あの日、青い海に君を置いてきた


東西中学校、保健室。

「さ、みんなが帰る前に帰ろっと」
ナオは、保健室の隅に置いていたバッグを拾い上げた。

東西中学校一年の白石ナオは、保健室登校を続けている。
下校時に、大勢の生徒と顔を合わせるのは気をつかう。
だからいつも、下校時刻の十五分前には保健室を出ることにしていた。

バッグを背負い、ドアに手をかけた。
そのときだった。

「ナオさん、今は帰っちゃだめよ」
養護教諭のアンナ先生が、窓の外を見ながら言った。

「えー。なんでですか?」
「雷」
「雷? 鳴ってないし」
「鳴ってからじゃ遅いの!」

アンナ先生はパソコンの画面を確認し、窓の外を見て、また画面へ目を戻した。
ナオものぞき込む。
天気予報。
雨雲レーダー。
雷の予報。
いくつもの画面が開いている。

けれど、ナオには何をそんなに気にしているのか、よくわからなかった。
「アンナ先生、おおげさだなあ。大丈夫だって。まだ雨も降ってないし」
「だから、もう少し待って」
「えー」

そのとき、グラウンドから大きな声が響いた。
「集合ー!」
サッカー部員たちが、一斉に校舎から飛び出していく。
アンナ先生の表情が変わった。

「ちょっと待って!」
すぐに窓を開ける。
「外に出ないで! 屋内に戻りなさい!」
サッカー部員たちが足を止めた。

顧問の教師が、困ったような顔で保健室を見上げる。
「アンナ先生、勘弁してくださいよ」
「雷注意報が出ています」
「でも、週末は試合なんですよ。今やらなくて、いつやるんですか」
すると、部員の一人が言った。
「今でしょ」

どっと笑いが起きた。
帰ろうとしていた何人かの生徒まで笑っている。

けれど、アンナ先生は笑わなかった。
「だめです。すぐに中へ戻してください。みんなも校舎に戻って!」
「だから、まだ雷なんて――」

ゴロゴロ……。

遠くで、低い音がした。
ナオは窓の外を見る。

アンナ先生がすぐに振り返った。
「ナオさん。今、鳴ったよね?」
「まあ、鳴りましたけど……すっごく遠くですよ」

「遠くても雷は雷なの」
サッカー部の顧問は、まだ納得していない様子だった。
アンナ先生は校内電話を手に取った。
「職員室につないでください」

しばらくして、校内放送が流れた。
『屋外運動部顧問の先生方、職員室へお越しください。アンナ先生がお呼びです』
野球部やテニス部も、これから外へ出ようとしていたらしい。

先生たちが次々と職員室へ向かっていく。
ナオは気になった。

――どうなるんだろう。
そっと保健室を抜け出す。
廊下を歩いて、職員室の前まで行った。
扉の陰から、中をのぞく。

校長先生の机の前に、教師たちが次々と集まっていた。
壁の大きなモニターには、市内の地図と雲の動きが映し出されている。

アンナ先生が画面を指した。
「このあたりに雷の予報が出ています。屋外での活動は中止すべきです」
サッカー部の顧問が腕を組んだ。
「でも、週末は試合ですよ。体、なまっちゃいますよ」

別の教師がスマホを見せる。
「隣山中は、もうウォーミングアップを始めているそうですよ」
「ほら」

スマホがスピーカーフォンに切り替えられた。
『こちら隣山中。サッカー部、普通に練習してますよ』

職員室で、誰かが小さく笑った。
「うちだけ休んでたら、負けますよ」
校長先生が、困ったようにため息をついた。

「アンナ先生」
「はい」
「いつも安全に気を配ってくれているのは、ありがたい」
そこで、少し間を置いた。

「ただね。何でもかんでも止めてしまったら、それはありがた迷惑というものだよ」
職員室の前で聞き耳を立てていたナオは、思わず眉をひそめた。

――ありがた迷惑。

そんな言い方しなくてもいいのに。
アンナ先生は黙っていた。
校長先生は続ける。
「試合前なんだ。みんな練習したいんだよ。その気持ちも、少しくんでやってくれないか」

アンナ先生はモニターを見た。
そして静かに言った。
「でも、自然災害は人間の都合を考えてくれません」

職員室が静かになった。
「試合前でも、練習したくても、危険なものは危険です」
サッカー部の顧問が顔をしかめた。

「安全、安全って、うるさいんですよ」
アンナ先生は何も言わなかった。
ゴロゴロゴロ……。

さっきより近い。
ナオの胸が、少しざわついた。
今度は、さすがに自分にもわかる。

雷は近づいている。
そのときだった。
職員室の電話が鳴った。

プルルルル――。
「はい」
事務職員のミカさんが受話器を取る。
「東西中学校です」

数秒後。
ミカさんの顔色が変わった。

「教育委員会の指導課からです。職員のみなさんにもスピーカーフォンで聞いてほしいそうです」
校長先生がうなずいた。
「頼む」

ミカさんがスピーカーフォンに切り替えた。

『指導課の山田です。挨拶抜きで失礼します』
職員室が静まり返った。
『今、隣山中学校のグラウンドに落雷がありました』

誰かが息をのんだ。
『市内すべての学校は、直ちに生徒を屋内へ退避させてください。屋外活動は中止。下校も一時見合わせてください。詳細は教育委員会の連絡システムを確認してください』

電話が切れた。

誰も何も言わなかった。
ほんの数秒。

でも、ナオにはずいぶん長く感じられた。
そのとき、一人の教師がパソコンを見て叫んだ。