翌日。
翠は鼻歌混じりでお茶を淹れていた。
食器棚の引き出しから源一郎に処方された薬包を取り出すと、中の白い粉をためらいなく屑籠へ落とした。代わりに棚の奥へ隠していた別の薬包を湯呑みに入れ、静かにかき混ぜた。
「あなた、お薬の時間ですわ」
客が帰り一息ついたところで、いつも通り翠がやってくる。
源一郎は筆を置き、薬を飲んだ。
「凪さんが嫁入りに前向きになって安心しましたわ」
「……そうだな」
肩を落としたまま、その声は小さい。
「凪さんったら相変わらず、奥座敷に籠ってますけど……それより、あなた。相談ですの」
「また、店の改装の話か」
源一郎はうんざりして顔を背ける。
「真剣に考えてくださいな。凪さんがいなくなれば、薬だけでは商売はできませんもの」
翠はそっと隣に腰を下ろし、父の肩に手を置いた。
「それに、俊朗が輸入した西洋雑貨をここで売るのも、悪くないでしょう?」
源一郎は眉を寄せて頭を振る。
「朔也がいなくなったばかりで、考えられん」
「でも」
「その話は、もうするな」
そう言って源一郎は再び筆をとり帳簿に集中した。
翠は眉を上げて口をつぐむ。
これ以上、反応がないとわかると、重い腰を上げた。
(まあ、いいわ。時間の問題ね)
くるりと身体を翻した顔には、うっすら笑みが浮かんでいる。
(この人は、どうせもうすぐ死ぬんだもの)
お盆を脇に抱えながら、肩につくカールを手櫛で整えた。
そして、麒麟堂の窓からある人物が見えると、翠の表情がぱあと明るくなる。
「俊朗さん! 帰って来たのね!」
麒麟堂の入り口に、翠の息子・俊朗が、舶来物のスーツを着て立っていた。
「輸入業のお仕事は順調なの?」
「ああ。忙しく港や病院を回っているよ」
翠は満足そうに、ゆっくりと頷いた。
「母さん、頼まれていた薬を持ってきた」
俊朗が紙袋を差し出す。
「ああ、いつもありがとうね。俊朗さん」
翠は受け取るより先に笑みを浮かべた。
「それより、先に朔也さんに手を合わせてあげて。凪さんも奥にいるわ」
麒麟堂の店内へと二人は入る。
「お義父様。ご無沙汰しております。この度は……ご愁傷様でした」
俊朗は源一郎に深くお辞儀をする。
「ああ……。ここもすっかり寂しくなってしまったよ」
「朔也さんにご焼香を上げてもよろしいでしょうか」
「ありがとう。朔也に声をかけておくれ」
源一郎はそう言うと、再び俯いてしまった。
俊朗は奥座敷で朔也の遺影の前で手を合わせた。
顔を上げると、くるりと凪に振り返る。
「残念だったね。でも、凪さんは縁談が決まったそうじゃないか」
凪はすぐに返事ができない。黙ったまま、作業中だった結菓子を一つずつ包む。
代わりに翠が答える。
「軍医だなんて、いいご縁だわ。一生、そんな作業で終わるところでしたもの」
翠の視線が、凪の手元の結菓子に冷たく刺さる。
その気配に凪の手が止まる。
「安藤将臣っていう軍医だろう?」
「あら、俊朗さんご存知なの?」
「これでも陸軍病院に薬を卸しているから、噂くらいは耳に入るさ」
凪は不安そうに顔を上げた。
「……噂、ですか?」
「ああ。顔に大きな傷がある男だよ」
俊朗は指で頬を横に切る真似をした。
凪は眉を寄せた。
「助からない兵は、容赦なく切り捨てる軍医、とも聞く」
俊朗はハッとして凪の顔を見る。
凪の顔色はすでに色味をなくしていた。
「あ、あくまでも噂だよっ。俺も仕事で忙しく飛び回っているけど、凪さんの幸せを願っているよっ!」
俊朗は取り繕うように早口になった。
俯く凪の顔を、翠は横目で見ていた。そして、言いくるめるように、凪へ言う。
「嫁ぎ先は選べないのよ。身分の高い方からの申し出に、断ることなんてできなでしょう?」
凪は結菓子を握りしめたまま、胸の奥だけが冷えていくのを感じていた。



