南街の外れへと伸びる水路。
整備された川の幅は十分にあり、澄んだ水が緩やかに流れている。
水路を跨ぐ、小さな石橋。
街のざわめきは遠のき、水音だけがよく耳に届いた。
泣き止んだハルネをさらに落ち着かせるため、二人は橋の袂まで足を運んでいた。
使い古されて角の丸くなった縁石に、並んで腰掛けている。
―――――――
「…………」
「…………」
二人は何も喋らず、ただ並んで座っている。
お互いの気遣いのようにも見えるし、何を話せばという困惑にも見える。
ヴァルグレイのハンカチを握りしめたハルネ。
目を瞑り、水音に身体を任せていると、段々と気分も落ち着いてきた。
「…………すぅ」
深呼吸を一つ。
やっと考えられるようになった。
さっきはなんであんなに泣いちゃったんだろう。
オジさまに出会ってから、あたしは泣いてばっかりだ。
……あたしって、こんなに泣き虫だったっけ?
それに、話に夢中で馬車に気付かないとか。
……あたしって、こんなにうかつだったっけ?
いや、うっかり者だよ、あたしは。 そっちは納得だった。
それにしても、オジさまが庇ってくれて良かった。
そこまでは良かった。 でも……
ぎゅってされて、苦しくて、でもあったかくって。
離れた瞬間、自分の何かが抜け落ちたような、ぽっかりとした感じがした。
それで、急に心がいっぱいになって……
一番心配したのは、もしかしてオジさまを傷付けてしまったんじゃないかって。
でも、それもあたしの杞憂だったみたい。
オジさまはそんな様子をちっとも見せなかった。
とにかく、あたしへの気遣いと申し訳なさがいっぱいだった。
感情色を視れなくても分かる。
一体オジさまは、どういうつもりで、あんなに強く、あたしを、抱きしめ……て…………
「……うにゃあっ!!」
「…………」
しまった。
正体不明の何かに耐えきれず、奇声が漏れ出た。
恥ずかしくなって、オジさまの様子をうかがう。
オジさまは何も動じず、ただただ心配の目を向けてくれていた。
さすがだ。
眉一つ動かさない、いつもの様子にホッとした。
うん。 あれは事故。
そういう事にしよう。
なんだか考えてはいけない気がする。
考えたら動けなくなる気がする。
今日は考えない。 うん。
「……もう、大丈夫か?」
「うん、だいぶ落ち着いたよ。 ごめんね、オジさま」
「謝るのは私の方だ。 本当にすまなかった」
「二人して謝りあうのもおかしいね。 これで最後にしよう?」
「……キミが、そう言うのなら」
「うん。 あれは……」
あれは事故。
そう言いかけて止まった。
なんだか、そのことに触れるのが急に怖くなった。
あの抱擁の意味を、少しでも知ってしまう事に、身体がすくんだ。
言いかけた言葉を飲み込み、別の言葉を探す。
ふと見渡すと、見慣れた石橋が見えた。
「あ、あの橋、懐かしいなぁ。 昔シャリエナと一緒に遊んだなぁ」
「……そうか、ここはキミの生まれた街だったな」
急な話題転換だったが、オジさまはノッてくれた。
「最近こっちに来ることはなかったけど、子供の頃はあの欄干に登って、お母さんによく怒られたっけ」
「……キミは、その……子供の頃から随分と腕白だったのだな」
「オジさまも、子供の頃はヤンチャ坊主だったの?」
「……さてな、どこにでもいる農家の一人息子で……昔から腕っぷしはあった覚えはあるが」
「昔から強かったんだ。 たしかオジさまは騎士爵持ちって聞いた気がするよ。 やっぱり軍での活躍から?」
「……ああ、そうだ。 もう十年は前になるか。 叙爵を賜ったのは」
オジさまは目を細め、どこか遠くを見つめていた。
「そうなんだ。 そこから調査局に?」
「……ああ、隣国との小競り合いも落ち着き、手持ち無沙汰な時期が増えた。 そこで、今の局長から誘いがあった」
「ねぇ、調査局の話、聞かせてよ? 話せる範囲でいいからさ」
「……年若い女性が聞いて、あまり面白い話は無いが」
「いーの。 少しでも知りたいの。 オジさまの事。 オジさま自身の声で」
少し躊躇った様子があったが、オジさまはぽつぽつと仕事のお話をしてくれた。
いつも夜遅くまで仕事していること。
人を増やしたいこと。
「……部下の能力に不足は無いが、私の言うことを聞かん」
「ふふ、困ってるんだ」
「……仕事に支障ない範囲で、というのが救いだがな」
そういった愚痴から始まって。
人には恵まれていると感じること。
仕事にやりがいは感じていること。
そして……
「……実は最近、十分な睡眠をとれていない」
「え? もしかしてあたし達のせい? ……ごめんね」
「いや違うっ、そういう事ではない。 ……すまない、余計な愚痴だったな」
そんな、ぼやきも話してくれた。
川のせせらぎと、オジさまの穏やかな低音ボイスに癒される。
あたしは、少しだけうとうとと、オジさまの話を聞いていた。
……………
「……ハルネ嬢?」
「ん~? なぁにぃ? 聞いてるよ~……」
泣き疲れた身体に、暖かい春の陽射し。
規則正しい水音に、落ち着いた声。
あたしはいつしか、オジさま側へと傾いて。
気づいたオジさまが声を掛けてくれた。
「……眠いのか?」
「ん~ん。 聞いてるよ、ちゃんと。 川の音と、オジさまの落ち着いた……イケボが心地よくて」
「……イケボ?」
「うーんとね、とってもイイ声って意味」
「……そうか。 声を褒めてもらった事などないが」
「んふふー」
「……つまらない話を長々と、すまなかったな」
「ん~ん、全然だよ。 オジさまの事が知れて、とっても嬉しい」
色々知る事が出来て、良かった。
単純にそう思った。
「……キミは、人から話を引き出すのが上手いな」
「ふふっ、だって、商売にも関わってくるもの」
「……それは、さすがだな。 キミの愛らしい声と相槌を聞いて、あまり口の上手くない私も……思わず言葉を継いでしまった」
「んふふ~、そうでしょ……?」
うとうとした頭が、一旦それを流しそうになって……再び戻って来た。
……今、何て言ったの?
