【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



 正直に言うと、賭けだったのさ。

 ノクセラ草の苦みを一番中和出来たのは、カモミールだった。
 美味しい配合比率を見つけて、名前も大げさにしちゃえってことで出来たのが……

 「トロールもすやすや眠る黄金ティー」――通称、トロ眠ティー。

 特殊な調合で出来るとはいえ、ノクスミアだって主原料はノクセラ草に違いない。
 だったらカモミールで中和出来るんじゃ?

 そう考えて昨晩、シャリエナとありったけの材料を使って作り上げたのが、この……

 新香房武器――カモミールカーム。

 薄紫色の霧に包まれて、不安と恐怖が膨れ上がった瞬間、あたしは自分へ小瓶を振りかけた。
 濃厚なカモミールの香りとともに、不自然な感情の波が弱まっていくのを感じた。

 やっぱり効いた!
 完全じゃないけど、十分に効果がある。

 あたしはすぐに、近くにいるはずのヴァルさまを探した。
 正直あたしにはこの状況、どうしたらいいのかまるで分からない。
 でも、ヴァルさまならなんとかしてくれる!

 案の定、胸を掻き毟り、耐えるように背中を丸めているヴァルさまに、カモミールカームを振りかける。

 効いて! お願い!

「……ハルネ」
「良かった! ヴァルさま動ける!?」

 ヴァルさまを背に、守るように警戒していたあたしのすぐ後ろ。
 立ち上がってくれたのが背中越しに分かった。

「……すまない。 本当に助かった」
「うん、良かった!」
「……これは、カモミールか? ノクスミアを中和出来るのか!?」
「みたいだね! ノクセラ草を研究してたかいがあったよ!」
「……キミという人は本当に……」
「そういうのは後! で、どうするのさ!? って……わっ!」

「ハルネさぁぁんっ!!」

 薄紫色の霧から飛び出してきたのは、ルシアンさまだった。

 エモパレで感情色の輪郭は見えていたから、なんとか躱す事が出来た。
 そして、すれ違いざまにカモミールカームをぶつける。

「えいっ!」
「くっ、うわ! なんだこれは!」

 薬液はちょうど顔に掛かった。
 ルシアンさまは顔を伏せ、その場にうずくまった。

「落ち着いてルシアンさま!」
「……ハルネっ! カモミールはまだあるか!?」
「うん! 十分じゃないけどまだあるよ!」
「ギルトハルトだっ! 近くにいるはずだ! ヤツを抑えねばマズイ!」
「そこにいたかゼオファルドォォッ!!」
「くっ……!!」

 薄紫色の霧から飛び出してきたギルトハルトさんの拳を、ヴァルさまが両腕で受け止める。
 鈍い音が響き渡り、受け止めたヴァルさまの足元で、ミシリと床が鳴った。

 な、なんて力なのさ……! でもその隙に……えいやっ!

――バシャっ!

「ぬわっ! なにがっ……!」

 横からだったせいか、半分ほどしか掛からなかった。
 でも、カームを浴びたギルトハルトさんの勢いは止まった。

「……ぬぅ……我は……」
「良かった、効いた!」
「下がれハルネ!」
「えっ?」
「ゼオ……ファルドォッ!!」

 一瞬だけ正気に戻ったかと思った次の瞬間、再び巨大な拳が唸りを上げる。
 ヴァルさまはそれを紙一重で躱し、ギルトハルトさんの腕を絡め取る。

「まだだ! ハルネ! 追撃をっ!」
「あいさっ!」

 二本目のカモミールカーム。
 拘束されたギルトハルトさんの顔へ、しっかりと浴びせた。

「ぐっ……ぬぅ……」
「……目が覚めたか。 ギルトハルト」
「うぅ……?」

 今度こそ、その巨体から力が抜けた。

 ギルトハルトさんも、ルシアンさまも、なんとか正気を取り戻せたみたいだ。

 やっぱりカモミールカームはノクスミアに有効だ。 でも……

 いつの間にか演奏が止まっていた。

 薄紫色の霧の向こうでは、悲鳴と怒号が飛び交っている。

 誰かが誰かを突き飛ばす音。
 食器が割れる音。

 会場は、確実に感情の濁流に飲まれ始めていた。

「ハルネさん! ゼオファルド卿! これは一体、何が起こっているんですか!?」
「……リセリーナだ。 全てヤツの仕組んだ事だ」
「ぬぅ、アルテノット夫人が……?」
「そう! 簡単に言うよ! これは感情を増幅させるノクスミア! リセリーナさんの目的は分からないけど、会場の大混乱を狙ってるのは確かだよ!」

 そう。
 こんなに派手にやらかして。
 何がしたいのか、全然まったく分からない。

「……私とハルネはリセリーナを止めに行く! ルシアン殿とギルトハルトは招待客の避難と誘導を頼む!」
「ああ、了解したよ!」
「…………」
「……どうしたギルトハルト?」

 快諾したルシアンさまと対照的に、何かを考えこむギルトハルトさん。

「ゼオファルド。 アルテノット夫人の方は、我に任せよ」
「……何を言い出す?」
「お前はこの事態に備えていたのだろう? 調査局との連携や部下の采配もあるはずだ。 ここは我に任せて事態の収束を図れ」
「……何? 貴様、どういうつもりだ。 ……合理的ではある。 だが、信用できん」

 ヴァルさまの声には疑いが残っていた。
 でも、今は問い詰めてる時間がもったいない。

「ヴァルさま! 迷ってる時間ないよ! もうギルトハルトさんに任せちゃおう!」

 今は一刻を争う事態だ。

 行動だ! 一秒でも早く……とにかく動かなくちゃ!

