夕方。
樹と碧が荷物を片付けている間、凪沙は台所でお茶を入れていた。
そのとき、居間からおじいちゃんの声が聞こえた。
「凪沙」
「なに?」
「ちょっと電話がしたいんやけど……どうしたらいいんやろうか」
凪沙は台所から顔を出した。
「誰に電話するん?」
おじいちゃんはスマートフォンを手にしたまま答えた。
「竜樹」
「……お父さん?」
「ああ」
凪沙は少し驚いた。
おじいちゃんから父親に電話をすることは、あまりない。
「なんで電話なん?」
おじいちゃんは、居間のほうを見る。
そこでは樹と碧が、持ってきた荷物を整理していた。
「樹くんたちのこと」
「うん」
「急にここで暮らすことになったじゃろ」
「うん」
「一応、竜樹にも話しておいたほうがいいと思ってな」
凪沙は頷いた。
確かに、お父さんにも話しておいたほうがいい。
でも――。
「お父さん、今仕事じゃない?」
「そうやったかな」
「うん。日鉄でしょ?」
「そうじゃったな」
凪沙は時計を見る。
「まだ仕事中じゃないかな」
「そうかもしれんな」
「帰ってくるのも遅いし」
「そうじゃった」
おじいちゃんはスマートフォンを見つめる。
「じゃあ、電話しても出られんかもしれんな」
「それに、仕事しよるところは電波が届かんこともあるやろうに」
「ああ、そうじゃったな」
おじいちゃんは困ったように笑った。
「どうしたもんかのう」
凪沙は少し考えてから言った。
「でも、お父さん今日帰ってくるんやろ?」
「帰ってくるじゃろうな」
「だったら、帰ってきてから直接話せばいいやん」
おじいちゃんは、はっとしたような顔をした。
「ああ……そうじゃな」
「わざわざ電話せんでも、家で話せばいいよ」
「そうじゃった」
おじいちゃんはスマートフォンを置いた。
「じゃあ、電話はやめとくか」
「うん」
「竜樹にも、ちゃんと話さんとな」
「大丈夫。私も一緒に話すよ」
「そうか」
おじいちゃんは安心したように笑った。
「じゃあ、そうしよう」
居間から、樹と碧の笑い声が聞こえてくる。
凪沙も、その声を聞いて少し笑った。
今日はいつもの家と違う。
誰かの話し声がして、荷物を動かす音がしている。
海のそばの家が、いつもより少し賑やかだった。
*
夜十時。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
仕事から帰ってきた凪沙のお父さん――竜樹だった。
「おかえり」
凪沙が玄関へ向かう。
「今日ね、話があるんよ」
「ん?」
竜樹が靴を脱ぎながら、凪沙を見る。
「何かあったんか?」
「うん」
凪沙は少しだけ後ろを見る。
そこには碧と樹が立っていた。
「紹介するね」
「……?」
「樹くんのお母さんの、碧さん」
碧が一歩前へ出る。
「初めまして」
そして、丁寧に頭を下げた。
「生石碧と申します」
竜樹も少し驚きながら頭を下げる。
「初めまして。神志那竜樹です」
碧はもう一度、深く頭を下げた。
「今日は、突然お邪魔することになってしまって……本当に申し訳ありません」
「いやいや」
竜樹は首を横に振る。
「話は聞いてます」
おじいちゃんも居間から出てきた。
「竜樹、樹くんたちは家が見つかるまで、ここで暮らすことになったんじゃ」
「うん。聞いた」
竜樹は樹を見る。
「樹くん、よろしくな」
「はい」
樹が少し緊張しながら頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
碧が竜樹に向かって言った。
「凪沙ちゃんにも、いつもよくしていただいていて……」
少し言葉を詰まらせながら続ける。
「おじいさまにも、本当にありがとうございますとお伝えしたくて」
おじいちゃんが笑う。
「そんな気にせんでいい」
「でも……」
碧は首を横に振った。
「急なことだったのに、こんなふうに受け入れていただいて」
「困ったときはお互い様じゃ」
おじいちゃんはそう言った。
碧は少し目を潤ませながら、もう一度頭を下げる。
「ありがとうございます」
竜樹も静かに頷いた。
「こちらこそ。凪沙と仲良くしてくれてる樹くんを、俺も歓迎します」
樹は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
凪沙は、その様子を見ながらほっとした。
