――カチリ。
小さな魔石が、床に埋め込まれた金具へ収まる音。
硬質な響きが、誰もいない、夜の静寂に包まれた大広間へと広がった。
照明の落とされた魔石シャンデリア。
大窓から差し込む月光が、吹き抜けの一階の床と二階回廊を淡く照らしている。
真新しい赤い絨毯に、端に置かれたテーブルと椅子。
舞踏会の準備は大方整い、大広間はただ明日の夜を待つばかり。
だが、淡い光が照らす中、絨毯をめくり、床へ膝をつく男が一人。
ふくよかな体躯に、くすんだ栗色のクセ髪。
この館の主――エドリック・アルテノット男爵。
作業の手を止めた彼は、懐から一つの小瓶を取り出す。
小瓶を見つめるその瞳は、決意とも諦めともつかない色を宿していた。
―――――――
「ステキなお顔よ」
僕は何度、そのセリフを聞いただろうか。
似合うと思ったルビーの指輪を、目の前で捨てられた時。
来客の訪問時間を、わざと違えて伝えられた時。
趣味の骨董品を、勝手に処分された時。
彼女がその言葉を口にするのは、決まって僕が焦り、困っている時だ。
彼女に直接聞いてみた事がある。
どうしてそんな事ばかりするのかと。
自分が嫌いならそう言って欲しい、と。
彼女の答えは……
「わたくし、アナタの困った顔が、愛しいの」
全く理解が出来なかった。
……………
きっかけは、リセリーナからの熱烈なアプローチだった。
公爵令嬢だった彼女が、男爵家へ嫁ぐのは、事実上の降爵となる。
にも関わらず、彼女の強い要望で婚姻に至った。
不摂生しがちで、太っている自分は、女性から選ばれる事はないと思っていた。
しかし、聖女のような清廉さと、魔性の女王のような妖艶さを併せ持つ、美しいリセリーナ。
そんな彼女が、社交力も無く、冴えない自分を慕ってくれる。
格も、美しさも、何もかもが自分とは異なる彼女。
目が合うたびに、鼓動が早くなった。
僕は、彼女に夢中になった。
けれど、共に暮らし始めてすぐに気が付いた。
彼女は、事あるごとに、僕を傷つけるような言動を取ってくる。
明らかに、意図的に……
僕は混乱した。
彼女は僕を愛してくれているのではないか?
僕の愛情が足りないのか?
何度理由を問い、自分のふるまいを改めてみても……
彼女の言動は何一つ変わることなく、僕を傷つけ続けた。
リセリーナの、とても楽しそうな表情が、僕には全く理解できなくて……苦しかった。
――カツン。
工具が床に触れる硬い音が、大広間によく響いた。
……明日、この床の上で、たくさんの人々が踊るのか。
……その先を想像しかけて、すぐに止めた。
……他人を巻き込む事だと分かりつつ、僕は黙って手を動かす。
理解できないリセリーナの愛情から逃れようと、彼女を嫌う努力をしようとした事もあった。
しかし、彼女は僕を知り尽くしているのか、その言動の匙加減は……絶妙だった。
来客を違う時間で知らされた時。
焦って部屋に飛び込む僕に対し、リセリーナは何食わぬ顔で客をとりなし、場を納めていた。
趣味の骨董品を勝手に処分された時。
それは、僕がちょうど人に売ろうかと考えていた品だった。
何より……
リセリーナは僕の身体に触れることを躊躇わない。
時に気安く、時にじれったく、頬に、胸に、腹部に、熱っぽく触れてくる。
そして、毎晩のように触れ合いを求めてくる彼女……
これは、愛情なのか?
……分からない。
愛しているのなら、どうして僕が傷つく事を望むんだ?
だって、そんなはずが無い。 でも……
彼女の苛烈な性質を知りながら……結局、離れる事は出来なかった。
ある時、退役軍人の遺品として仕入れた古い収納箱から、一束の書類が出てきた。
そこには、軍の機密開発物である「ノクセリウム」の製造法と効能が書かれていた。
どうやら、戦意を高揚するという目的で作られた――失敗作のようだった。
『感情を増幅し、露わにする』と書かれた文言に、強い興味を持った。
社交は苦手でも、錬金術の研究だけは昔から得意だった。
僕はこの薬の製造と改良に夢中になった。
「これで……リセリーナの本心が分かる」
毒性を薄め、効果を高め、ついには増幅した感情を肉体にまで反映させる薬も作った。
僕は、出来上がった一連の薬に「ノクスミア」と名付けた。
だが、改造にのめり込んでいるウチに、当の本人――リセリーナに見つかった。
彼女はあろうことか、出来上がったノクスミアを、何の関係もない市井の商人に売りつけた。
意味が分からず、聞いてみるとやはり……
「その方がアナタが困ると思って」
僕をじっと見ているようで見ていないような……
いつもと変わらない美しい表情で……
ステキな顔ね、とリセリーナは言った。
僕は結局、通報もせず、薬も資料も処分しなかった。
――床への作業が終わり、仕掛けの位置を確認しながら、次は柱へと近づく。
そして、結局こうやって、彼女の望む仕掛けを、言われるがまま作り続けている。
多くの人を巻き込むこれが、一体何を生むのか。
彼女の思惑は相変わらずワケが分からない。
暗い大広間に、たった一人。
孤独な作業に没頭している自分は、一体何をしているのだろうか?
僕はただ……確信が欲しかった。
僕が望むような愛情を、彼女が持ってくれているのかを。
疲れのせいか、溜息が漏れた。
柱に背を預け、寄りかかる。
大窓から降り注ぐ月光が、なんだかとても儚いものに見えた。
「愛とは、相手が望む事を、叶えるものではなかったのか?」
……僕が今、しているように。
再び、懐から小瓶を取り出す。
淡い月光を反射した。
……彼女の目を盗み、さらなる改良を加えた、このノクスミア”γ”。
こいつで感情を引きずり出し、リセリーナの本心を、彼女の愛を……知りたかった。
……だけど、もしも、
増幅された彼女の愛が、何一つとして変わらなかったら、どうなるのだろう。
自分は絶望に陥るのだろうか?
それとも……安心してしまうのだろうか?
「……僕は彼女を愛している。 彼女は僕を愛している」
言い聞かせるように、漏れ出た独り言を噛み締める。
「……ならば、なぜ、こんなにも満たされないのだろうか?」
無意識に、胸元の服をきつく握りしめた。
……………
誰もが明日を止めようとしていた夜に、明日を待ち望む男がただ一人。
あらゆる思惑の色で彩られ始めた、アルテノット男爵邸舞踏会。
止まる事の無い奔流の支流は、ここにもあった。