「……ハルネ…………っ分かった。 貴様に任せるぞギルトハルト」
「ああ、大船に乗ったつもりで我に任せるがよい」
「……予定変更だ。 私とハルネは応援の要請のため出口へ向かう。 ルシアン殿は客の誘導を頼む!」
「ああ、わかった!」
「ルシアンさま! これを!」

 あたしは数本の小瓶をルシアンさまに投げ渡す。

「おっと……! これは?」
「ノクスミアを中和する薬です! 持っていって!」
「こんなもの、どこから取り出したんだい?」
「それは……乙女の秘密ですよ!」

 このふわふわドレスのポケットから、なんてのは言えない。

「いくぞハルネ!」
「うん! ヴァルさま!」



―――――――



 階下に広がる阿鼻叫喚。

 時折、紫がかった霧の中から、悲鳴や怒号、争う音が聞こえてくる。

 ……大変な事をしてしまった。

 ノクスミアを散布する魔導方陣を起動したのは、間違いなく僕自身だ。
 こうなると分かっていて、リセリーナに逆らえず、言われるがままに罠を仕込み、起動した。

 一体どうするつもりなんだ、リセリーナは。

 起動の魔石を持つ手が震え、取り落とした魔石が床でカツンと音を鳴らした。
 慌てて拾い上げ、そのまま妻を……リセリーナを見上げる。

 先ほどまで階下の混乱を楽しそうに眺めていた彼女が、今度は僕を見ていた。

 頬を紅潮させた、満面の笑み。

 リセリーナは何も言わない。
 でも、「お楽しみはまだまだこれからですわ」と言っているような気がした。

 その笑みは、初めて彼女と出会った日のものと、何一つ変わっていなかった。



―――――――



「キャアアァァ~~っ!!」
「イヤァァア~~っ!」

 恐怖と不安が増幅され、完全に恐慌状態になっている令嬢たちに、カモミールカームを振りかける。

「えいっ!」
「つめたっ!」
「うっ……なんですの!?」

 これで一旦は安心のはずだ。
 パニックで動き回っちゃうと危ない。

「出口はあっちだね!」
「ハルネ、なぜ方向が分かる!? この、まるで視界の利かない霧の中で……」
「感情色なら人の輪郭は見えるの! ヴァルさまだって出来るハズ!」
「……そうかっ! 盲点だった……!」

 いつぞやのマチョキモ相手にもフォーメーションDで有効だった。

 エモパレは無視界でも感情の居場所だけは分かる。
 裏技的な使い方……いわばエモパレハックってヤツだ。

 あたしの言葉を受けたヴァルさまは、即座に左眼の眼帯を投げ捨てた。


――視界の端で、何かの色が滲んだ気がした。


 でも、あたしの目はそこを素通りして、霧の先の出口を探していた。
 今はとにかく……動くんだ!

「うぐぁっ! 何をする!」
「うるさい! 前からお前が気に食わなかったんだよ!」

 今度は殴り合いのケンカをしている二人の男性。
 軍服を着ているから、軍の人達だ。

「……ふっ!」

 ヴァルさまが二人のお腹に肘を入れて即座に制圧する。

「ぐぅ!」
「……がっ……!」

 さすがヴァルさま! 手際が良い!
 二人の男性には気の毒だけど……

「こんな、ケンカなんかしている場合じゃないのに……」
「……ノクスミアに感情を飲まれかけた時、加害の感情も高まった。 アルテノット男爵は、元来の研究内容も完成させたのやもしれん」

 そうか、以前ヴァルさまから聞いた。
 ノクセリウムっていうのは元々、兵士の戦意高揚のための薬として研究されたものだって。

「……軍関係者を多く呼んだのはこのためか。 だが、今は構う事は無い。 急ぐぞ!」
「うん!」

 感情色の人波から出口の方向を割り出し、ヴァルさまと共に駆け抜ける。

 なんだか肌がチクチクする。
 会場中の感情温度が、歪な冷たさで肌に突き刺さるようだった。

 道中、泣き叫ぶ令嬢へ、母親らしき女性が怒鳴りつけているのが見えた。

「あなたのせいよ! いつも私に恥をかかせて!」
「お母さま、どうして……!」

 怯え、怒り、妬み、悲しみ。
 普段なら胸の奥に隠しているはずの感情が、全部剥き出しになっていた。

 う~~、嫌だ……すごく、嫌だ!

 手持ちの薬は限られている。
 あたしは、彼女たちを無視して出口へと急ぐ。

 少しの間、耳を塞いだ。

「……そこだ! あそこが出口だ!」
「あっ! あれって……っ!」

 閉ざされた出口の大扉の前。

 恐慌状態に陥った人々が押し合い、怒鳴り合い、悲鳴が薄紫色の霧へと溶けていく。

 その混乱の中心で……

「離しなさいレル坊っ!! 二人の安否が先だって言ってるでしょっ!」
「うるせぇっ!! 命令されてるのは出口の確保だろうが!」


 リオーネさんとレルガさんは――

 まるで敵同士みたいに、お互いの胸ぐらを掴み合っていた。