正直に言うと、賭けだったのさ。
ノクセラ草の苦みを一番中和出来たのは、カモミールだった。
美味しい配合比率を見つけて、名前も大げさにしちゃえってことで出来たのが……
「トロールもすやすや眠る黄金ティー」――通称、トロ眠ティー。
特殊な調合で出来るとはいえ、ノクスミアだって主原料はノクセラ草に違いない。
だったらカモミールで中和出来るんじゃ?
そう考えて昨晩、シャリエナとありったけの材料を使って作り上げたのが、この……
新香房武器――カモミールカーム。
薄紫色の霧に包まれて、不安と恐怖が膨れ上がった瞬間、あたしは自分へ小瓶を振りかけた。
濃厚なカモミールの香りとともに、不自然な感情の波が弱まっていくのを感じた。
やっぱり効いた!
完全じゃないけど、十分に効果がある。
あたしはすぐに、近くにいるはずのヴァルさまを探した。
正直あたしにはこの状況、どうしたらいいのかまるで分からない。
でも、ヴァルさまならなんとかしてくれる!
案の定、胸を掻き毟り、耐えるように背中を丸めているヴァルさまに、カモミールカームを振りかける。
効いて! お願い!
「……ハルネ」
「良かった! ヴァルさま動ける!?」
ヴァルさまを背に、守るように警戒していたあたしのすぐ後ろ。
立ち上がってくれたのが背中越しに分かった。
「……すまない。 本当に助かった」
「うん、良かった!」
「……これは、カモミールか? ノクスミアを中和出来るのか!?」
「みたいだね! ノクセラ草を研究してたかいがあったよ!」
「……キミという人は本当に……」
「そういうのは後! で、どうするのさ!? って……わっ!」
「ハルネさぁぁんっ!!」
薄紫色の霧から飛び出してきたのは、ルシアンさまだった。
エモパレで感情色の輪郭は見えていたから、なんとか躱す事が出来た。
そして、すれ違いざまにカモミールカームをぶつける。
「えいっ!」
「くっ、うわ! なんだこれは!」
薬液はちょうど顔に掛かった。
ルシアンさまは顔を伏せ、その場にうずくまった。
「落ち着いてルシアンさま!」
「……ハルネっ! カモミールはまだあるか!?」
「うん! 十分じゃないけどまだあるよ!」
「ギルトハルトだっ! 近くにいるはずだ! ヤツを抑えねばマズイ!」
「そこにいたかゼオファルドォォッ!!」
「くっ……!!」
薄紫色の霧から飛び出してきたギルトハルトさんの拳を、ヴァルさまが両腕で受け止める。
鈍い音が響き渡り、受け止めたヴァルさまの足元で、ミシリと床が鳴った。
な、なんて力なのさ……! でもその隙に……えいやっ!
――バシャっ!
「ぬわっ! なにがっ……!」
横からだったせいか、半分ほどしか掛からなかった。
でも、カームを浴びたギルトハルトさんの勢いは止まった。
「……ぬぅ……我は……」
「良かった、効いた!」
「下がれハルネ!」
「えっ?」
「ゼオ……ファルドォッ!!」
一瞬だけ正気に戻ったかと思った次の瞬間、再び巨大な拳が唸りを上げる。
ヴァルさまはそれを紙一重で躱し、ギルトハルトさんの腕を絡め取る。
「まだだ! ハルネ! 追撃をっ!」
「あいさっ!」
二本目のカモミールカーム。
拘束されたギルトハルトさんの顔へ、しっかりと浴びせた。
「ぐっ……ぬぅ……」
「……目が覚めたか。 ギルトハルト」
「うぅ……?」
今度こそ、その巨体から力が抜けた。
ギルトハルトさんも、ルシアンさまも、なんとか正気を取り戻せたみたいだ。
やっぱりカモミールカームはノクスミアに有効だ。 でも……
いつの間にか演奏が止まっていた。
薄紫色の霧の向こうでは、悲鳴と怒号が飛び交っている。
誰かが誰かを突き飛ばす音。
食器が割れる音。
会場は、確実に感情の濁流に飲まれ始めていた。
「ハルネさん! ゼオファルド卿! これは一体、何が起こっているんですか!?」
「……リセリーナだ。 全てヤツの仕組んだ事だ」
「ぬぅ、アルテノット夫人が……?」
「そう! 簡単に言うよ! これは感情を増幅させるノクスミア! リセリーナさんの目的は分からないけど、会場の大混乱を狙ってるのは確かだよ!」
そう。
こんなに派手にやらかして。
何がしたいのか、全然まったく分からない。
「……私とハルネはリセリーナを止めに行く! ルシアン殿とギルトハルトは招待客の避難と誘導を頼む!」
「ああ、了解したよ!」
「…………」
「……どうしたギルトハルト?」
快諾したルシアンさまと対照的に、何かを考えこむギルトハルトさん。
「ゼオファルド。 アルテノット夫人の方は、我に任せよ」
「……何を言い出す?」
「お前はこの事態に備えていたのだろう? 調査局との連携や部下の采配もあるはずだ。 ここは我に任せて事態の収束を図れ」
「……何? 貴様、どういうつもりだ。 ……合理的ではある。 だが、信用できん」
ヴァルさまの声には疑いが残っていた。
でも、今は問い詰めてる時間がもったいない。
「ヴァルさま! 迷ってる時間ないよ! もうギルトハルトさんに任せちゃおう!」
今は一刻を争う事態だ。
行動だ! 一秒でも早く……とにかく動かなくちゃ!
