【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―


 南街の外れへと伸びる水路。
 整備された川の幅は十分にあり、澄んだ水が緩やかに流れている。

 水路を跨ぐ、小さな石橋。
 街のざわめきは遠のき、水音だけがよく耳に届いた。

 泣き止んだハルネをさらに落ち着かせるため、二人は橋の袂まで足を運んでいた。
 使い古されて角の丸くなった縁石に、並んで腰掛けている。



―――――――



「…………」
「…………」

 二人は何も喋らず、ただ並んで座っている。

 お互いの気遣いのようにも見えるし、何を話せばという困惑にも見える。

 ヴァルグレイのハンカチを握りしめたハルネ。

 目を瞑り、水音に身体を任せていると、段々と気分も落ち着いてきた。


「…………すぅ」

 深呼吸を一つ。
 やっと考えられるようになった。

 さっきはなんであんなに泣いちゃったんだろう。
 オジさまに出会ってから、あたしは泣いてばっかりだ。

 ……あたしって、こんなに泣き虫だったっけ?
 それに、話に夢中で馬車に気付かないとか。

 ……あたしって、こんなにうかつだったっけ?
 いや、うっかり者だよ、あたしは。 そっちは納得だった。

 それにしても、オジさまが庇ってくれて良かった。
 そこまでは良かった。 でも……

 ぎゅってされて、苦しくて、でもあったかくって。

 離れた瞬間、自分の何かが抜け落ちたような、ぽっかりとした感じがした。

 それで、急に心がいっぱいになって……

 一番心配したのは、もしかしてオジさまを傷付けてしまったんじゃないかって。

 でも、それもあたしの杞憂だったみたい。
 オジさまはそんな様子をちっとも見せなかった。
 とにかく、あたしへの気遣いと申し訳なさがいっぱいだった。
 感情色を視れなくても分かる。

 一体オジさまは、どういうつもりで、あんなに強く、あたしを、抱きしめ……て…………


「……うにゃあっ!!」
「…………」


 しまった。

 正体不明の何かに耐えきれず、奇声が漏れ出た。

 恥ずかしくなって、オジさまの様子をうかがう。
 オジさまは何も動じず、ただただ心配の目を向けてくれていた。

 さすがだ。
 眉一つ動かさない、いつもの様子にホッとした。

 うん。 あれは事故。
 そういう事にしよう。
 なんだか考えてはいけない気がする。
 考えたら動けなくなる気がする。

 今日は考えない。 うん。

「……もう、大丈夫か?」
「うん、だいぶ落ち着いたよ。 ごめんね、オジさま」
「謝るのは私の方だ。 本当にすまなかった」
「二人して謝りあうのもおかしいね。 これで最後にしよう?」
「……キミが、そう言うのなら」
「うん。 あれは……」

 あれは事故。
 そう言いかけて止まった。

 なんだか、そのことに触れるのが急に怖くなった。
 あの抱擁の意味を、少しでも知ってしまう事に、身体がすくんだ。

 言いかけた言葉を飲み込み、別の言葉を探す。

 ふと見渡すと、見慣れた石橋が見えた。

「あ、あの橋、懐かしいなぁ。 昔シャリエナと一緒に遊んだなぁ」
「……そうか、ここはキミの生まれた街だったな」

 急な話題転換だったが、オジさまはノッてくれた。

「最近こっちに来ることはなかったけど、子供の頃はあの欄干に登って、お母さんによく怒られたっけ」
「……キミは、その……子供の頃から随分と腕白だったのだな」
「オジさまも、子供の頃はヤンチャ坊主だったの?」
「……さてな、どこにでもいる農家の一人息子で……昔から腕っぷしはあった覚えはあるが」
「昔から強かったんだ。 たしかオジさまは騎士爵持ちって聞いた気がするよ。 やっぱり軍での活躍から?」
「……ああ、そうだ。 もう十年は前になるか。 叙爵を賜ったのは」

 オジさまは目を細め、どこか遠くを見つめていた。

「そうなんだ。 そこから調査局に?」
「……ああ、隣国との小競り合いも落ち着き、手持ち無沙汰な時期が増えた。 そこで、今の局長から誘いがあった」
「ねぇ、調査局の話、聞かせてよ? 話せる範囲でいいからさ」
「……年若い女性が聞いて、あまり面白い話は無いが」
「いーの。 少しでも知りたいの。 オジさまの事。 オジさま自身の声で」

 少し躊躇った様子があったが、オジさまはぽつぽつと仕事のお話をしてくれた。


 いつも夜遅くまで仕事していること。
 人を増やしたいこと。

「……部下の能力に不足は無いが、私の言うことを聞かん」
「ふふ、困ってるんだ」
「……仕事に支障ない範囲で、というのが救いだがな」

 そういった愚痴から始まって。

 人には恵まれていると感じること。
 仕事にやりがいは感じていること。

 そして……

「……実は最近、十分な睡眠をとれていない」
「え? もしかしてあたし達のせい? ……ごめんね」
「いや違うっ、そういう事ではない。 ……すまない、余計な愚痴だったな」

