時間になっていた。
「唯さんの好きな本、今度全部読んでみようかな」
そう言うと、唯は驚いたように瞬きをして、それから、いつものはにかんだ笑顔を見せた。
「……本当に読むんですか? 結構、量ありますよ」
「うん、本当に」
その笑顔を見るたびに、僕の心臓は少しずつ、確実に何かに変わっていった。
昼休み、教室の隅で、いつものメンバーで昼食を取っていた。
「なあ、今年のクラスで一番可愛いのって誰だと思う?」
誰かがふと言い出した話題に、周りがすぐに食いついた。
「それはもう、美里だろ」
「だよな。やっぱ断トツで美里だわ~」
みんなが当たり前のように頷く。
僕も、内心では同意していた。教室にいるだけで、自然と視線を集めてしまう存在感。明るい笑い声、誰とでも分け隔てなく話す人当たりの良さ、華やかなオーラ。美里が可愛くて目立つのは、誰の目にも明らかだった。
「他には? 意外と隠れた美人枠とかいるんじゃね?」
そんな流れの中、ふいに一人が言った。
「唯は?」
一瞬、空気が止まった気がした。
「……唯?」
「ほら、廊下側の一番前の席で、いつも本読んでるやつ」
「ああ……」
数人が、ようやく誰のことか分かったように頷いた。それくらい、印象が薄いということだった。
その名前が出た瞬間、僕の心臓が跳ねた。
「え~、唯はないわ~」
「地味すぎるだろ」
「存在感薄いもんな」
みんなが笑いながら、次々とそんな言葉を口にした。
――違う。
僕は、心の中でそう叫んでいた。
唯の、本を語る時の目の輝き。ページをめくる指先の丁寧さ。ふとした瞬間に見せる、あの、はにかむような笑顔。
お前らに、唯の何がわかるんだ。
そう言いたかった。喉元まで、言葉が込み上げていた。
でも、口を開くことはできなかった。
「な、啓太もそう思うだろ?」
不意に話を振られて、心臓が大きく跳ねた。
みんなの視線が、一斉にこちらを向く。
「え……」
頭の中が、真っ白になった。何か言わなきゃいけない。でも、何を言えばいいのか分からない。
もし「そんなことない」と言ったら、変に思われるだろうか。もしかして、唯のことが好きなのかと勘繰られるだろうか。
そんな考えが、一瞬で頭の中を駆け巡った。
その時、教室の隅に視線が向いた。唯が、席にいないことを確かめるように。
――聞こえてないよな。
そう自分に言い聞かせながら、
「……うん」
気づけば、そう答えていた。
自分の口から出た言葉なのに、まるで他人の声のように聞こえた。
友人たちは、特に気にする様子もなく、また別の話題に移っていった。
でも、僕の中では、何かが音を立てて崩れていくような感覚があった。
――最低だ。
好きな人を、守れなかった。それどころか、否定する側に回ってしまった。
情けなさが、胸の奥にじわりと広がっていった。
「じゃあ今日は、席替えをします」
担任の言葉に、教室がざわめいた。
くじを引いて、僕が引き当てたのは、窓際から二列目の、一番後ろの席だった。
――窓際が良かったな。
そんなことを思いながら席に着こうとした時、隣の席に座っている人物を見て、僕は思わず固まった。
窓際の席には、美里が座っていた。
「よろしくね!」
明るい声で、屈託なくそう言われた。
「あ、ああ……よろしく、美里さん」
「さん、はいらないよ」
美里は、くすっと笑った。
「同級生なんだし、呼び捨てでいいよ。私も、啓太って呼ぶし」
「え……」
「駄目?」