初めて会った二人の大人。
けれど、そこにあったのは緊張だけではなかった。
樹を大切に思う碧。
凪沙を大切に思う竜樹。
そして、その二人をつないだのは、海のそばにあるこの家だった。
その夜、遅い時間まで家の中には静かな話し声が続いていた。
凪沙はその声を聞きながら、自分の家にまた新しい人とのつながりができたことを感じていた。
「樹くんも、よろしくな」
「はい」
樹は少し緊張しながら頭を下げた。
「よろしくお願いします」
おじいちゃんも、横から笑った。
「これで話も済んだ……」
時計を見る。
「もう遅いのう」
そして、いつものように明るく言った。
「よし、ご飯にしようかっち」
「はい」
碧が立ち上がる。
「私、準備します」
「私も手伝う」
凪沙も立ち上がった。
二人で台所へ向かう。
碧が作っていた料理を、凪沙が一つずつ運んでいく。
最初に、大きなお皿に盛られた関アジ。
佐賀関の海で獲れた魚が、夜の食卓の真ん中に並んだ。
「関アジ、持ってきたよ」
「ありがとう、凪沙ちゃん」
次に、鯛とサーモンの刺身。
白い鯛と、鮮やかな色のサーモンがきれいに盛り付けられている。
「お刺身もできたよ」
「おお」
おじいちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「うまそう」
そして、湯気の立つ鶏めし。
炊きたての香りが、部屋いっぱいに広がった。
最後に、こんがり揚がった唐揚げを運ぶ。
「唐揚げもあるよ」
「すごい……」
樹が思わず呟いた。
食卓には、関アジ、鯛とサーモンの刺身、鶏めし、唐揚げ。
気がつけば、四人分の食事とは思えないほど、賑やかな食卓になっていた。
竜樹が笑う。
「こんなに作ったんですか?」
碧は少し照れながら答えた。
「急にお邪魔することになったので……。せめて、ご飯くらいはと思って」
「ありがとうございます」
「いえ。皆さんで食べたほうが美味しいですから」
凪沙が席につく。
その隣に樹が座る。
碧と竜樹、おじいちゃんもそれぞれ席についた。
おじいちゃんが手を合わせる。
「じゃあ、いただこうか」
「いただきます」
みんなの声が重なった。
樹はまず、関アジに箸を伸ばした。
昼にも食べた、佐賀関の味。
口に入れると、やっぱり美味しかった。
「どう?」
凪沙が聞く。
「うん。やっぱり美味しい」
「よかった」
次に鯛。
そしてサーモン。
鶏めしを一口食べると、樹の顔が少し緩んだ。
「これも美味しい」
「ほんと?」
碧が嬉しそうに聞く。
「うん」
樹は唐揚げにも箸を伸ばした。
「これも……」
「食べすぎんようにな」
おじいちゃんが笑う。
「まだ家に来たばっかりなんじゃけん、遠慮せんでいいぞ」
「はい」
樹は笑った。
その笑顔を見て、凪沙も嬉しくなった。
けれど、しばらくして樹はふと箸を止めた。
目の前には、たくさんの料理。
隣には凪沙。
向かいには碧。
そして、おじいちゃんと竜樹もいる。
みんながそれぞれ話をしている。
「この鶏めし、美味しいな」
「でしょう?」
「関アジも昼に食べたけど、やっぱりうまい」
「佐賀関じゃけんな」
そんな声が聞こえてくる。
樹はその光景を、少し不思議そうに眺めた。
「……樹くん?」
凪沙が声をかける。
「どうしたん?」
樹は少し考えてから、小さく笑った。
「こうやって……みんなでご飯食べるの、久しぶりだなって」
その言葉に、碧が樹を見る。
「そうだね」
樹は箸を握り直した。
「野津原にいたときも、ご飯は食べてたけど……」
少しだけ間を置く。
「最近、家のこととか、引っ越しのこととかで、ずっとバタバタしてたから」
「そっか」
凪沙が静かに答える。
樹は食卓を見渡した。
「なんか……落ち着く」
碧が優しく笑った。
「じゃあ、今日はゆっくり食べよう」
「うん」
樹は頷いた。
おじいちゃんが関アジを取り分けながら言う。
「ほら、まだあるぞ」
「ありがとうございます」
「遠慮するなっちゃ」
樹は笑いながら、もう一度箸を伸ばした。
その様子を見て、凪沙も笑った。
海のそばの家。
今日からここは、樹にとって一時的な住まいになる。
けれど、この日の食卓で感じた温かさは、きっと家が見つかったあとも忘れない。
山から来た少年が、海の町で初めて感じたもの。
それは、海の味だけではなかった。
