「皆様、ごきげんよう。 本日は、我がアルテノット家の夜会へお集まりいただき、感謝いたしますわ」
――癇に障る声。
凛と澄んだ声が、広大なホールへ響き渡る。
その一言で、招待客たちのざわめきは、凪ぐように静まっていった。
二階の露台に立つリセリーナ・アルテノット男爵夫人へ、すべての視線が集まっている。
月光を溶かしたような白銀のドレス。
淡い金髪が、さらりと肩から胸元へと流れ落ちていた。
その姿だけを見れば、かつて社交界で呼ばれた”白銀の聖女”の名は頷けるものだろう。
くだらない。
あの女ほど、その呼び名から遠い者を私は知らない。
元は、名高いオルヴェリス公爵家の息女。
そんな彼女が、突如として社交性の欠片もないアルテノット男爵の元へと嫁いだ時、噂になった。
苛烈な性格ゆえ貰い手がいなかった、だの。
いいや、愛ゆえの婚姻だ、だの。
いつしか社交に消極的なアルテノット男爵と共に、噂は忘れ去られていった。
だが、今はそんな噂など、どうでもいい。
必ず、あの女は何かするはずだ。
威厳ある挨拶を見せている彼女の隣。
エドリック・アルテノット男爵は、背中を丸め、所在なさげに立っている。
招待客たちは、誰も彼に目を向けてはいない。
誰もが、露台から見下ろすように立つ彼女に、釘付けになっていた。
……私も同じだった。
だが、見惚れているワケではない。
一瞬たりとも、あの女から目を離すわけにはいかなかった。
「ヴァルさま!」
こちらを振り返ったハルネの声でハッとした。
気を急いている自分を諫めるよう、深く呼吸を整えた。
「……まだだ。 まだ、何も起こってはいない」
そうだ。
リセリーナは挨拶をしただけだ。
まだ、何一つ起こってはいない。
だが、仕掛けるならここだ。
皆がヤツに注目している。
あたりを見回す。
怪しい動きをする者はいない。
封魔の眼帯を持ち上げ、周囲の感情の色を観察する。
――視える感情は、感嘆、畏敬、興味、嘲り……
……悪意を持つ者は見当たらなかった。
しかし、すぐ近くに、好意と昂揚の色が見えた。
見れば、好意はルシアン殿。
ハルネに対する感情か?
イラつきを覚えたが、もう一つの感情の方が気になった。
昂揚を発しているのは……ギルトハルト?
……やはりヤツは何かを知っている?
「さて皆様方。 わたくしから皆様方へ、プレゼントを一つ、ご用意させていただきました」
リセリーナの声を聴きながら、頭を必死に回す。
ギルトハルトを身代わりに? どのように?
……違う、そうじゃない。 関係の確信も持てない。
しかし、私の推理が当たっていれば、実行役か身代わり役がいるはず……
「今宵は……忘れられない夜になりますわ」
そう言って、リセリーナは隣の夫に目配せのような仕草を送った。
実行役は……アルテノット男爵かっ!?
誰も注目していなかったエドリック・アルテノット男爵が、手に持った何かを、強く握りこんだ。
――キィンっ!
何かが起動する音と共に、柱や床、壁から翠光の魔導方陣が一斉に明滅する。
次の瞬間。
絨毯の下から、絵画の額縁の裏から、紫の煙がもうもうと噴きだした。
勢いよく噴き出したそれは、薄紫色の霧となって足元に溜まり、どんどんと這い上がってくる。
「なにこれ!? 薄紫色の、水蒸気!?」
「これは……舞台演出用の!?」
ルシアン殿とハルネの声が聞こえた。
だが、すぐに薄紫色の霧が、二人の姿を隠してしまった。
「……くっ」
吸い込まないようにすぐさま口を覆ったが、鼻奥と喉に苦みのような物が走った。
……しまった!
軽食への仕込みや、乾杯の合図。
決して自身に疑いが向かないよう、もっと局所的な手段を選ぶと読み切っていた。
まさか、会場全体に堂々とバラ撒くとは……!
しかし……
これではまるで言い逃れが出来ないではないか!
ヤツは……破滅するつもりなのか!?
事前に全体対処も必要という想定もしてはあったが、それには外部への助けが必要だ。
いや、その前に……リセリーナを止めに行く!
――踏み出した足が、止まった。
胸の奥が、ざわりと逆立った。
……なんだ?
……そうだ、リセリーナを止める前に、ハルネを……彼女の無事を確認せねば!
リセリーナは、”後でいい”。
私は、守ると言った。
絶対に守る、と!
――しかし、ハルネの姿は薄紫色の霧に遮られ、まったく確認できなかった。
――機能しない視界の中で、口を覆いながら彼女を探す。
ハルネ…………私の、焦がれた……太陽……
絶対に守る…………ハルネ……どこだ……?
最後の瞬間にルシアン殿の隣にいたのを見た。
そう離れてはいないはず……
ルシアン令息……
彼女は……絶対に貴様には渡さない。
ハルネは、私の、生きる意味なのだ。
私のハルネに……好意なぞ抱くな!
貴様なんぞに、渡してたまるか!
私から奪うつもりならば……侯爵令息といえど……
――激情が胸の中で荒れ狂う。
――足を進める内に、何かがおかしいと気付き始める。
……おかしい?
いくらなんでも、罪も犯していない者を害すなどと…………あぁっ、そうか……っ!
「……これが、ノクスミアっ!」
ハルネの事を考えるほど、焦がれる感情が高まり荒れ狂う。
隣にいたルシアン殿の事を考えるほど……強い怒りが芽生えてくる。
いかん……感情に、飲み込まれる!
――足を止め、顔を伏せ、胸を鷲掴み、必死に感情の嵐に耐える。
――だが、それは全く治まる事なく……より強い感情となって塗りつぶされる。
ルシアン……許せぬ………ハルネ……どこだ……私の、女神……
キミさえいればいいんだ。
キミがいなくなるなど、耐えられない。
また、一人になる。
あの冷たい場所はもう嫌だ。
嫌だ。
寂しい……ハルネ、どこだ……?
私を……温めてくれ……
……リセリーナ……ルシアン……貴様らを、許さん。
もしも、私の邪魔をするのなら……
私からハルネを、奪うのなら…………殺……
――バシャッ!
――必死に暴走に耐える私の顔に、得体の知れない何かが掛けられた。
くっ! 何を……やられた?
これは……フルーツのような……甘い香り……
どこか、ハルネを思い出させるような、あの店の……これは、カモミール?
その香りを吸い込むたびに、焼けついていた頭の奥が少しずつ冷えていく。
途切れていた思考が、繋がり始める。
怒りと不安は、まだ胸の内を荒れ狂っていたが……
それでも、激情に飲まれていた意識が、少しずつ理性を取り戻し始めた。
「ヴァルさま! だいじょうぶ!?」
呼吸が整うにつれ、狭まっていた視界が晴れていく。
私は重い頭を持ち上げた。
薄紫色の霧の向こうで揺れる、まばゆいベージュの何か。
それが誰なのか理解した瞬間、身体の奥から震えが込み上げた。
理性を取り戻した私の目に、最初に映ったのは……
――片手にガラスの小瓶を持ち、まるで私を守るように毅然と立つ、ハルネの背中だった。


