――ヴァルグレイとギルトハルトの決着がつく、少し前。
二階の回廊には、奇妙な静けさが戻っていた。
荒い呼吸を残し、不安げに視線を泳がせるハルネ。
息一つ乱れておらず、優雅な佇まいを崩さないリセリーナ。
さきほどまで、杖と細剣をぶつけ合っていた二人は、後ろで震えるアルテノット男爵には目もくれていない。
緊張感を残しながらも、互いの様子を窺い合っていた。
息を整え、ハルネは蜂蜜色に鈍く輝く瞳をリセリーナへと向けた。
「なんで……なんで、こんなことしたの?」
あたしがずっと思っていた疑問が、ついに声に出た。
さきほどから、手すり越しに階下を見ていたリセリーナさんが、こちらの方へと興味を戻す。
「なんで、とは」
あたしと戦っていた時には楽しそうに笑っていたリセリーナさん。
今は能面のような無表情に戻っていた。
「いや……だって、おおごとじゃん! こんな、色んな人を巻き込むような……」
「それで」
彼女は淡々とした口調で答える。
「それが、何だというのです」
まるで、あたしの方がおかしいみたいに、そう言った。
――彼女の感情色は、凪。 無、だ。
背中に怖気が走った。
「何って……だって、どうして……どうしてなのさ!?」
「ああ、理由を知りたい、と。 そういう事ですか」
リセリーナさんが、ようやく合点がいったように小さく頷いた。
「侯爵邸で、申し上げませんでしたか」
エスタラン侯爵さまのお屋敷で?
なんか、言ってたっけ?
「わたくし……」
空いた手を、頬に当てる。
「旦那様の、困った顔が好きなんですの」
「……」
「……」
「……え? ……それだけ?」
「それだけですわ」
続きを待っても、リセリーナさんはそれ以上何も言わなかった。
本当に、それだけのようだった。
――感情色は、いつの間にか深いルビーレッドへと変わっていた。
その紅い瞳と同じ、強烈な愛情色。
あの時と同じ、肌を焼くような感情の熱まで伝わってくる。
「リセリーナッ!!」
「ひくっ!」
突然の大声に、びくっと肩が跳ねた。
それは、アルテノット男爵の、裏返った叫び声だった。
「ほ、本当に、そんな事で?? そ、そんな理由で、ここまでやらせたのか!?」
「あら……ステキなお顔ですわ、旦那様」
男爵さまの絶望に満ちた顔を、リセリーナさんはうっとりと見つめていた。
あたしの気持ちも、男爵さまと全く同じだった。
「こ、こんな、大変な事を、何か、キミなりの考えがあるんだと思って……だ、だって、この後どうするんだ!?」
「そこには興味はありませんの」
「き、興味って……そ、そんな問題では……」
「あぁ……すごく、ステキ。 わたくし、アナタのその顔が、とっても見たかったんですのよ」
恍惚とした眼差しに、情熱を含んだ声。
一方、その落差に追い詰められるように、男爵さまの顔色はみるみる蒼褪めていった。
男爵さまがあまりに可哀想に見えたせいか、逆にあたしは冷静になっていた。
彼女にもう一つ、聞いてみたいことがあった。
「どうして……男爵さまなの?」
そう。
ずっと気になっていた事だった。
「なんで男爵さまなの? どこが好きなの? もっと素敵な人がいるって思わないの? なんで……男爵さまを、選んだの?」
気がつくと、次から次へと溢れるように質問していた。
リセリーナさんの視線がこちらへと向く。
「なんで……それはもちろん、旦那様だからです」
「だからさ!」
「だから、です」
通じない。
この人とは全く通じ合えない。
「男爵さまとは、年も離れてるんじゃないの?」
「関係ありません」
「男爵さまは、世間でいう素敵な人とは違うじゃん!」
「関係ありません」
「もっと良い人が、いるかもしれないじゃん!」
「それこそ関係ありませんね」
彼女に問うているのか、果たして自分に問うているのか。
あたしは、段々区別がつかなくなっていった。
失礼なことを言っている。
相手がお貴族さまだってことも分かっている。
それでも、口が止まらなかった。
「こんな事しでかしてさ、男爵さまに嫌われるって思わないの?」
「それは」
リセリーナさんが答える前に、あたしの口は勝手に動く。
「嫌われたらどうするの? 好きになっちゃって……結果、選ばれなかったら……どうするの!?」
あたしは、なんでこんなに必死なんだろう?
