――時は、わずかに遡る。
「バカだって言ってよ! 同情だって言ってよ!」
ハルネさんの慟哭が、僕――ルシアン・エスタランの胸に刺さった。
彼女のゼオファルド卿への想いは、聞けば聞くほどに真っ直ぐだった。
朗らかな彼女が好きだった。 健康的な彼女が好きだった。
偽りの夫婦だと知って、一縷の望みを賭けていた。
手に入れたい、振り向かせてみたいと、そう思った。
それほどに、彼女は魅力的だった。
……だが、それももう終わりだ。
最初から、彼女の心には、彼しかいなかった。
踵を返す。
まだまだホールは混乱の最中。
自分の役割を果たさねば。
一足先に入り口へと戻った、メイド服に身を包んだ金髪のそばかすの少女の元へ。
彼女は、ハルネさんの親友と言っていた。
自分に対しても臆さずにものを言う彼女の、真っ直ぐな気性が印象的だった。
あの少女ならば、今の自分を笑い飛ばしてくれるかな?
ふふっ、と思わず笑い声が漏れた。
くだらない事を考えてしまった。
軽薄な自分を自嘲しながら、足を動かし始めようと思った、その時。
――肩を、グイィと掴まれた。
「諦めるのですか」
ゾッとするほど、妖艶な声。
「なっ……だ、誰だ!」
「アナタはハルネさんが好きなのでしょう? 良いのですか? このままヴァルグレイ様に盗られても……」
掴まれた肩越しに振り向くと、吸い込まれそうなルビー色の瞳が目に飛び込んだ。
「ア、アルテノット夫人っ……!」
「彼女を、諦められますの? アナタはそれで満足ですか?」
「だ、だが、僕は……」
「わたくしには分かりますわ。 アナタはまだ、燻ぶっている」
淡い金色の髪から滴り漂う、濃厚な香り。
嗅ぐほどに、彼女の言葉が染みわたっていく。
「彼女の言葉を聞いたのでしょう? ハルネさんは迷っています。 アナタの言葉で、彼女を困らせるのです」
「えっ……」
「彼女に迷いを与えなさい。 ルシアン様の恋心を、想いを……ハルネさんに、ぶちまけるのです」
「彼女に、想いを……」
「さあ、お行きなさい!」
アルテノット夫人に、ドンっと背中を強く押された。
そうだ……今なら、間に合うんだ。
敗れたとしても、彼女にもう一度、本気で想いを告げるんだ!
自分でも驚くほど機敏に、そして軽くなった足。
階段で語り合う彼らの元へ、気がつけば全力で走っていた。
―――――――
ハルネを攫って走るルシアンを見て、リセリーナは歓喜の声を上げた。
「ステキですわ! 想いを伝えるのは大切ですものね! フッフフフ……アッハッハッハっ!!」
「貴様の仕業かリセリーナァッ!!!」
叩きつけるような怒声が、階段の空気を震わせた。
凄まじい殺気がリセリーナに向かうが、彼女は笑うばかりで、まったく怯むことはなかった。
「ヴァルさまぁ!!」
「くっ……ハルネさん! 僕の想いを……聞いてくれ!」
ハルネを抱えたルシアンは、二階奥へと走り去る。
ルシアンの足取りは、すでに覚束なかった。
だが、それでも勢いのまま、階上で膝を着くアルテノット男爵の横を駆け抜けていった。
リセリーナへ向けられていたヴァルグレイの殺気が、今度はルシアンへと叩きつけられた。
背中越し、ヴァルグレイと目が合ったハルネは、必死に叫び続ける。
「イヤだ! ヤだよ! あたしが……あたしが好きなのはヴァルさまだけなの! 離して! 離せ! 下ろしてよぅ!!」
ルシアンの背中を必死に叩くハルネだったが、ルシアンは決して速度を緩めない。
「イヤだっ! 助けてっ! ヴァルさまぁ!!」
助けを呼ぶハルネの声に、ヴァルグレイの形相は鬼のそれへと変わった。
「ルシアン貴様ァーーーーーッッ!!!!」