「ただいま」と帰れる場所があることの、安心だった。
樹と碧が荷物を片付けている間、凪沙は台所でお茶を入れていた。
そのとき、居間からおじいちゃんの声が聞こえた。
「凪沙」
「なに?」
「ちょっと電話がしたいんやけど……どうしたらいいんやろうか」
凪沙は台所から顔を出した。
「誰に電話するん?」
おじいちゃんはスマートフォンを手にしたまま答えた。
「竜樹」
「……お父さん?」
「ああ」
凪沙は少し驚いた。
おじいちゃんから父親に電話をすることは、あまりない。
「なんで電話なん?」
おじいちゃんは、居間のほうを見る。
そこでは樹と碧が、持ってきた荷物を整理していた。
「樹くんたちのこと」
「うん」
「急にここで暮らすことになったじゃろ」
「うん」
「一応、竜樹にも話しておいたほうがいいと思ってな」
凪沙は頷いた。
確かに、お父さんにも話しておいたほうがいい。
でも――。
「お父さん、今仕事じゃない?」
「そうやったかな」
「うん。日鉄でしょ?」
「そうじゃったな」
凪沙は時計を見る。
「まだ仕事中じゃないかな」
「そうかもしれんな」
「帰ってくるのも遅いし」
「そうじゃった」
おじいちゃんはスマートフォンを見つめる。
「じゃあ、電話しても出られんかもしれんな」
「それに、仕事しよるところは電波が届かんこともあるやろうに」
「ああ、そうじゃったな」
おじいちゃんは困ったように笑った。
「どうしたもんかのう」
凪沙は少し考えてから言った。
「でも、お父さん今日帰ってくるんやろ?」
「帰ってくるじゃろうな」
「だったら、帰ってきてから直接話せばいいやん」
おじいちゃんは、はっとしたような顔をした。
「ああ……そうじゃな」
「わざわざ電話せんでも、家で話せばいいよ」
「そうじゃった」
おじいちゃんはスマートフォンを置いた。
「じゃあ、電話はやめとくか」
「うん」
「竜樹にも、ちゃんと話さんとな」
「大丈夫。私も一緒に話すよ」
「そうか」
おじいちゃんは安心したように笑った。
「じゃあ、そうしよう」
居間から、樹と碧の笑い声が聞こえてくる。
凪沙も、その声を聞いて少し笑った。
今日はいつもの家と違う。
誰かの話し声がして、荷物を動かす音がしている。
海のそばの家が、いつもより少し賑やかだった。
*
夜十時。
玄関の扉が開いた。
「ただいま」
仕事から帰ってきた凪沙のお父さん――竜樹だった。
「おかえり」
凪沙が玄関へ向かう。
「今日ね、話があるんよ」
「ん?」
竜樹が靴を脱ぎながら、凪沙を見る。
「何かあったんか?」
「うん」
凪沙は少しだけ後ろを見る。
そこには碧と樹が立っていた。
「紹介するね」
「……?」
「樹くんのお母さんの、碧さん」
碧が一歩前へ出る。
「初めまして」
そして、丁寧に頭を下げた。
「生石碧と申します」
竜樹も少し驚きながら頭を下げる。
「初めまして。神志那竜樹です」
碧はもう一度、深く頭を下げた。
「今日は、突然お邪魔することになってしまって……本当に申し訳ありません」
「いやいや」
竜樹は首を横に振る。
「話は聞いてます」
おじいちゃんも居間から出てきた。
「竜樹、樹くんたちは家が見つかるまで、ここで暮らすことになったんじゃ」
「うん。聞いた」
竜樹は樹を見る。
「樹くん、よろしくな」
「はい」
樹が少し緊張しながら頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
碧が竜樹に向かって言った。
「凪沙ちゃんにも、いつもよくしていただいていて……」
少し言葉を詰まらせながら続ける。
「おじいさまにも、本当にありがとうございますとお伝えしたくて」
おじいちゃんが笑う。
「そんな気にせんでいい」
「でも……」
碧は首を横に振った。
「急なことだったのに、こんなふうに受け入れていただいて」
「困ったときはお互い様じゃ」
おじいちゃんはそう言った。
碧は少し目を潤ませながら、もう一度頭を下げる。
「ありがとうございます」
竜樹も静かに頷いた。
「こちらこそ。凪沙と仲良くしてくれてる樹くんを、俺も歓迎します」
樹は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「ありがとうございます」
凪沙は、その様子を見ながらほっとした。
