馬車がゆっくりと速度を落とした。やがて高い塀に囲まれた屋敷の前で止まる。
重厚な黒塗りの門。門柱には『安藤』の表札が掲げられていた。
門の向こうには、よく手入れされた松が見え隠れし、その奥には大きな母屋の屋根が覗いている。
(ここが……安藤家)
凪は薬研を抱く腕に力を込めた。
御者である下男が扉を開くと、先に将臣が降りる。続いて凪が薬研を抱えながら降りようとした時、すっと将臣の手が差し出された。
「ゆっくりでいい」
だが、将臣は表情を変えない。
怜悧な瞳で見つめられると、凪は、頬の傷に恐怖を感じてしまう。
「……あ、ありがとうございます」
凪が馬車を降りた時だった。
「先生っ! お願いします、診てください!」
二歳くらいの男の子を抱いた母親が駆け寄ってきたのだ。
将臣はすぐに身体を向けた。
「どうなさいました?」
「昼頃から急にぐったりして……熱まで出てきてしまって」
腕に抱かれている男の子は目がトロンとしており、だるそうに眉を寄せている。
将臣は男の子の額に手を当て、首筋へ指を滑らせる。そっと口を開けさせ、中を確かめた。そして、服から出ている皮膚の状態を観察していた。
「朝の様子は?」
「元気でした。外で近所の子と遊んでいてっ!」
「最後に水を飲んだのは?」
「……朝です」
「お小水は?」
「そういえば……さっき、色の濃いのが少し出てました」
将臣は小さく頷いた。
「脱水ですね。今日は暑いですから、水を飲まずに遊び回ったせいでしょう」
母親は目を瞬かせる。
「病気、じゃないんですか?」
将臣は母親に笑みを見せる。
「しっかり水を飲ませてください。そうすれば、明日には熱は下がります」
その口調は、驚くほど穏やかだった。
母親が唇を震わせ、泣き始める。
「てっきり流行り病かとっ……!」
「大丈夫です」
将臣は穏やかに頷いた。
すると、母親の強張っていた肩がすっと下りた。
凪は、それを将臣のすぐ後ろの距離から見ていた。
(この方、噂とは……違う)