「ねぇ……怖く、ないの?」
「ハルネさん」
あたしは、いつの間にかステッキを強く握りしめていた。
……痛いくらいに。
「わたくしは、これも、伝えたはずです」
彼女の、ただでさえ濃い感情色が、よりいっそう色味を増した。
「わたくしが愛しているのなら、そこに相手の意は関係ないのです」
感情色に反して、なぜだか彼女の表情は穏やかに見えた。
「だって、好きなのですもの。 それ以外は、考えた事もありません」
全然、わかんないよ……
彼女の言葉に、あたしの気力は萎んでいった。
「ねぇ、旦那様。 ……あら」
困惑と絶望に染まっていた男爵さまの感情色。
それが今は……
――揺るぎない決意の、トワイライトブラックへと変わっていた。
温和で弱気な顔立ちの男爵さま。
その表情が、今は鬼気迫るものへと変貌し、リセリーナさんをキッと睨みつけていた。
「リ、リセリーナ。 いくらキミが愛していると言おうが、や、やっぱり僕には、信じられないんだよ」
「それで、どうなさるおつもりですか。 旦那様」
ギギギィ、とレイピアの切っ先が床を擦った。
「ひっ……で、でも、嘘とも思えない。 いくら求められても、愛を囁かれても、ぼ、僕にはキミが、理解できないんだ! キミは本当に……ぼ、僕を愛しているのか!?」
「ええ、その困惑されたお顔もステキです。 愛していますわ、旦那様」
「あああぁぁっ……!」
あくまで穏やかなリセリーナさんとは対照的に、男爵さまは悲痛な声を響かせた。
そう、さっきから……ううん。
出会った時から、ずっと、ずぅっと、この夫婦は……
感情が噛み合ったことがない。
男爵さまが、震える手で顔を覆う。
「わ、分からない。 ぼ、僕は本当に、分からないんだ。 キミの愛し方が……理解できない」
絞り出すような声。
「フフ」
リセリーナさんは微笑むだけだった。
「ぼ、僕はっ!」
男爵さまが顔を上げる。
「キミの言葉を……愛しているという、その本心を、信じたいんだ……っ!」
男爵さまは、懐から小さなガラス瓶を取り出した。
栓を抜き、片手で印を組みながら、中身を宙へと振りまく。
液体は床へと落ちず、空気中の水分を取り込みながら、みるみる大きな水の塊へと膨れ上がる。
「こ、この、ノクスミア”γ”で……見せてくれリセリーナ! その隠された感情をっ!!」
彼の目には、もうリセリーナさんしか映っていなかった。
男爵さまが手を振り下ろすと、水の塊がリセリーナさんの上空に浮かび……
次の瞬間、それは激しく破裂した。
大量の水が、リセリーナさんと、正面にいたあたしまで呑み込んだ。
「うっ……」
「つめたっ! なにこれ!?」
「増幅だけじゃない! ”γ”は深層をも引きずり出す!」
深層? それって……
「さぁ、リセリーナ! キ、キミの愛を、見せてくれ!!」
うっ……気持ち悪い。
何これ……?
ホールで味わったノクスミアとはまるで違う。
まるで……心の蓋が、外れるような……っ!
胸の奥へと押し込めていたものが、ぞわぞわと勝手に這い出してくる。
生理的な嫌悪感に、吐き気すら催した。
たまらず、あたしはしゃがみこむ。
湧き出してくる何かを押さえ込むように、身体を丸めた。
朦朧とした意識で、顔を上げる。
視界の端に、リセリーナさんが全力で走っているのが見えた。
男爵さまの方へ。
……そう思った。
でもそれは違っていた。


