夜もすっかり遅くなっていた。
夕食を終えた樹と凪沙は、昼からの疲れもあって、もうそれぞれの部屋で眠っている。
居間には、おじいちゃんと碧、竜樹の三人だけが残っていた。
食器を片付け終えた碧が、ふうっと息をつく。
「今日は、本当にありがとうございました」
「もういいっちゃ」
おじいちゃんが笑った。
「何回ありがとうっち言うんっちゃ」
「だって……急なことだったのに、こんなにしていただいて」
おじいちゃんは、優しく碧を見る。
「困っちょるから、ここに来たんやろ」
「はい……」
「だったら、そんなに気にせんでいい」
そう言って、おじいちゃんはふと庭のほうへ目を向けた。
「そうっちゃ」
「はい?」
「碧さん、庭に離れがあるけん」
碧が庭を見る。
「離れ……ですか?」
「ああ。一回使いよったけど、今はほとんど使っちょらんのよ」
竜樹も庭のほうを見る。
「ああ、あそこか」
「そうっちゃ」
おじいちゃんは頷いた。
「一回使ったあと、そのまま置いたままになっちょんけ」
「ちょこっと片付けて、綺麗に掃除すれば、住めるなあ」
碧は驚いた。
「でも……家を探さないと」
おじいちゃんは少し考えてから、庭のほうを見た。
「家なんか探さんでいいやろか」
碧が驚いたように顔を上げる。
「……え?」
「庭の離れがあるけん」
「そこを綺麗にして、住んだらいいやろ」
碧は、しばらく言葉が出なかった。
「……本当に、いいんですか?」
「いい」
おじいちゃんは迷いなく答えた。
「家が見つかるまでじゃなくていい」
「ここに住めばいい」
竜樹も庭を眺めながら頷いた。
「それ、いいなぁ」
「じゃろ?」
「土日なら、リフォームもできるやろ」
「近所の人にも声をかけてみる」
「そうっちゃ」
「みんなでやれば、きっと何とかなるじゃろ」
碧は、庭の向こうにある古い離れを見つめた。
一度は使われていた場所。
けれど、今はほとんど使われず、そのままになっている。
「……私たちが、ここに住んでもいいんですか?」
「いいんじゃ」
おじいちゃんは優しく笑った。
「ここなら凪沙も安心するじゃろうし」
碧が顔を上げる。
「凪沙ちゃん……」
「樹くんがまたどこかへ行ってしまうんじゃないかって、あの子も心配するでしょうから」
「……そうですね」
碧は小さく頷いた。
「樹も、きっと安心すると思います」
おじいちゃんが頷いた。
「じゃあ、決まりじゃ」
三人は庭の離れを見つめた。
古くなった建物。
まだ、人が暮らすには手を入れなければならない。
けれど、少しずつ直していけばいい。
ここが樹と碧の暮らす場所になる。
「今度の土日からやるか」
竜樹が言った。
「近所の人にも声をかけてみる」
「そうっちゃ」
「みんなでやれば、きっと何とかなるじゃろ」
三人で話しているうちに、少しずつ未来の形が見えてきた。
碧はもう一度、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます」
おじいちゃんは照れくさそうに笑う。
「困ったときは、お互い様じゃ」
そして竜樹が、静かに続けた。
「親なら、子どもの心配をするっちゃ」
碧が顔を上げる。
「……はい」
「俺も、雪と二人で凪沙のことをすごい心配したんです」
「熱が出たときも、学校で何かあったときも」
「何か悩んじょるんじゃないかって、いつも心配しよった」
碧は黙って聞いていた。
「だから、碧さんも一人で全部背負わんでいい」
「一人じゃできんこともあるけん」
おじいちゃんも、ゆっくり頷く。
「そうっちゃ」
「周りを頼ればいい」
「ここにおるんじゃけん、困ったら言えばいい」
碧の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……はい」
「ありがとうございます」
おじいちゃんが優しく笑う。
「もう、ありがとうは何回目っちゃ」
碧も涙を拭いながら、少し笑った。
「……すみません」
「謝らんでいい」
三人の間に、穏やかな空気が流れた。
*
その夜。
みんなが眠りについたあと。
竜樹は一人、仏壇の前に座った。
小さな灯りをつける。
