机上に置かれた一通の封書。
見た目には何の変哲も無い。
それでもヴァルグレイの視線は、吸い寄せられたように封書へ留まった。
すぐに手に取り、裏返す。
封蝋に刻まれた紋章は、見覚えのあるものだった。
ここ数日、彼が何度も目にした印――アルテノット男爵家の紋章。
宛名は、ヴァルグレイ・ゼオファルド。
呼吸を一つおいてから、ペーパーナイフを手に取り、中の書状を取り出す。
そこには彼の予想通り、アルテノット男爵邸で舞踏会を開く旨が記されていた。
いくつかの文言に目が留まる。
『皆様にとって、忘れがたい夜となりますでしょう』
『是非とも、奥様もご同伴のうえ、お越しくださいませ』
紙を押さえる親指に、わずかに力が籠もった。
……挑発か?
事件を起こすから止めてみろ、と。
そこにハルネも連れてこい、特等席で見せてあげる、と。
……考え過ぎだ。
ハルネが関わる件は全て過敏に、そして過剰に考えてしまう。
ようやくその自覚を持ち始めた。
愉しければ良い、というあの女の事だ。
自分を呼べばもっと面白くなる。
それ以上の事は考えていないだろう。
「……まぁ良い」
思わずそう独り言をつぶやいたのは、この書状は無意味になると分かっているからだ。
招待状には、明日の夜に開催と書いてある。
夜会が予定されていることは、ハルネからの情報や捜査上の噂で把握していた。
そして、今夜にでも、申請した強制捜査の許可が下りるだろう。
明日の舞踏会が開かれる事は、無い。
ヴァルグレイはそう確信し、状況の確認のため、局長室へと向かった。
―――――――
「……なんと、言いました?」
局長机の前で、ヴァルグレイは聞き返した。
聞き違いであってほしいという動揺が、その声に滲んでいた。
「いや、だからさ。 やられたね、って。 参ったよ」
重厚な椅子に背中を預けたセーヴラン。
両手を頭の後ろに組みながら、もう一度、ヴァルグレイへと繰り返し伝えた。
口調は軽いものだったが、目が笑ってはいなかった。
「強制捜査は出来ない。 私も残念だよ、ヴァルグレイ」
「……何故ですか?」
落ち着いた口調だが、隠し切れない不機嫌な声。
セーヴランは肩をすくめ、机の書状をヴァルグレイへと滑らせた。
「これを見たまえ」
「……これは……オルヴェリス公爵家の紋章?」
一目見ただけ分かる、上質な紙と精緻な紋章。
「そう。 よりにもよって公爵本人から「娘の舞踏会を邪魔するな」という横やりが入った」
「……待ってください。 いかに公爵家といえど、法を蔑ろにすることは」
「まぁ落ち着きたまえよ」
セーヴランは、組んでいた手をほどき、身を起こす。
「その中身を見れば分かるがね。 依頼されているのは「延期」なんだよ」
「……なっ…………くっ」
ヴァルグレイは即座に理解し、書状を握る指に力が籠もった。
捜査を止めろという要求ならば、法で対抗する事も出来る。
しかし、延期を求められれば――これは面子と政治の話となる。
押し黙ったヴァルグレイに、セーヴランは続ける。
「しかも公爵は「夜会が終わった後まで捜査を妨げるつもりはない」と仰っている。 『娘が初めて主催する夜会なんだから』と。 親心でそう言われちゃったら……ねぇ?」
「……無理にでも強制捜査を執行すれば、各方面を敵に回すことになる」
貴族社会の歯がゆさに、ヴァルグレイは奥歯を噛んだ。
「……しかし! リセリーナが事件を起こす事は間違いないっ!」
「だとしてもだよ、ヴァルグレイ。 それに、もう一つ理由がある」
「……なんでしょうか」
もはや不機嫌を隠そうともしないヴァルグレイに、セーヴランは面白がるように口元を緩めた。
もう一枚の書類を手に取り、ひらりと彼に放った。
「コレだよ、コレ。 エスタラン侯爵邸のグラスから、ノクセリウムの反応が出たっていうコレ」
「……それが、何か? リセリーナが混入させたという明確な証拠ではないですか」
「キミは……ハァ……」
セーヴランは、呆れたように溜息を吐いた。
「キミは本当に、彼女の事が絡むと判断が鈍るんだねぇ。 いいかい? グラスに入ってたのがノクセリウムだとしても、リセリーナ嬢が入れたという証拠にはならないよ」
「っ! ……し、しかし、リセリーナ自身が混入させたとハッキリ言っている!」
「それも、人伝だろう? 彼女が改めて否定してしまえば、それで終わりだ」
「……っ、ぐっ……」
ヴァルグレイは二の句を継げなかった。
らしくないヴァルグレイの様子に、セーヴランは思わず笑みをこぼす。
「こんな簡単な事も分からないなんて、つくづくキミらしくもない。 ……まぁ、私としては大変面白いがね。 フフ」
表情を崩していたセーヴランは、ふいに声の温度を戻す。
「でもね? 実は私も、同じ判断をしていたんだよ。 屋敷を捜索すれば、言い逃れのできない証拠は出るだろうと。 強制捜査は許可するつもりだった」
「……そこへ、公爵家の横やりが入った、と」
「そうだ。 リセリーナ嬢の事は私も噂で多少は知っているからね。 何より、昔キミを公爵に紹介したのは私だし……」
「…………」
気まずそうに顔を逸らすセーヴラン。
だが、ヴァルグレイはそれに気を掛ける余裕は無かった。
顔を伏せ、件の招待状に視線を落としていた。
「とにかくそういう事だ。 ……で、どうするかね? ゼオファルド副局長。 次なる手は」
「…………私が内部に潜入し、止めます」
いつの間にか握りつぶしていた招待状。
ヴァルグレイはそれをセーヴランへ向けた。
「そうだな。 私もそれが良いと判断する。 何しろ正式に招待されているのだろう?」
「……はい。 リセリーナは享楽に酔う狂人だ。 やることは、ある程度は想像もつく。 彼女の思惑を見抜き、必ず阻止します。 問題は……」
「パートナー、か。 また彼女に頼……巻き込むのかね?」
あえてセーヴランは煽るように言い直した。
ヴァルグレイは、反応せず言葉を続ける。
「……リセリーナが具体的に何をしてくるかは分からない。 ハルネを一人にしておく方が危険と判断します。 傍に置き、近くで守る方が、合理的です」
「ふむ、一理ある、が……」
セーヴランは、腕を組み、ゆっくりと椅子に背を戻す。
「ヴァルグレイ、お前の覚悟を聞いておくぞ。 彼女を……守り通せるのか?」
面白がって煽る姿勢を崩さないセーヴラン。
「……今度こそ必ず、守り通します」
ヴァルグレイの声が、ひときわ低くなる。
「彼女に害をなす者は」
刹那――部屋の音が、消えた。
「……排除する」
漏れ出た殺気に、思わずセーヴランは息を飲んだ。
それは、普段の威厳とも、理知的な冷静さとも違う。
名づけるならば――狂気。
飄々とからかっていたはずのセーヴランは、気づけば、自らの腕をさすっていた。


