【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



――ヴァルグレイとギルトハルトの決着がつく、少し前。

 二階の回廊には、奇妙な静けさが戻っていた。

 荒い呼吸を残し、不安げに視線を泳がせるハルネ。
 息一つ乱れておらず、優雅な佇まいを崩さないリセリーナ。

 さきほどまで、杖と細剣をぶつけ合っていた二人は、後ろで震えるアルテノット男爵には目もくれていない。
 緊張感を残しながらも、互いの様子を窺い合っていた。

 息を整え、ハルネは蜂蜜色に鈍く輝く瞳をリセリーナへと向けた。


「なんで……なんで、こんなことしたの?」

 あたしがずっと思っていた疑問が、ついに声に出た。

 さきほどから、手すり越しに階下を見ていたリセリーナさんが、こちらの方へと興味を戻す。

「なんで、とは」

 あたしと戦っていた時には楽しそうに笑っていたリセリーナさん。
 今は能面のような無表情に戻っていた。

「いや……だって、おおごとじゃん! こんな、色んな人を巻き込むような……」
「それで」

 彼女は淡々とした口調で答える。

「それが、何だというのです」

 まるで、あたしの方がおかしいみたいに、そう言った。

――彼女の感情色は、凪。 無、だ。

 背中に怖気が走った。

「何って……だって、どうして……どうしてなのさ!?」
「ああ、理由を知りたい、と。 そういう事ですか」

 リセリーナさんが、ようやく合点がいったように小さく頷いた。

「侯爵邸で、申し上げませんでしたか」

 エスタラン侯爵さまのお屋敷で?
 なんか、言ってたっけ?

「わたくし……」

 空いた手を、頬に当てる。


「旦那様の、困った顔が好きなんですの」


「……」
「……」
「……え? ……それだけ?」
「それだけですわ」

 続きを待っても、リセリーナさんはそれ以上何も言わなかった。
 本当に、それだけのようだった。

――感情色は、いつの間にか深いルビーレッドへと変わっていた。

 その紅い瞳と同じ、強烈な愛情色。
 あの時と同じ、肌を焼くような感情の熱まで伝わってくる。

「リセリーナッ!!」
「ひくっ!」

 突然の大声に、びくっと肩が跳ねた。
 それは、アルテノット男爵の、裏返った叫び声だった。

「ほ、本当に、そんな事で?? そ、そんな理由で、ここまでやらせたのか!?」
「あら……ステキなお顔ですわ、旦那様」

 男爵さまの絶望に満ちた顔を、リセリーナさんはうっとりと見つめていた。
 あたしの気持ちも、男爵さまと全く同じだった。

「こ、こんな、大変な事を、何か、キミなりの考えがあるんだと思って……だ、だって、この後どうするんだ!?」
「そこには興味はありませんの」
「き、興味って……そ、そんな問題では……」
「あぁ……すごく、ステキ。 わたくし、アナタのその顔が、とっても見たかったんですのよ」

 恍惚とした眼差しに、情熱を含んだ声。
 一方、その落差に追い詰められるように、男爵さまの顔色はみるみる蒼褪めていった。

 男爵さまがあまりに可哀想に見えたせいか、逆にあたしは冷静になっていた。

 彼女にもう一つ、聞いてみたいことがあった。

「どうして……男爵さまなの?」

 そう。
 ずっと気になっていた事だった。

「なんで男爵さまなの? どこが好きなの? もっと素敵な人がいるって思わないの? なんで……男爵さまを、選んだの?」

 気がつくと、次から次へと溢れるように質問していた。
 リセリーナさんの視線がこちらへと向く。

「なんで……それはもちろん、旦那様だからです」
「だからさ!」
「だから、です」

 通じない。
 この人とは全く通じ合えない。

「男爵さまとは、年も離れてるんじゃないの?」
「関係ありません」

「男爵さまは、世間でいう素敵な人とは違うじゃん!」
「関係ありません」

「もっと良い人が、いるかもしれないじゃん!」
「それこそ関係ありませんね」

 彼女に問うているのか、果たして自分に問うているのか。
 あたしは、段々区別がつかなくなっていった。

 失礼なことを言っている。
 相手がお貴族さまだってことも分かっている。
 それでも、口が止まらなかった。

「こんな事しでかしてさ、男爵さまに嫌われるって思わないの?」
「それは」

 リセリーナさんが答える前に、あたしの口は勝手に動く。

「嫌われたらどうするの? 好きになっちゃって……結果、選ばれなかったら……どうするの!?」

 あたしは、なんでこんなに必死なんだろう?