美里が、少しだけ顔を近づけてきた。
――近い、近い。
心臓が、一気に跳ね上がった。
駄目じゃない。駄目なわけがない。そう自分に言い聞かせながら、
「い、いいよ」
なんとか、それだけ絞り出した。
「じゃあ、これからよろしくね、啓太」
そう言って、美里は満足そうに微笑んだ。
心臓が、やけに大きく鳴っていた。
――やばい、マジか。
改めて隣に座る美里を見ると、その可愛さに、思わず息を呑んだ。近くで見ると、余計にそう感じた。それに、ふわりといい匂いがした。
このドキドキを悟られたくなくて、僕はさりげなく深呼吸をしようとした。
「どうかした?」
不意に、美里がこちらを覗き込んできた。
「な、なんもしてないよ! 大丈夫、よ、よろしくね!」
自分でも分かるくらい、声が上ずっていた。
美里は、くすっと笑って、また前を向いた。
外を眺めるふりをしながら、僕はこっそり隣を見た。
窓から差し込む光を受けて、白く透き通るような肌が輝いていた。艶のある、さらさらの黒い髪が、風でもないのにふわりと揺れる。
――綺麗だな。
思わず、そう思ってしまった。
休み時間になると、近くの席の友人が、こっそり近寄ってきて、ニヤニヤしながら肩を叩いてきた。
「お前マジ当たりだな。担任に賄賂でも送ったのか?」
「ば、馬鹿、そんなわけないだろ」
小声でそう返しながらも、心臓はまだ落ち着かなかった。
席替えから数日が経った。
隣の席になってから、美里は驚くほど自然に話しかけてくるようになった。
「啓太って、休みの日何してるの?」
「え、いや……そんな特別なことは。家でゲームしてるくらい」
「わかる! 私もゲーム好きだよ。何のやってるの?」
そんな他愛のない会話が、休み時間のたびに交わされるようになった。
友達の話、好きな食べ物の話、最近見た映画の話。美里は、話題に困ることがないのか、次々と会話の糸口を見つけては、僕に振ってくる。
最初は戸惑うばかりだった僕も、少しずつ、その時間が心地よくなっている自分に気づいていた。
美里との会話が増えるにつれて、クラスの空気も少しずつ変わっていった。
「なあ、最近美里とめっちゃ仲良くない?」
昼休み、友人の一人がにやにやしながら聞いてきた。
「いや、別に。ただ席が隣なだけで」
「いいな~、俺も隣の席がよかったわ。替わってくれよ」
「無理に決まってるだろ」
軽口を叩き合いながらも、視線の圧を感じることが増えていた。
廊下ですれ違う他クラスの男子から、値踏みするような目を向けられることもあった。休み時間、美里と話しているだけで、教室の空気がわずかに張り詰めるのを感じることもあった。
「お前、マジで両想いなんじゃねえの?」
からかい半分の言葉に、僕は苦笑いで返すしかなかった。
「ないない、そんなんじゃないって」
否定しながらも、内心では複雑だった。
注目されるのは、正直嬉しくないわけじゃなかった。今まで女子から特別扱いされたことなんて、一度もなかったから。
でも、その視線の中に、時々、明らかな嫉妬や苛立ちが混じっているのも感じていた。
――なんで僕なんかが。
そう思われている気配が、痛いほど伝わってきた。
ある日の放課後、荷物をまとめていると、美里が声をかけてきた。
「啓太の家って、駅の方だっけ?」
「え、うん、そうだけど」
「私も途中まで同じ方向だ。……一緒に帰ろうか?」
不意打ちのような誘いに、僕は一瞬固まった。
――からかわれてるのか? それとも、本当に?