そこには、亡き妻――雪の写真があった。
竜樹は写真を見つめる。
「雪……」
静かに名前を呼ぶ。
「今日は、いつもよりしゃーしいやろ」
少し笑った。
「人が増えたけんな」
「楽しいなぁ」
写真の中の雪に話しかける。
「凪沙も、今日はたくさん笑ったんよ」
竜樹は、少しだけ目を細めた。
「ほんと、久しぶりにあんなに笑っちょった」
そして、写真をじっと見つめる。
「あの子が中一でお空に行くのは……早かったやろうなぁ」
しばらく沈黙する。
「俺も、お前ともっと一緒に凪沙を見ていたかった」
「もっと大きくなるところも、見たかったやろ」
竜樹は小さく息を吐いた。
「今日な、樹くんのお母さんの碧さんに会ったんよ」
「優しい人やったよ、」
少し笑う。
「お前と二人で、凪沙のことをすごい心配したやろうな」
「親って、そういうもん」
竜樹は写真に向かって話しかける。
「子どものことが心配で、仕方ないんじゃ」
そして、静かに言った。
「俺も、お前が凪沙を大事にしたように、凪沙を大事にするけんな」
「これからも、ちゃんと見ちょってくれ」
竜樹は目を伏せる。
「凪沙、今日は笑っちょったよ」
「だから……ちょっと安心してくれ」
両手を合わせる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて竜樹は立ち上がり、仏壇の灯りを消した。
静かな夜が戻ってきた。
*
その頃。
凪沙も樹も、何も知らずに眠っていた。
二人が眠る家の庭では、月明かりが古い離れを照らしている。
一度は使われていた場所。
そのままになっていた、少し古い離れ。
けれど明日から、そこは少しずつ変わっていく。
誰かが掃除をして。
誰かが壊れたところを直して。
誰かが新しいものを運び込む。
そうしてそこは、少しずつ「家」になっていく。
朝になれば、凪沙と樹はきっと驚くだろう。
――家を探さなくてもいい。
――ここに住んでいい。
そんな話が、二人の知らないところで決まっていたことを。
そして二人の新しい毎日は、海の見えるこの家から、また始まろうとしていた。
夕食を終えた樹と凪沙は、昼からの疲れもあって、もうそれぞれの部屋で眠っている。
居間には、おじいちゃんと碧、竜樹の三人だけが残っていた。
食器を片付け終えた碧が、ふうっと息をつく。
「今日は、本当にありがとうございました」
「もういいっちゃ」
おじいちゃんが笑った。
「何回ありがとうっち言うんっちゃ」
「だって……急なことだったのに、こんなにしていただいて」
おじいちゃんは、優しく碧を見る。
「困っちょるから、ここに来たんやろ」
「はい……」
「だったら、そんなに気にせんでいい」
そう言って、おじいちゃんはふと庭のほうへ目を向けた。
「そうっちゃ」
「はい?」
「碧さん、庭に離れがあるけん」
碧が庭を見る。
「離れ……ですか?」
「ああ。一回使いよったけど、今はほとんど使っちょらんのよ」
竜樹も庭のほうを見る。
「ああ、あそこか」
「そうっちゃ」
おじいちゃんは頷いた。
「一回使ったあと、そのまま置いたままになっちょんけ」
「ちょこっと片付けて、綺麗に掃除すれば、住めるなあ」
碧は驚いた。
「でも……家を探さないと」
おじいちゃんは少し考えてから、庭のほうを見た。
「家なんか探さんでいいやろか」
碧が驚いたように顔を上げる。
「……え?」
「庭の離れがあるけん」
「そこを綺麗にして、住んだらいいやろ」
碧は、しばらく言葉が出なかった。
「……本当に、いいんですか?」
「いい」
おじいちゃんは迷いなく答えた。
「家が見つかるまでじゃなくていい」
「ここに住めばいい」
竜樹も庭を眺めながら頷いた。
「それ、いいなぁ」
「じゃろ?」
「土日なら、リフォームもできるやろ」
「近所の人にも声をかけてみる」
「そうっちゃ」
「みんなでやれば、きっと何とかなるじゃろ」
碧は、庭の向こうにある古い離れを見つめた。
一度は使われていた場所。
けれど、今はほとんど使われず、そのままになっている。
「……私たちが、ここに住んでもいいんですか?」
「いいんじゃ」