初めて会った二人の大人。
けれど、そこにあったのは緊張だけではなかった。
樹を大切に思う碧。
凪沙を大切に思う竜樹。
そして、その二人をつないだのは、海のそばにあるこの家だった。
その夜、遅い時間まで家の中には静かな話し声が続いていた。
凪沙はその声を聞きながら、自分の家にまた新しい人とのつながりができたことを感じていた。
「樹くんも、よろしくな」
「はい」
樹は少し緊張しながら頭を下げた。
「よろしくお願いします」
おじいちゃんも、横から笑った。
「これで話も済んだ……」
時計を見る。
「もう遅いのう」
そして、いつものように明るく言った。
「よし、ご飯にしようかっち」
「はい」
碧が立ち上がる。
「私、準備します」
「私も手伝う」
凪沙も立ち上がった。
二人で台所へ向かう。
碧が作っていた料理を、凪沙が一つずつ運んでいく。
最初に、大きなお皿に盛られた関アジ。
佐賀関の海で獲れた魚が、夜の食卓の真ん中に並んだ。
「関アジ、持ってきたよ」
「ありがとう、凪沙ちゃん」
次に、鯛とサーモンの刺身。
白い鯛と、鮮やかな色のサーモンがきれいに盛り付けられている。
「お刺身もできたよ」
「おお」
おじいちゃんが嬉しそうに声を上げる。
「うまそう」
そして、湯気の立つ鶏めし。
炊きたての香りが、部屋いっぱいに広がった。
最後に、こんがり揚がった唐揚げを運ぶ。
「唐揚げもあるよ」
「すごい……」
樹が思わず呟いた。
食卓には、関アジ、鯛とサーモンの刺身、鶏めし、唐揚げ。
気がつけば、四人分の食事とは思えないほど、賑やかな食卓になっていた。
竜樹が笑う。
「こんなに作ったんですか?」
碧は少し照れながら答えた。
「急にお邪魔することになったので……。せめて、ご飯くらいはと思って」
「ありがとうございます」
「いえ。皆さんで食べたほうが美味しいですから」
凪沙が席につく。
その隣に樹が座る。
碧と竜樹、おじいちゃんもそれぞれ席についた。
おじいちゃんが手を合わせる。
「じゃあ、いただこうか」
「いただきます」
みんなの声が重なった。
樹はまず、関アジに箸を伸ばした。
昼にも食べた、佐賀関の味。
口に入れると、やっぱり美味しかった。
「どう?」
凪沙が聞く。
「うん。やっぱり美味しい」
「よかった」
次に鯛。
そしてサーモン。
鶏めしを一口食べると、樹の顔が少し緩んだ。
「これも美味しい」
「ほんと?」
碧が嬉しそうに聞く。
「うん」
樹は唐揚げにも箸を伸ばした。
「これも……」
「食べすぎんようにな」
おじいちゃんが笑う。
「まだ家に来たばっかりなんじゃけん、遠慮せんでいいぞ」
「はい」
樹は笑った。
その笑顔を見て、凪沙も嬉しくなった。
けれど、しばらくして樹はふと箸を止めた。
目の前には、たくさんの料理。
隣には凪沙。
向かいには碧。
そして、おじいちゃんと竜樹もいる。
みんながそれぞれ話をしている。
「この鶏めし、美味しいな」
「でしょう?」
「関アジも昼に食べたけど、やっぱりうまい」
「佐賀関じゃけんな」
そんな声が聞こえてくる。
樹はその光景を、少し不思議そうに眺めた。
「……樹くん?」
凪沙が声をかける。
「どうしたん?」
樹は少し考えてから、小さく笑った。
「こうやって……みんなでご飯食べるの、久しぶりだなって」
その言葉に、碧が樹を見る。
「そうだね」
樹は箸を握り直した。
「野津原にいたときも、ご飯は食べてたけど……」
少しだけ間を置く。
「最近、家のこととか、引っ越しのこととかで、ずっとバタバタしてたから」
「そっか」
凪沙が静かに答える。
樹は食卓を見渡した。
「なんか……落ち着く」
碧が優しく笑った。
「じゃあ、今日はゆっくり食べよう」
「うん」
樹は頷いた。
おじいちゃんが関アジを取り分けながら言う。
「ほら、まだあるぞ」
「ありがとうございます」
「遠慮するなっちゃ」
樹は笑いながら、もう一度箸を伸ばした。
その様子を見て、凪沙も笑った。
海のそばの家。
今日からここは、樹にとって一時的な住まいになる。
けれど、この日の食卓で感じた温かさは、きっと家が見つかったあとも忘れない。
山から来た少年が、海の町で初めて感じたもの。
それは、海の味だけではなかった。
「ただいま」と帰れる場所があることの、安心だった。