美里の表情を窺うと、屈託のない笑顔がそこにあった。冗談を言っているようには見えない。
「え、あ……」
言葉に詰まっている間に、ふと、今日が図書委員の当番の日だということを思い出した。
放課後、唯に会える貴重な日だった。
「ごめん、今日は用事があって」
そう答えると、美里は少しだけ意外そうな顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「そっか。また今度誘うね」
軽く手を振って、美里は教室を出ていった。
その背中を見送りながら、僕はどこか落ち着かない気持ちになっていた。
――今の、断ってよかったんだよな。
自問しながらも、頭の片隅には、美里の残念そうな一瞬の表情が、なぜか焼きついていた。
◇美里視点◇
啓太の名前を、クラス名簿で見つけた瞬間のことを、私はきっと一生忘れない。
――同じだ。まさか。
信じられなくて、何度も名前を見返した。漢字も、読み方も、全部同じだった。
思い出したのは、幼稚園の頃のこと。
私は昔から、人と話すのが苦手だった。輪に入れなくて、いつも一人で砂場の隅にいた。
そんな私に、真っ先に声をかけてくれたのが、啓太だった。
「一緒に遊ぼう!」
屈託のない笑顔で、そう言って手を引いてくれた。
それから、いつも一緒だった。お絵描きをしたり、鬼ごっこをしたり、お昼寝の時間も隣同士で。
啓太のおかげで、いつも笑顔でいられた。毎日が楽しくて、大好きだった。啓太に会えるから、幼稚園に行くのが楽しみだった。
でも、小学校に上がる時、離れ離れになった。
引っ越したのか、別の小学校に行ったのか、当時の私には分からなかった。
ただ、ある日を境に、啓太がいなくなった。
寂しかった。誰にも言えなかったけど、ずっと心のどこかで、啓太を探していた気がする。
中学生になっても、高校生になっても。
新しい友達もできたし、楽しいこともたくさんあった。それでも、ふとした瞬間に、あの頃の記憶がよみがえることがあった。
一緒に遊ぼうと、手を引いてくれた、あの笑顔。
高校入学初日、クラス名簿で名前を見つけた時、心臓が飛び跳ねそうになった。
――もしかして。
でも、確信が持てなかった。同姓同名の別人かもしれない。
教室に入って、啓太らしき人を見つけた時、こっそり横顔を観察した。
幼稚園の頃の面影が、はっきりと残っていた。
――本人だ。
嬉しさで、その場で飛び跳ねそうになるのを、必死にこらえた。
でも、啓太は、私に気づいていないようだった。
当たり前だ。あれから何年経ったと思ってるんだろう。私だって、面影を頼りに、やっと確信できたくらいなんだから。
どうやって話しかけよう。
いきなり「幼稚園の時、一緒に遊んでたよね?」なんて、変に思われないだろうか。
そんなことを考えては、なかなか行動に移せない日々が続いた。
そんな時、席替えがあった。
くじで、啓太の隣の席になった瞬間、心の中でガッツポーズをした。
――これは、チャンスだ。
自然に話せる。距離を縮められる。
そう思った私は、積極的に話しかけることに決めた。
「よろしくね!」
明るく声をかけながら、内心では、ずっと会いたかった人にようやく再会できた喜びで、胸がいっぱいだった。
◇◇◇
美里との一件があってから、僕は前よりも、教室で人目を気にするようになっていた。
放課後、いつも通り図書室に向かおうとした時、廊下で友人に声をかけられた。
「あれ、帰らないの? どこ行くんだ?」
「図書室にね」
「そうなんだ。じゃあな~」
軽くそう言って、友人は昇降口の方へ歩いていった。
何気ないやり取りだったはずなのに、なぜか落ち着かなかった。
図書室に着くと、いつものようにカウンターの向こうに唯がいた。
「あ……こんにちは」
唯が、いつものはにかんだ笑顔を見せる。
「うん、こんにちは」
いつもなら、その笑顔を見るだけで嬉しくなっていたはずなのに、今日はどこか、ぎこちなさが拭えなかった。
「今日のおすすめ、決まってますか?」
唯がそう尋ねてくる。
「あ、ああ、うん。お願いします」
いつもより早口になっている自分に、僕自身が戸惑っていた。
本を選んでいる唯の横顔を、いつもなら自然と見つめていたはずなのに、今日はなぜか、意識的に視線を逸らしてしまう。