おじいちゃんは優しく笑った。
「ここなら凪沙も安心するじゃろうし」
碧が顔を上げる。
「凪沙ちゃん……」
「樹くんがまたどこかへ行ってしまうんじゃないかって、あの子も心配するでしょうから」
「……そうですね」
碧は小さく頷いた。
「樹も、きっと安心すると思います」
おじいちゃんが頷いた。
「じゃあ、決まりじゃ」
三人は庭の離れを見つめた。
古くなった建物。
まだ、人が暮らすには手を入れなければならない。
けれど、少しずつ直していけばいい。
ここが樹と碧の暮らす場所になる。
「今度の土日からやるか」
竜樹が言った。
「近所の人にも声をかけてみる」
「そうっちゃ」
「みんなでやれば、きっと何とかなるじゃろ」
三人で話しているうちに、少しずつ未来の形が見えてきた。
碧はもう一度、深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます」
おじいちゃんは照れくさそうに笑う。
「困ったときは、お互い様じゃ」
そして竜樹が、静かに続けた。
「親なら、子どもの心配をするっちゃ」
碧が顔を上げる。
「……はい」
「俺も、雪と二人で凪沙のことをすごい心配したんです」
「熱が出たときも、学校で何かあったときも」
「何か悩んじょるんじゃないかって、いつも心配しよった」
碧は黙って聞いていた。
「だから、碧さんも一人で全部背負わんでいい」
「一人じゃできんこともあるけん」
おじいちゃんも、ゆっくり頷く。
「そうっちゃ」
「周りを頼ればいい」
「ここにおるんじゃけん、困ったら言えばいい」
碧の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……はい」
「ありがとうございます」
おじいちゃんが優しく笑う。
「もう、ありがとうは何回目っちゃ」
碧も涙を拭いながら、少し笑った。
「……すみません」
「謝らんでいい」
三人の間に、穏やかな空気が流れた。
*
その夜。
みんなが眠りについたあと。
竜樹は一人、仏壇の前に座った。
小さな灯りをつける。
そこには、亡き妻――雪の写真があった。
竜樹は写真を見つめる。
「雪……」
静かに名前を呼ぶ。
「今日は、いつもよりしゃーしいやろ」
少し笑った。
「人が増えたけんな」
「楽しいなぁ」
写真の中の雪に話しかける。
「凪沙も、今日はたくさん笑ったんよ」
竜樹は、少しだけ目を細めた。
「ほんと、久しぶりにあんなに笑っちょった」
そして、写真をじっと見つめる。
「あの子が中一でお空に行くのは……早かったやろうなぁ」
しばらく沈黙する。
「俺も、お前ともっと一緒に凪沙を見ていたかった」
「もっと大きくなるところも、見たかったやろ」
竜樹は小さく息を吐いた。
「今日な、樹くんのお母さんの碧さんに会ったんよ」
「優しい人やったよ、」
少し笑う。
「お前と二人で、凪沙のことをすごい心配したやろうな」
「親って、そういうもん」
竜樹は写真に向かって話しかける。
「子どものことが心配で、仕方ないんじゃ」
そして、静かに言った。
「俺も、お前が凪沙を大事にしたように、凪沙を大事にするけんな」
「これからも、ちゃんと見ちょってくれ」
竜樹は目を伏せる。
「凪沙、今日は笑っちょったよ」
「だから……ちょっと安心してくれ」
両手を合わせる。
しばらく、そのまま動かなかった。
やがて竜樹は立ち上がり、仏壇の灯りを消した。
静かな夜が戻ってきた。
*
その頃。
凪沙も樹も、何も知らずに眠っていた。
二人が眠る家の庭では、月明かりが古い離れを照らしている。
一度は使われていた場所。
そのままになっていた、少し古い離れ。
けれど明日から、そこは少しずつ変わっていく。
誰かが掃除をして。
誰かが壊れたところを直して。
誰かが新しいものを運び込む。
そうしてそこは、少しずつ「家」になっていく。
朝になれば、凪沙と樹はきっと驚くだろう。
――家を探さなくてもいい。
――ここに住んでいい。
そんな話が、二人の知らないところで決まっていたことを。
そして二人の新しい毎日は、海の見えるこの家から、また始まろうとしていた。

