冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~

陽菜子の家を出てから。
神崎は、しばらく夢の中を歩いているような感覚だった。
夜道を歩きながらも、頭の中にあるのはたった一つ。

――陽菜子さんと、キスをした。

「…………。」

自宅までは、それほど遠くない。
もともと二人の家は近所だった。
いつもなら何でもない帰り道なのに、今日は妙に長く感じる。
数時間前の出来事が、何度も頭の中で繰り返されていた。
陽菜子の頬へ触れたこと。

『キスしても、いいですか?』

そう聞いたこと。

そして。

――嫌じゃないです。

――紅夜くんなら……いいです。

許可をもらって。
自分から顔を近づけて。
陽菜子と、唇を重ねた。

「…………。」

神崎は歩きながら、自分の口元を押さえた。

「……キスした。」

小さく口にした途端。

一気に顔が熱くなる。

「無理だ……。」

思わずその場にしゃがみ込みそうになり、どうにか踏みとどまった。
ここはまだ外だ。
しかも陽菜子の家から、それほど離れていない。
今ここで叫んだら、最悪の場合、陽菜子にまで聞こえるかもしれない。
神崎は必死に口を押さえ、そのまま早足で自宅へ向かった。

数分後。
ようやく自宅へ着く。
玄関の扉を閉めた瞬間。
神崎はその場へしゃがみ込んだ。

「ギャアアアアアッ!!」

誰もいない玄関に、悲鳴が響き渡る。

「無理!!なんで俺はあんな恐れ多いことを!!」

自分から聞いた。
陽菜子も嫌ではないと言ってくれた。
それどころか。
キスのあと。

――私、嬉しかったですよ。

――紅夜くんからしてくれて。

「…………。」

神崎は両手で顔を覆った。
耳まで熱い。

「……夢では?」

あまりにも都合がよすぎる。
陽菜子と恋人になったことも。
手をつないだことも。
抱きしめたことも。

そして。
キスをしたことも。
全部。

「……いや。」

神崎はゆっくりと左手を見る。
今日、陽菜子とずっとつないでいた手。
まだ、その温もりが残っている気さえする。
神崎はその手を胸元へ当てた。

「……現実なんだ。」

陽菜子が、自分の恋人。
そして今日。
とうとうキスまでした。
神崎はふらふらとリビングへ向かい、そのままソファへ倒れ込んだ。
クッションへ顔を埋める。

「…………。」

数秒後。

「陽菜子さん、可愛かった……。」

ぼそりと呟いた。
キスをする直前。
恥ずかしそうに目を閉じた顔。
キスのあと、恐る恐る目を開けた顔。

そして。
自分が床へ崩れ落ちても、呆れながら笑ってくれた顔。
全部。
可愛かった。

「……無理。」

クッションを抱きしめたまま、神崎は丸くなる。

明日。
また会社へ行けば、陽菜子に会える。
いつも通り。
朝の挨拶をして。
予定が合えば、一緒に昼食を食べる。
それなのに。
明日は今までと違う。
昨日までの自分と陽菜子ではない。

――キスをしたあとの二人なのだ。

「…………仕事できるのか、俺。」

営業成績トップクラスの男は。
その夜、なかなか眠ることができなかった。