「……ハルネ…………っ分かった。 貴様に任せるぞギルトハルト」
「ああ、大船に乗ったつもりで我に任せるがよい」
「……予定変更だ。 私とハルネは応援の要請のため出口へ向かう。 ルシアン殿は客の誘導を頼む!」
「ああ、わかった!」
「ルシアンさま! これを!」
あたしは数本の小瓶をルシアンさまに投げ渡す。
「おっと……! これは?」
「ノクスミアを中和する薬です! 持っていって!」
「こんなもの、どこから取り出したんだい?」
「それは……乙女の秘密ですよ!」
このふわふわドレスのポケットから、なんてのは言えない。
「いくぞハルネ!」
「うん! ヴァルさま!」
―――――――
階下に広がる阿鼻叫喚。
時折、紫がかった霧の中から、悲鳴や怒号、争う音が聞こえてくる。
……大変な事をしてしまった。
ノクスミアを散布する魔導方陣を起動したのは、間違いなく僕自身だ。
こうなると分かっていて、リセリーナに逆らえず、言われるがままに罠を仕込み、起動した。
一体どうするつもりなんだ、リセリーナは。
起動の魔石を持つ手が震え、取り落とした魔石が床でカツンと音を鳴らした。
慌てて拾い上げ、そのまま妻を……リセリーナを見上げる。
先ほどまで階下の混乱を楽しそうに眺めていた彼女が、今度は僕を見ていた。
頬を紅潮させた、満面の笑み。
リセリーナは何も言わない。
でも、「お楽しみはまだまだこれからですわ」と言っているような気がした。
その笑みは、初めて彼女と出会った日のものと、何一つ変わっていなかった。
―――――――
「キャアアァァ~~っ!!」
「イヤァァア~~っ!」
恐怖と不安が増幅され、完全に恐慌状態になっている令嬢たちに、カモミールカームを振りかける。
「えいっ!」
「つめたっ!」
「うっ……なんですの!?」
これで一旦は安心のはずだ。
パニックで動き回っちゃうと危ない。
「出口はあっちだね!」
「ハルネ、なぜ方向が分かる!? この、まるで視界の利かない霧の中で……」
「感情色なら人の輪郭は見えるの! ヴァルさまだって出来るハズ!」
「……そうかっ! 盲点だった……!」
いつぞやのマチョキモ相手にもフォーメーションDで有効だった。
エモパレは無視界でも感情の居場所だけは分かる。
裏技的な使い方……いわばエモパレハックってヤツだ。
あたしの言葉を受けたヴァルさまは、即座に左眼の眼帯を投げ捨てた。
――視界の端で、何かの色が滲んだ気がした。
でも、あたしの目はそこを素通りして、霧の先の出口を探していた。
今はとにかく……動くんだ!
「うぐぁっ! 何をする!」
「うるさい! 前からお前が気に食わなかったんだよ!」
今度は殴り合いのケンカをしている二人の男性。
軍服を着ているから、軍の人達だ。
「……ふっ!」
ヴァルさまが二人のお腹に肘を入れて即座に制圧する。
「ぐぅ!」
「……がっ……!」
さすがヴァルさま! 手際が良い!
二人の男性には気の毒だけど……
「こんな、ケンカなんかしている場合じゃないのに……」
「……ノクスミアに感情を飲まれかけた時、加害の感情も高まった。 アルテノット男爵は、元来の研究内容も完成させたのやもしれん」
そうか、以前ヴァルさまから聞いた。
ノクセリウムっていうのは元々、兵士の戦意高揚のための薬として研究されたものだって。
「……軍関係者を多く呼んだのはこのためか。 だが、今は構う事は無い。 急ぐぞ!」
「うん!」
感情色の人波から出口の方向を割り出し、ヴァルさまと共に駆け抜ける。
なんだか肌がチクチクする。
会場中の感情温度が、歪な冷たさで肌に突き刺さるようだった。
道中、泣き叫ぶ令嬢へ、母親らしき女性が怒鳴りつけているのが見えた。
「あなたのせいよ! いつも私に恥をかかせて!」
「お母さま、どうして……!」
怯え、怒り、妬み、悲しみ。
普段なら胸の奥に隠しているはずの感情が、全部剥き出しになっていた。
う~~、嫌だ……すごく、嫌だ!
手持ちの薬は限られている。
あたしは、彼女たちを無視して出口へと急ぐ。
少しの間、耳を塞いだ。
「……そこだ! あそこが出口だ!」
「あっ! あれって……っ!」
閉ざされた出口の大扉の前。
恐慌状態に陥った人々が押し合い、怒鳴り合い、悲鳴が薄紫色の霧へと溶けていく。
その混乱の中心で……
「離しなさいレル坊っ!! 二人の安否が先だって言ってるでしょっ!」
「うるせぇっ!! 命令されてるのは出口の確保だろうが!」
リオーネさんとレルガさんは――
まるで敵同士みたいに、お互いの胸ぐらを掴み合っていた。