――誰かに見られてないよな。
そんな考えが、頭の隅にちらついていた。
唯が本を差し出してくる。
「これ、どうですか?」
「あ、うん。ありがとう」
受け取る手つきも、心なしかそっけなくなっていた。
唯が、ふと表情を曇らせた。
「……啓太くん、今日、なんか元気ないですか?」
「え、いや、そんなことないよ! ちょっと疲れてるだけ」
慌てて取り繕う声が、自分でも不自然だと分かった。
唯は、それ以上何も言わず、小さく「そうですか」とだけ返した。
その声のトーンが、いつもより少しだけ低く感じられた。
図書室を出た後、僕は自己嫌悪に苛まれていた。
――なんで、あんな態度取ったんだろう。
好きな人を前にして、素直になれない自分が、たまらなく情けなかった。
◇唯視点◇
啓太くんの様子が、いつもと違うと感じたのは、今日が初めてじゃなかった。
最近、時々ある。話しかけても、どこか上の空だったり、視線を合わせてくれなかったり。
今日も、そうだった。
「今日、なんか元気ないですか?」
そう聞いたけど、返ってきたのは、いつもより早口な否定の言葉だった。
「そうですか」とだけ返して、それ以上は聞かなかった。
聞く資格なんて、私にはない気がしたから。
啓太くんが図書室に来てくれるようになってから、私の毎週は、少しだけ変わった。
最初は、本の貸し借りだけの、事務的な関係だった。それでいいと思っていた。誰かと深く関わるのは、あまり得意じゃなかったから。
でも、「おすすめの本を教えてほしい」と聞かれたあの日から、何かが変わった。
啓太くんは、私が勧めた本を、ちゃんと読んでくれた。感想を、ちゃんと伝えてくれた。
それが、こんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。
誰かに必要とされてる気がした。地味で、目立たなくて、教室ではほとんど話しかけられることもない私に、週に一度でも会いに来てくれる人がいる。それだけで、十分だった。
でも、最近の啓太くんは、どこか違う。
クラスで、美里さんと仲がいいという話は、私の耳にも入ってきていた。
――当然だよね。
心の中で、そう呟いた。
美里さんは、明るくて可愛くて、誰からも好かれる人だ。私みたいな地味な人間と、比べるまでもない。
啓太くんが、美里さんと親しくなっていくのは、自然な流れだと思う。
それなのに、なぜか、胸の奥が締めつけられるように痛かった。
自分でも、この気持ちに名前をつけるのが怖かった。
期待して、それが崩れた時、傷つくのが怖かったから。
「今日、なんか元気ないですか?」
さっき自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。
本当に聞きたかったのは、そんなことじゃなかった。
――私といる時間、楽しくないの?
そう聞きたかった。でも、聞けなかった。
唇を、きゅっと噛み締めた。
目の奥が、じんわりと熱くなる。
窓の外を見ながら、私は目にうっすらと涙を浮かべたまま、小さくため息をついた。
◇◇◇
◇美里視点◇
啓太と話す時間が増えるほど、私は少しずつ、彼のことを知っていった。
好きな食べ物、好きなゲーム、通ってた小学校の話。
でも、ひとつだけ、気になることがあった。
啓太は、時々、心ここにあらずのような顔をすることがある。
授業中、ふと廊下側の方に視線を向けて、何か考え込んでいる横顔。
昼休み、友達との会話の中で、一瞬だけ表情が曇る瞬間。
最初は気のせいかと思っていた。でも、何度か重なるうちに、ある予感が拭えなくなっていった。
――誰か、気になる人がいるんじゃないかな。
そう思い始めたのは、ある日の放課後だった。
「啓太、今日一緒に帰らない?」
軽い気持ちで誘うと、啓太は一瞬、時計を見てから、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、今日は用事があって」
その言い方が、いつもと少し違っていた。誤魔化すような、それでいてどこか、大事な予定を守ろうとしているような口調だった。
――何の用事だろう。
気になって、少しだけ後をつけてみたことがある。