かつてないほどのヴァルグレイの怒号が、ホール中に響き渡った。
「ハルネを……貴様なんぞにぃ……絶対にっ渡すものかっっ!!」
噴き上がる殺気は、もはや黒い影のように纏わりつき、彼の輪郭さえ揺らいで見えた。
階段を駆け上がろうと、足を踏み出すが、それは叶わなかった。
「させませんわ!」
リセリーナがヴァルグレイの足にしがみ付く。
「うおおああぁっ!! 離せ貴様ァッ!!!」
「絶対に離しませんわ」
淑女にあるまじき力でしがみつくリセリーナを、足ごと振り回す。
リセリーナの執念は、幾秒かの時間を稼いだが、ヴァルグレイの怒りがそれを上回った。
「あうっ!」
「リ、リセリーナっ!」
いつの間にか階上から降りてきていたアルテノット男爵。
リセリーナを庇うように、身を挺す。
「邪魔だっ!!」
足元に絡みつく二人を、まとめて階下へと蹴り落とす。
男爵が妻を抱え込んだまま、二つの身体は転がっていく。
落ちていく彼らを、ヴァルグレイは一顧だにしなかった。
―――――――
一方、ハルネとルシアン。
ハルネを肩に担いで逃げながら、ルシアンはハルネに問い続けていた。
「ハァハァ……! ハ、ハルネさん、僕は君が好きなんだ! ぼ、僕にもチャンスをくれ!」
「イヤだ! 離してよ! 下ろして!」
聞く耳を持たず、ひたすらに暴れるハルネ。
「な、なぜだ!? 僕の方が年は近い! 僕なら、キミを堂々と侯爵夫人として迎えられる!」
「そんなものいらない!! イヤだ! あたしは、ヴァルさまだけなのっ!!」
「ハルネさん……」
「それ以外はいらない! 何にもいらない!!」
「……っ!」
暴れるハルネに耐えきれず、もつれるように倒れ込む二人。
片膝を着いたルシアンの頭に、ふと疑問が浮かんだ。
(なぜ……僕はこんなに必死に? 彼女に気持ちを伝えた所で……)
ルシアンの顔から、急速に血の気が引いていく。
「ハァ……ハァ…………僕は、何を……?」
息が整うにつれ、罪悪感が湧いてくる。
ハルネの激しい拒絶が、今更ながらに遅れて胸へと染み渡った。
「ハルネさん……」
「う~~っ!」
ハルネも、ふぅふぅと息を整えながら、ルシアンに対して唸って威嚇する。
その小動物のような愛嬌に、ルシアンの表情が崩れた。
「……やっぱり、敵いませんね。 最初から勝負は決まっていたのに……」
自嘲の笑みを浮かべ、ルシアンはその場に立ち上がる。
そのまま、威嚇しているハルネに手を差し出す。
「そんな目で睨まないで。 ……すみませんでした」
差し出された手をじっと睨み、ハルネは自分の力で立ち上がった。
――ゾッ
恐ろしい殺気を感じたルシアンが、後ろを振り返る。
そこには、追いついたヴァルグレイの姿があった。
纏う殺気は、さきほどと変わらず、周囲の空気を歪ませるほどだった。
まずは謝罪をしなければ。
ルシアンはその考えに囚われ、不用意に彼に近づいた。
「……あぁ、ゼオファルド卿。 申しわぶはっ……!!」
ルシアンがその言葉を言い終える事は無かった。
何の言い分も聞くことなく、ヴァルグレイの拳が彼の頬へ突き刺さっていた。
「ヴァルさまぁっ!!」
「……ハルネっ!」
吹き飛ばされたルシアンを、二人が省みることはなかった。
ヴァルグレイは、迎えるようにハルネを抱き寄せる。
ハルネもまた、その胸へと縋りつく。
しかし、二人が抱き合っていたのは、わずかな間だけだった。
ハルネは突然、激しくかぶりを振り、イヤイヤと暴れて離れようとする。
「イヤだ! 離して!」
「なっ! ハルネ!」
腕を突っ張り、必死に離れようとするハルネに、ヴァルグレイは混乱する。
「聞きたくない! 怖い! やめて! 返事なんか……聞きたくないんだよぅ!!」