「愛らしい」――そう聞こえた。
流そう、流そう、そう考えるほどに意味を咀嚼してしまう。
胸の鼓動から始まった熱が、耳へ、頬へとゆっくり広がる。
火照る顔の温度とともに、ぼんやりしていた意識も追いついてくる。
ようやくそこで、もう一つの事実にも気が付いた。
上質な生地の肌触り。 固い肩の感触。
あろう事か。
あたしは今。
オジさまに、べったりと、もたれかかっている。
「にゃあああっ! あ、あたしったら! ホントにごめんなさい!」
思わず飛びのく。
「こ、心地良くって、全然気付かなかった…………お、重かったでしょ?」
「……なんのことはない。 私の身体で良ければ好きに使うといい」
「そ、そんなワケにはいかないでしょ!」
正面のオジさまは、本当に気にしてはいなさそうだった。
あたしだけが取り乱していた。
うぅ~~~。
火照っていたほっぺを、両手でうにうにして冷ます。
変な顔になっているだろうが、それ以上に気恥ずかしさが上回った。
「も、もう行こうよ! ……ごめんね? あたしのせいで時間とらせちゃった」
「それは構わないが、少し待って欲しい」
「??」
オジさまからの静止は珍しい。
なにかしら?
「……今日、キミたちの所へ伺ったのは、営業停止解除の件もそうだが、もう一つある。 ノクセリウム事件の事だ」
「ノクセリウム事件……」
そうだ。
音沙汰が無いから、話題に出すこともあまり無かった。
てっきりサフラン香房がまた襲われるのかと思ったら、全然何にも起こらない。
「事件の事で進展があった。 キミにも聞いてもらいたい事だ」
「うん、それで?」
「……それが、少し込み入った話になりそうなのだ。 だから……」
うん?
オジさまにしては、いやに含みを持たせる言い方が気になった。
「だから?」
「……話は変わるが、キミは以前、中央街の……新しいレストランに行きたいと言っていただろう?」
「……ああ! 牛フィレステーキの!」
焦がしバターの!
……言ったかもしんない。
いつだっけ?
「……キミには本当に迷惑をかけた。 結果的に調査局への貢献もしてもらった。 なので……」
「……………で?」
なんだか胸の奥がムズムズする。
「……詫びも兼ねて、そのレストランに、今晩、席を用意した。 ……キミさえ良ければ、どうだろうか?」
「…………うん?」
ちょっと待って整理させて。
オジさまが、あたしを、夜の食事に招待してくれたってこと?
……あたしが、以前行きたいって言ってた店に?
ムズムズしていた胸の奥が、今度はじんわり暖かくなっていく。
うあ……なんだろう。
なぜだか、想像以上に……嬉しい!
今日、お店に来てくれた時からずっと。
オジさまはどこか、あたしの気持ちをちゃんと大事にしてくれてるように感じていた。
でも、今の言葉が一番、そこを超えた「大切さ」みたいなものがあった。
だって、あたしの言ってる事なんて、本当に適当なことばっかりで。
自分自身ですら、そんな風に言ったことを忘れてたのに。
あたしの、何気ない言葉を、ちゃんと覚えててくれてた!
オジさまの中で、ちゃんとあたしが生きている。
そんな気がして、幸せな気持ちがぽわぽわと広がった。
「そんなの! 絶対行くに決まって……」
言いかけた言葉と共に、ふと、心にブレーキがかかる。
大切にされてるかもしれない気持ちと、さっきの抱擁。
繋がってしまいそうで、まだ受け止められない何か。
……ダメだ。 今それを考えちゃダメだ。
再び自分の心に蓋をする。
今はそう。
オジさまが、あたしの言葉を持ってくれていた。
その嬉しさだけを、噛み締めるんだ。
答えは決まってるんだから。
「……オジさまは、ズルいなぁ」
何の気なしに、口から出たその言葉の意味は分からなかった。
あたしは、ただただ嬉しいのに。
なのに、その嬉しさの奥で、何かが小さく身じろぎをして。
だから今度は、オジさまのハンカチを濡らす事はなかった。