 そんな、ぼやきも話してくれた。

 川のせせらぎと、オジさまの穏やかな低音ボイスに癒される。

 あたしは、少しだけうとうとと、オジさまの話を聞いていた。


……………


「……ハルネ嬢?」
「ん~? なぁにぃ? 聞いてるよ~……」

 泣き疲れた身体に、暖かい春の陽射し。
 規則正しい水音に、落ち着いた声。

 あたしはいつしか、オジさま側へと傾いて。
 気づいたオジさまが声を掛けてくれた。

「……眠いのか?」
「ん~ん。 聞いてるよ、ちゃんと。 川の音と、オジさまの落ち着いた……イケボが心地よくて」
「……イケボ?」
「うーんとね、とってもイイ声って意味」
「……そうか。 声を褒めてもらった事などないが」
「んふふー」
「……つまらない話を長々と、すまなかったな」
「ん~ん、全然だよ。 オジさまの事が知れて、とっても嬉しい」

 色々知る事が出来て、良かった。

 単純にそう思った。

「……キミは、人から話を引き出すのが上手いな」
「ふふっ、だって、商売にも関わってくるもの」
「……それは、さすがだな。 キミの愛らしい声と相槌を聞いて、あまり口の上手くない私も……思わず言葉を継いでしまった」
「んふふ~、そうでしょ……?」

 うとうとした頭が、一旦それを流しそうになって……再び戻って来た。


 ……今、何て言ったの?

 「愛らしい」――そう聞こえた。


 流そう、流そう、そう考えるほどに意味を咀嚼してしまう。

 胸の鼓動から始まった熱が、耳へ、頬へとゆっくり広がる。

 火照る顔の温度とともに、ぼんやりしていた意識も追いついてくる。

 ようやくそこで、もう一つの事実にも気が付いた。
 上質な生地の肌触り。 固い肩の感触。

 あろう事か。

 あたしは今。

 オジさまに、べったりと、もたれかかっている。

「にゃあああっ! あ、あたしったら! ホントにごめんなさい!」

 思わず飛びのく。

「こ、心地良くって、全然気付かなかった…………お、重かったでしょ?」
「……なんのことはない。 私の身体で良ければ好きに使うといい」
「そ、そんなワケにはいかないでしょ!」

 正面のオジさまは、本当に気にしてはいなさそうだった。

 あたしだけが取り乱していた。
 うぅ~~~。

 火照っていたほっぺを、両手でうにうにして冷ます。
 変な顔になっているだろうが、それ以上に気恥ずかしさが上回った。

「も、もう行こうよ! ……ごめんね? あたしのせいで時間とらせちゃった」
「それは構わないが、少し待って欲しい」
「??」

 オジさまからの静止は珍しい。

 なにかしら?

「……今日、キミたちの所へ伺ったのは、営業停止解除の件もそうだが、もう一つある。 ノクセリウム事件の事だ」
「ノクセリウム事件……」

 そうだ。
 音沙汰が無いから、話題に出すこともあまり無かった。

 てっきりサフラン香房がまた襲われるのかと思ったら、全然何にも起こらない。

「事件の事で進展があった。 キミにも聞いてもらいたい事だ」
「うん、それで?」
「……それが、少し込み入った話になりそうなのだ。 だから……」

 うん?

 オジさまにしては、いやに含みを持たせる言い方が気になった。

「だから?」
「……話は変わるが、キミは以前、中央街の……新しいレストランに行きたいと言っていただろう?」
「……ああ! 牛フィレステーキの!」

 焦がしバターの!
 ……言ったかもしんない。
 いつだっけ?

「……キミには本当に迷惑をかけた。 結果的に調査局への貢献もしてもらった。 なので……」
「……………で?」

 なんだか胸の奥がムズムズする。

「……詫びも兼ねて、そのレストランに、今晩、席を用意した。 ……キミさえ良ければ、どうだろうか?」
「…………うん?」

 ちょっと待って整理させて。

 オジさまが、あたしを、夜の食事に招待してくれたってこと?
 ……あたしが、以前行きたいって言ってた店に?

 ムズムズしていた胸の奥が、今度はじんわり暖かくなっていく。

 うあ……なんだろう。
 なぜだか、想像以上に……嬉しい!

 今日、お店に来てくれた時からずっと。
 オジさまはどこか、あたしの気持ちをちゃんと大事にしてくれてるように感じていた。

 でも、今の言葉が一番、そこを超えた「大切さ」みたいなものがあった。

 だって、あたしの言ってる事なんて、本当に適当なことばっかりで。
 自分自身ですら、そんな風に言ったことを忘れてたのに。

 あたしの、何気ない言葉を、ちゃんと覚えててくれてた!

 オジさまの中で、ちゃんとあたしが生きている。

 そんな気がして、幸せな気持ちがぽわぽわと広がった。


「そんなの! 絶対行くに決まって……」


 言いかけた言葉と共に、ふと、心にブレーキがかかる。

 大切にされてるかもしれない気持ちと、さっきの抱擁。

 繋がってしまいそうで、まだ受け止められない何か。

 ……ダメだ。 今それを考えちゃダメだ。

 再び自分の心に蓋をする。

 今はそう。
 オジさまが、あたしの言葉を持ってくれていた。
 その嬉しさだけを、噛み締めるんだ。

 答えは決まってるんだから。

「……オジさまは、ズルいなぁ」

 何の気なしに、口から出たその言葉の意味は分からなかった。

 あたしは、ただただ嬉しいのに。
 なのに、その嬉しさの奥で、何かが小さく身じろぎをして。

 だから今度は、オジさまのハンカチを濡らす事はなかった。