「ねぇ……怖く、ないの?」
「ハルネさん」

 あたしは、いつの間にかステッキを強く握りしめていた。
 ……痛いくらいに。

「わたくしは、これも、伝えたはずです」

 彼女の、ただでさえ濃い感情色が、よりいっそう色味を増した。

「わたくしが愛しているのなら、そこに相手の意は関係ないのです」

 感情色に反して、なぜだか彼女の表情は穏やかに見えた。

「だって、好きなのですもの。 それ以外は、考えた事もありません」

 全然、わかんないよ……
 彼女の言葉に、あたしの気力は萎んでいった。

「ねぇ、旦那様。 ……あら」

 困惑と絶望に染まっていた男爵さまの感情色。
 それが今は……

――揺るぎない決意の、トワイライトブラックへと変わっていた。

 温和で弱気な顔立ちの男爵さま。
 その表情が、今は鬼気迫るものへと変貌し、リセリーナさんをキッと睨みつけていた。

「リ、リセリーナ。 いくらキミが愛していると言おうが、や、やっぱり僕には、信じられないんだよ」
「それで、どうなさるおつもりですか。 旦那様」

 ギギギィ、とレイピアの切っ先が床を擦った。

「ひっ……で、でも、嘘とも思えない。 いくら求められても、愛を囁かれても、ぼ、僕にはキミが、理解できないんだ! キミは本当に……ぼ、僕を愛しているのか!?」
「ええ、その困惑されたお顔もステキです。 愛していますわ、旦那様」
「あああぁぁっ……!」

 あくまで穏やかなリセリーナさんとは対照的に、男爵さまは悲痛な声を響かせた。

 そう、さっきから……ううん。

 出会った時から、ずっと、ずぅっと、この夫婦は……
 感情が噛み合ったことがない。

 男爵さまが、震える手で顔を覆う。

「わ、分からない。 ぼ、僕は本当に、分からないんだ。 キミの愛し方が……理解できない」

 絞り出すような声。

「フフ」

 リセリーナさんは微笑むだけだった。

「ぼ、僕はっ!」

 男爵さまが顔を上げる。

「キミの言葉を……愛しているという、その本心を、信じたいんだ……っ!」

 男爵さまは、懐から小さなガラス瓶を取り出した。

 栓を抜き、片手で印を組みながら、中身を宙へと振りまく。
 液体は床へと落ちず、空気中の水分を取り込みながら、みるみる大きな水の塊へと膨れ上がる。

「こ、この、ノクスミア”γ”で……見せてくれリセリーナ! その隠された感情をっ!!」

 彼の目には、もうリセリーナさんしか映っていなかった。
 男爵さまが手を振り下ろすと、水の塊がリセリーナさんの上空に浮かび……

 次の瞬間、それは激しく破裂した。

 大量の水が、リセリーナさんと、正面にいたあたしまで呑み込んだ。

「うっ……」
「つめたっ! なにこれ!?」
「増幅だけじゃない! ”γ”は深層をも引きずり出す!」

 深層? それって……


「さぁ、リセリーナ! キ、キミの愛を、見せてくれ!!」


 うっ……気持ち悪い。
 何これ……?

 ホールで味わったノクスミアとはまるで違う。
 まるで……心の蓋が、外れるような……っ!

 胸の奥へと押し込めていたものが、ぞわぞわと勝手に這い出してくる。
 生理的な嫌悪感に、吐き気すら催した。

 たまらず、あたしはしゃがみこむ。
 湧き出してくる何かを押さえ込むように、身体を丸めた。

 朦朧とした意識で、顔を上げる。

 視界の端に、リセリーナさんが全力で走っているのが見えた。

 男爵さまの方へ。

 ……そう思った。


 でもそれは違っていた。