軍医と傷読みの花嫁 ~閉じこもり薬師は、傷もちの旦那様に愛される〜




 仮の葬儀が終わり、麒麟堂には静けさだけが残っていた。

 奥座敷には白布が掛けられ、その上には兄・朔也の遺影が置かれている。線香の煙が細く立ちのぼり、その隣には結菓子が供えられていた。
 兄が出征の日に名付けてくれた菓子。
 その横には、朔也の遺品である革の水筒が静かに置かれている。

 喪服姿の凪は遺影の前へ膝をついた。そっと結菓子を一つ手に取る。

「兄様……」

 その一言だけで喉が詰まった。
 兄が笑っていた顔が浮かぶ。

 『これは人と人を結ぶ菓子になる』

 あの日の優しい声が耳の奥によみがえる。
「兄様……結菓子は、人を結ぶお菓子じゃなかったの……?」
 ぎゅっと握ると、柔らかな菓子が少しだけ潰れた。
「会いたい……」
 涙がぽたりと結菓子へ落ちる。
「私は……一人になってしまった」

 嗚咽を堪えながら、凪は顔を伏せる。それでも遺影を見つめ、小さく首を振った。
「でもっ……麒麟堂だけは守らないとっ」
 兄と交わした約束だけは、失いたくなかった。
 そのときだった。
 部屋の障子が静かに開く。

「……凪さん」
 振り向くと、義母の翠が立っていた。黒い喪服姿のまま、片手に桐箱を持ち部屋へ入ってくる。その顔には悲しげな色が浮かんでいた。
「辛いわよね……」
 翠は凪の隣へ腰を下ろす。
「私も、胸が張り裂けそうよ」
 そう言って、そっと凪の肩へ手を置いた。
 その温もりに凪は思わず目を潤ませる。
「お義母様……」
「お母様の遺品よ。あなたも、きっと見たかったでしょう?」
 凪は目を丸くする。
「あなたのお父様は、なぜ凪さんの母親の思い出を隠すのかしらね?」
 凪の瞳が鈍く揺れる。
「母上の思い出を……隠す?」
 翠は頷き、桐箱をゆっくり開けた。
 中には色褪せた写真や櫛、小さな簪が丁寧に納められている。
 一番上には、一冊の古いアルバムがあった。
「ほら、お母様、とてもお綺麗でしょう」
 翠は優しく微笑みながら、アルバムを凪へ差し出した。
 凪は震える指で受け取る。
 初めて見る母の若い頃の姿だった。柔らかく微笑む女性が、父の隣で幸せそうに笑っている。
「母上……」
 思わず写真を指先でなぞる。
 その瞬間だった。
 胸の奥を何かが掴んだ。
 凪の指先から景色が流れ込んでくる。


 薄暗い部屋────
 布団の上で痩せ細った母が、涙を流していた。
 その傍らで、源一郎が母の手を握り、力なく項垂れている。
「……私が……凪を、生ませなければよかった……」
 父のかすれた声だった。
 母は何も言わず、ただ涙をこぼしていた。

 景色はそこで途切れた────


「っっ……!!」

 凪は弾かれたようにアルバムを取り落とした。畳の上へ鈍い音を立てて落ちる。

「あら、凪さん? どうなすって」
 翠が驚いたように声をかける。
 だが、その声は遠かった。

「うそ……」
 凪は胸が締め付けられて、息がうまく吸えない。身体の力が抜け、その場へ崩れ落ちそうだった。

 幼き頃、父と手を繋ごうと伸ばしたら、避けられた。
 傷読みの恐怖で抱きしめてもらいたくて駆け寄ると、目すら合わせてもらえなかった。
 あの態度の理由──それは。

「私は、やっぱり……」
 震える唇から声が漏れる。
「いらない子、だったのね……」
 頬を涙が伝う。

 肩を震わせながら俯く凪を、翠はゆっくりと覗き込んだ。そして凪の肩へ、そっと手を置いた。

「凪さん」
 その声は、どこまでも優しい。
「もう麒麟堂のことは私に任せて」
 凪は顔を上げることができない。
「安心して、お嫁に行きなさい」 
 凪は口元に手を当て、嗚咽を抑え込むしかできない。
 それを見た翠の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
 凪は涙で滲む畳だけを見つめるしかなかった。