【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



――カチリ。

 小さな魔石が、床に埋め込まれた金具へ収まる音。
 硬質な響きが、誰もいない、夜の静寂に包まれた大広間へと広がった。

 照明の落とされた魔石シャンデリア。
 大窓から差し込む月光が、吹き抜けの一階の床と二階回廊を淡く照らしている。

 真新しい赤い絨毯に、端に置かれたテーブルと椅子。
 舞踏会の準備は大方整い、大広間はただ明日の夜を待つばかり。

 だが、淡い光が照らす中、絨毯をめくり、床へ膝をつく男が一人。
 ふくよかな体躯に、くすんだ栗色のクセ髪。

 この館の主――エドリック・アルテノット男爵。

 作業の手を止めた彼は、懐から一つの小瓶を取り出す。

 小瓶を見つめるその瞳は、決意とも諦めともつかない色を宿していた。



―――――――



「ステキなお顔よ」

 僕は何度、そのセリフを聞いただろうか。

 似合うと思ったルビーの指輪を、目の前で捨てられた時。
 来客の訪問時間を、わざと違えて伝えられた時。
 趣味の骨董品を、勝手に処分された時。

 彼女がその言葉を口にするのは、決まって僕が焦り、困っている時だ。

 彼女に直接聞いてみた事がある。
 どうしてそんな事ばかりするのかと。
 自分が嫌いならそう言って欲しい、と。

 彼女の答えは……

「わたくし、アナタの困った顔が、愛しいの」

 全く理解が出来なかった。


……………


 きっかけは、リセリーナからの熱烈なアプローチだった。

 公爵令嬢だった彼女が、男爵家へ嫁ぐのは、事実上の降爵となる。
 にも関わらず、彼女の強い要望で婚姻に至った。

 不摂生しがちで、太っている自分は、女性から選ばれる事はないと思っていた。

 しかし、聖女のような清廉さと、魔性の女王のような妖艶さを併せ持つ、美しいリセリーナ。
 そんな彼女が、社交力も無く、冴えない自分を慕ってくれる。

 格も、美しさも、何もかもが自分とは異なる彼女。
 目が合うたびに、鼓動が早くなった。

 僕は、彼女に夢中になった。

 けれど、共に暮らし始めてすぐに気が付いた。

 彼女は、事あるごとに、僕を傷つけるような言動を取ってくる。
 明らかに、意図的に……

 僕は混乱した。

 彼女は僕を愛してくれているのではないか?
 僕の愛情が足りないのか?

 何度理由を問い、自分のふるまいを改めてみても……
 彼女の言動は何一つ変わることなく、僕を傷つけ続けた。

 リセリーナの、とても楽しそうな表情が、僕には全く理解できなくて……苦しかった。


――カツン。

 工具が床に触れる硬い音が、大広間によく響いた。

 ……明日、この床の上で、たくさんの人々が踊るのか。
 ……その先を想像しかけて、すぐに止めた。
 ……他人を巻き込む事だと分かりつつ、僕は黙って手を動かす。 

 理解できないリセリーナの愛情から逃れようと、彼女を嫌う努力をしようとした事もあった。

 しかし、彼女は僕を知り尽くしているのか、その言動の匙加減は……絶妙だった。

 来客を違う時間で知らされた時。
 焦って部屋に飛び込む僕に対し、リセリーナは何食わぬ顔で客をとりなし、場を納めていた。

 趣味の骨董品を勝手に処分された時。
 それは、僕がちょうど人に売ろうかと考えていた品だった。

 何より……
 リセリーナは僕の身体に触れることを躊躇わない。

 時に気安く、時にじれったく、頬に、胸に、腹部に、熱っぽく触れてくる。
 そして、毎晩のように触れ合いを求めてくる彼女……

 これは、愛情なのか?

 ……分からない。

 愛しているのなら、どうして僕が傷つく事を望むんだ?

 だって、そんなはずが無い。 でも……

 彼女の苛烈な性質を知りながら……結局、離れる事は出来なかった。


 ある時、退役軍人の遺品として仕入れた古い収納箱から、一束の書類が出てきた。
 そこには、軍の機密開発物である「ノクセリウム」の製造法と効能が書かれていた。

 どうやら、戦意を高揚するという目的で作られた――失敗作のようだった。

 『感情を増幅し、露わにする』と書かれた文言に、強い興味を持った。

 社交は苦手でも、錬金術の研究だけは昔から得意だった。
 僕はこの薬の製造と改良に夢中になった。


「これで……リセリーナの本心が分かる」


 毒性を薄め、効果を高め、ついには増幅した感情を肉体にまで反映させる薬も作った。

 僕は、出来上がった一連の薬に「ノクスミア」と名付けた。

 だが、改造にのめり込んでいるウチに、当の本人――リセリーナに見つかった。

 彼女はあろうことか、出来上がったノクスミアを、何の関係もない市井の商人に売りつけた。

 意味が分からず、聞いてみるとやはり……


「その方がアナタが困ると思って」


 僕をじっと見ているようで見ていないような……

 いつもと変わらない美しい表情で……

 ステキな顔ね、とリセリーナは言った。

 僕は結局、通報もせず、薬も資料も処分しなかった。


――床への作業が終わり、仕掛けの位置を確認しながら、次は柱へと近づく。

 そして、結局こうやって、彼女の望む仕掛けを、言われるがまま作り続けている。

 多くの人を巻き込むこれが、一体何を生むのか。
 彼女の思惑は相変わらずワケが分からない。

 暗い大広間に、たった一人。
 孤独な作業に没頭している自分は、一体何をしているのだろうか?

 僕はただ……確信が欲しかった。

 僕が望むような愛情を、彼女が持ってくれているのかを。

 疲れのせいか、溜息が漏れた。

 柱に背を預け、寄りかかる。
 大窓から降り注ぐ月光が、なんだかとても儚いものに見えた。


「愛とは、相手が望む事を、叶えるものではなかったのか?」


 ……僕が今、しているように。

 再び、懐から小瓶を取り出す。
 淡い月光を反射した。

 ……彼女の目を盗み、さらなる改良を加えた、このノクスミア”γ”。

 こいつで感情を引きずり出し、リセリーナの本心を、彼女の愛を……知りたかった。


 ……だけど、もしも、

 増幅された彼女の愛が、何一つとして変わらなかったら、どうなるのだろう。

 自分は絶望に陥るのだろうか?

 それとも……安心してしまうのだろうか?

「……僕は彼女を愛している。 彼女は僕を愛している」

 言い聞かせるように、漏れ出た独り言を噛み締める。

「……ならば、なぜ、こんなにも満たされないのだろうか?」

 無意識に、胸元の服をきつく握りしめた。


……………


 誰もが明日を止めようとしていた夜に、明日を待ち望む男がただ一人。

 あらゆる思惑の色で彩られ始めた、アルテノット男爵邸舞踏会。

 止まる事の無い奔流の支流は、ここにもあった。