啓太が向かった先は、図書室だった。
窓越しに中を覗くと、カウンターに、地味な眼鏡をかけた女の子が立っていた。
啓太が、その子と話している。
遠くからでも、分かった。
ぎこちない態度を取りながらも、それでも隠しきれない、どことなく嬉しそうな、楽しそうな顔。
――ああ、そうか。
胸の奥に、鈍い痛みが走った。
同時に、妙に納得している自分もいた。
啓太が時々見せる、あの遠い目。あれは、きっとあの子のことを考えていたんだ。
その日の帰り道、私はずっと、あの光景が頭から離れなかった。
好きだった。ずっと、探していた人だった。ようやく再会できて、これから、もっと近づけると思っていた。
でも――
「気づいてなかった振りをすればいいのかな」
誰にともなく、そう呟いていた。
答えは、まだ出なかった。
◇◇◇
美里との会話は、日を追うごとに増えていった。
休み時間、放課後、時には昼休みも。気づけば、クラスの中でも「仲がいい二人」として見られるようになっていた。
それでも、僕自身は、どこか他人事のように感じていた。
「最近、美里といい感じじゃない?」
そう聞かれても、素直に頷けなかった。
――からかわれてるだけだろ。
そう思うのが、一番自然だった。美里みたいな子が、僕を相手にするはずがない。そう思い込むことで、変に期待して傷つかずに済むと、心のどこかで分かっていた。
ある日の昼休み、友人が真剣な顔で聞いてきた。
「今だったら、ひょっとして、告ったら美里と付き合えるんじゃない? 告白とかしないの?」
「いやいや、僕には釣り合わないだろ。そもそも、美里みたいな可愛くて目立つ子が、僕みたいなやつ相手にするわけないって」
「そうか? でも分かんないぞ」
友人は、にやにやしながら続けた。
「でも、もしあんな可愛い子に告白されたら、当然OKするんだろ? 美里に言われて断るやつとか、いないよな~」
その言葉に、僕は返事に詰まった。
――確かに。
もし、万が一。美里が僕に気があるようなことがあったら。
人生で、あんな可愛い子に言い寄られることなんて、この先一生ないかもしれない。
もし本当に告白なんてされたら、僕はどうするんだろう。
そこまで考えて、僕は小さく苦笑した。
――いや、さすがに、そんなことないか。
友人の言葉を、笑って受け流すことしかできなかった。
その時の僕は、まだ知らなかった。
数日後、その「もしも」が、現実になることを。
放課後、教室に僕一人が残っていた時だった。
「啓太、ちょっといい?」
振り返ると、美里が立っていた。いつもの明るい表情とは、どこか違って見えた。
「うん、どうかした?」
「……少し、話したいことがあって」
そう言われて、二人は屋上に続く階段の踊り場に移動した。夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいた。
美里は、しばらく黙っていた。何かを言おうとして、でも言葉が出てこないような、そんな沈黙だった。
「あの……」
ようやく口を開いた美里の声は、微かに震えていた。
「啓太、図書委員の子のこと、好きだよね」
不意打ちのような言葉に、僕は息を呑んだ。
「え……」
「見てたの。啓太が、図書室であの子と話してるところ」
否定しようとした言葉が、喉の奥で止まった。美里の表情が、それを許さないくらい、真剣だった。
「ごめんね、勝手に後をつけたりして」
美里は、小さく笑おうとして、でもうまく笑えていなかった。
「本当は、ずっと気づかない振りをしようと思ってた。啓太と、もっと仲良くなりたかったから」
「美里……」
「でも、無理だった」
美里の目に、みるみる涙が浮かんでいった。
「私ね、啓太のこと、幼稚園の頃から知ってるの。覚えてないよね、当たり前だけど」
「え……」
初めて聞く話に、僕は言葉を失った。
「引っ込み思案だった私に、一番に声をかけてくれたの、啓太だったんだよ。『一緒に遊ぼう』って。あの時の啓太の笑顔、ずっと忘れられなかった」
涙が、頬を伝っていった。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で、何かがかちりと繋がった。
――え……?
