軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜




 八月下旬、吉日。
 残暑の陽射しが麒麟堂薬舗の暖簾を白く照らしていた。

 凪は藤鼠色の引き振袖に袖を通していた。
 翠が落ち着いた金地の袋帯を締めていく。
 束髪にまとめた髪には控えめな簪を挿していた。
「これで見窄らしさもないわね。お父様と私からの、最後の贈り物なのよ」
(この店が手に入るなら、こんなもの安いもんだわ!)
 翠はほくそ笑み、姿鏡越しに映る凪を見る。
「……ありがとうございます」
 凪のその声はとても細い。
「さあ、そろそろ安藤様がいらっしゃるわ。表で待ちましょう」
 そう言って翠は、そそくさと部屋を出ていった。
 凪は部屋の隅に置かれた薬研を見据えていた。

 足袋を履き草履に足を入れる。
 奥座敷から麒麟堂の店内へと入った。
 帳場にはいつも通り、源一郎が濃紺の着物に黒羽織を着込み座っていた。咳を堪えるように少し猫背だった。しかし、凪の衣装を眺める顔は、どこか誇らしげな表情にも見えた。
 凪はその豪華な衣装よりも、兄の薬研と薬草を包んだ風呂敷を気にしている。
 途端に源一郎の眉間に皺がよる。
「薬研や薬を持っていくなっ」
 凪は咎められたが、首を振り譲らなかった。
「そんな嫁入り道具、聞いたことないわ。変な嫁だと思われて追い返されないでちょうだいねっ!」
 腕を組みながら、翠はあからさまに嫌な顔をした。

 そこに麒麟堂の戸が開いた。
 皆の視線が一斉に向かう。
「山本工務店でございまーす。本日は改装の下見に参りました」
 紺の木綿着物に黒羽織をまとい、腰に差し金を差した工務店の親方が、巻尺を手に店へ入ってきた。
「あら、随分と早いわね」
 翠が焦った様子で、源一郎と凪を一瞥する。
「ええ。本日は採寸に来ました」
 親方はそう言い、店内の柱や壁を見回す。
「改装って……お義母様、どういうことですか⁉︎」
 凪の声は小さく震える。
 開き直ったように翠は言う。
「ここはもう薬だけではやっていけないの。私も商売を助けるために、改装が必要なのよ」
 口角を上げ笑うと、凪の言葉を待たずに親方の元へと行こうとする。
「ちょっと待ってくださいっ!」
 凪は翠の前に立つ。その目は、うっすらと潤んでいる。
「麒麟堂を……守ってくださるのではないのですかっ!」
 翠は無表情で凪を見下ろす。
「守るわよ。でもそれが薬である必要はないでしょう?」
 貼り付けた笑顔を見せた。
「そ……そんな」
 その顔を見た凪の背中に、冷えが走る。
 帳場から手をつきながら、ゼイゼイと息を切らして源一郎が来る。
「翠。凪の嫁入り日にやることではない。帰ってもらいなさい」
 普段とは違う強い物言いに、翠は頷くしかなかった。
「父上っ。麒麟堂は兄様の形見ですっ! どうか──」
「凪。お前は嫁にいくのだ。もうここの心配をするな」
 穏やかに、そして厳格な声だった。 
 
 兄と薬草を干し、薬研を回し、薬箪笥へ薬を収めた日々。笑い声に満ちていた麒麟堂が音を立てて崩れていく。
 目の奥に痛いくらい熱がこもる。薬研を抱える腕は、とめられないほど震えていた。

 その時だった。
 再び麒麟堂の扉が開かれた。