幼稚園の頃の、ぼんやりとした記憶が、急に輪郭を持ち始めた。
いつも一緒に遊んでいた、キラキラした可愛い女の子。名前も、顔も、はっきりとは思い出せなかったはずなのに。
まさか。
僕の動揺には気づかず、美里は言葉を続けた。
「小学校に上がって、離れ離れになって。ずっと、心のどこかで探してた。高校で名前を見つけた時、本当に嬉しかった」
――美里が、あの時の子だったのか。
幼すぎて、初恋と呼んでいいのか分からない記憶だった。それでも、あの頃感じた「楽しい」という気持ちだけは、確かに残っていた。
まさか、こんな形で繋がるなんて、思ってもみなかった。
「席替えで隣になれた時、これはチャンスだって思った。もっと仲良くなれるって、浮かれてた」
美里は、涙を拭うこともせず、まっすぐに僕を見つめていた。
「啓太、唯ちゃんのこと、好きでしょ?」
不意打ちの言葉に、僕は喉の奥が詰まったようになった。
とっさに目を逸らしてしまう。何か言おうとしても、言葉が出てこなかった。
その反応こそが、何よりの答えだった。
「わかるよ……私には見せない顔で、楽しそうに笑ってる啓太を見たら」
美里は、寂しそうに、でも確信を持ったように、そう続けた。
「でも、啓太の本当の気持ちに気づいた時、すごく悔しかった。悔しくて、悲しくて……それでも」
声が、一段と震えた。
「それでも、好きな気持ちは、止められなかった」
「私、啓太のことが好きです。ずっと前から、ずっと」
涙声のまま、美里ははっきりと、そう言い切った。
「誰よりも好き。図書委員の子より、絶対好き」
言った後で、はっと我に返ったように、美里は口元を手で覆った。
「……ごめんね」
自分の言葉に、自分で戸惑っているようだった。
「今の、忘れて。おかしいこと言った」
涙が、次から次へと溢れていった。
「啓太が誰を想ってるか、知った上で言ってる。困らせてるのも、分かってる」
「それでも、ちゃんと自分の口から伝えたかった。伝えないまま終わるのは、嫌だったから」
夕日が、美里の涙を照らしていた。
僕は、何も言えなかった。ただ、美里の想いの重さに、圧倒されていた。
「ごめん」と言うことすら、今は正しくない気がした。
美里は、しばらく僕の返事を待っていたけれど、やがて、涙を拭って、無理に笑顔を作った。
「返事とか、いいから。ただ、言いたかっただけ」
「今まで通り、友達でいてくれたら、それでいい」
そう言って、美里は踊り場を後にした。
一人残された僕は、しばらくその場から動けなかった。
美里の想いの強さと、その裏にあった長い年月の切なさが、胸に重くのしかかっていた。
そして同時に、自分の中の答えが、これまでよりもはっきりと、輪郭を持ち始めていた。
◇唯視点◇
あの日から、啓太くんは図書室に来なくなった。
理由は、分からない。忙しいのかもしれないし、単に本に飽きたのかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、カウンターに座るたびに、無意識に扉の方を見てしまう自分がいた。
美里さんと啓太くんが仲良くなっていく様子は、私の耳にも自然と入ってきていた。
最初はただ、席が隣になっただけの関係だと思っていた。美里さんみたいに目立つ人と、啓太くんが釣り合うなんて、失礼だけど、少し意外にも感じていた。
でも、日が経つにつれて、二人が一緒にいる時間は、目に見えて増えていった。
「あの二人、お似合いだよね」「いつ付き合うんだろうね」
そんな言葉も、教室の隅で聞こえてくるようになった。
――やっぱり、そうだよね。
分かっていたはずなのに、その度に、小さく胸が痛んだ。
返却期限の過ぎた本を整理しながら、私は、ふと自分の気持ちに向き合った。
いつから、こんなに啓太くんのことばかり考えるようになったんだろう。
きっと、「おすすめの本を教えてほしい」と聞かれた、あの日からだ。
誰かに必要とされることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。啓太くんが読んでくれた本の感想を聞くたびに、私の世界が少しずつ広がっていく気がした。
地味で、目立たなくて、誰の視界にも入らないような自分。それでも、啓太くんだけは、ちゃんと私を見てくれている気がしていた。
――それも、勘違いだったのかな。
そんな風に、諦めかけていた時だった。
放課後、いつものように図書室の片付けをしていると、扉が開く音がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、啓太くんだった。
「……啓太くん?」
久しぶりに聞く声に、心臓が跳ねた。
啓太くんは、少し緊張した面持ちで、まっすぐにこちらを見ていた。
その表情には、これまで見たことのない、真剣な色が宿っていた。
◇◇◇
「……啓太くん?」
久しぶりに聞く声に、唯は戸惑ったような表情を浮かべていた。
僕は、しばらく言葉が出てこなかった。何を、どこから話せばいいのか、頭の中で何度も考えてきたはずなのに、いざその場に立つと、全部飛んでしまいそうだった。
それでも、ここで黙っていたら、きっとまた同じことを繰り返す。
周りの目を気にして、本心を隠して、大切なものを見て見ぬふりする。そんな自分は、もう終わりにしたかった。
「急に来て、ごめん」
「ううん……大丈夫、ですけど」
唯は、カウンターの本を胸に抱えたまま、僕を見つめていた。
「最近、態度おかしかったよな。素っ気なかったり、変に焦ったり」
「……はい、少し」
正直に頷く唯に、胸が締めつけられた。
「ごめん。理由、ちゃんと話したいんだ」
深呼吸を一つして、僕は続けた。
「クラスの奴らに、唯のこと『地味だ』とか『存在感ない』とか言われた時、本当は、そんなことない、って言いたかった。唯がどれだけ本の話を楽しそうにするか、どれだけ丁寧にページをめくるか、どんな風に笑うか――ちゃんと知ってるのは、僕だから」
「でも、言えなかった。周りにどう思われるか、怖かったから。それで、誤魔化すみたいに、頷いてしまった」
唯は、何も言わずに、ただ僕の言葉を聞いていた。
「最近、美里と仲がいいって、噂になってたと思う。実際、話す機会も増えてた。でも、それとは違う気持ちで、僕はずっと唯のことを考えてた」
「唯と話す時間が、一週間で一番楽しみだった。おすすめの本を聞くのも、返した本の感想を伝えるのも、全部、唯に会うための口実みたいなものだった」
唯の目が、少しずつ見開かれていくのが分かった。
「好きです」
自分でも驚くくらい、はっきりとした声が出た。
「ずっと前から、唯のことが好きでした。周りにどう思われても、もう、隠したくない」
図書室は、しんと静まり返っていた。
唯は、しばらく何も言わずに、僕を見つめていた。
やがて、その目に、じんわりと涙が浮かんでいった。
「……本当に、私でいいんですか?」
震える声で、唯はそう尋ねた。
「美里さんみたいに可愛くもないし、目立つこともできないのに……」
信じられない、というように、唯は自分の胸元をぎゅっと握りしめていた。
「本当に、私で……」
「唯がいいんだ」
僕は、迷わずそう答えた。
「唯だから、好きになった」
その言葉に、唯の目から涙がこぼれ落ちた。
「……私も、ずっと好きでした」
震える声で、唯はそう言った。
「啓太くんのこと、ずっと」
言葉の続きは、涙でうまく形にならなかった。それでも、その一言だけで、十分だった。
夕日が、図書室の窓から差し込んでいた。
本棚に並んだ本の背表紙が、オレンジ色に染まっている中で、僕たちは、ようやく本当の気持ちを、お互いに伝え合うことができた。
――周りになんて言われたっていい。
僕は、自分にとって一番大切な人に、ちゃんと想いを伝えられた。
その事実だけが、今は何より、確かなものだった。


