翌朝、身支度を整えた私が向かったのは、調査局ではなかった。
まだ人の気配がまばらな朝。
見慣れた木製の看板が春風に揺れる。
窓辺の花に留まっていた鳥たちが、囀りながら石畳へと降りていった。
ベニヤ板に貼られた「休業」の貼り紙。
これを目にする度に胸が痛んだ。
しかし、今はそれを気に留める余裕すらなかった。
「毎度! じゃあ頑張ってな」
「マーレンさんもね。 細かい家具も今度入れるからまた勉強してね」
「ハルネちゃんはホントしっかりしとるねぇ」
入り口から、ハルネと共に、三人の男が出てくる。
話しぶりからして、先頭の中年男が家具屋の主らしい。
気配を隠すこともなく、ぼうっとその場に立っていた。
男達を見送っていたハルネが、目ざとく自分を見つける。
「あっ……ヴァルさま!」
ぱぁっと太陽のように明るくなった表情で、こちらに駆け寄るハルネ。
その笑顔を見ているだけで、身体に活力が漲っていくのを感じていた。
「…………この笑顔を……」
「うん? 何?」
「……いや、何でもない。 おはよう、ハルネ」
「えへへ、おはよう! 今日はどうしたの?」
私はその問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。
昨夜から続く、安定しないままの感情。
フラフラと足を向けてしまったのが、ハルネのいるサフラン香房だった。
「あっ! 道端で立ち話もなんだね。 入って入って!」
ハルネは、強引に私の袖を引っ張り、中へと導く。
抵抗する気にはならなかった。
―――――――
香房に入ってすぐに目に入ったのは、薄いピンク色の大きな商品棚だった。
上部にある大きな飾りアーチが、洒落た作りになっている。
「……なるほど。 さきほどはコレを搬入していたのか」
「オシャレでしょ? ちょっと高かったけど買っちゃった!」
腕組みをしながら胸を張り、ふんすと満足げな顔で棚を眺めるハルネ。
押し上げられた豊かな膨らみが、柔らかくゆさりと揺れた。
ハルネを横目には見ていたが、思わずそれに目が吸い寄せられた。
普段ならば、即座に視線を逸らしている。
だが今日は、そこからさらに、みずみずしい唇へと視線を滑らせてしまう。
邪な視線に自ら驚く。
振り払うように顔を背けた。
見なかったことにしたいとばかりに、眉間を強く揉む。
「? 頭痛いの? ヴァルさま?」
「……いや、そうでは無い。 ……が、本当に済まない」
「??」
意味の分からない謝罪をしてしまったが、特に気にしない様子でハルネは尋ねる。
「そういえば、今日はどんな御用なの?」
「…………ああ」
思わず生返事をしてしまったが……何と言ったモノか……
無意識にフラフラとここへ来てしまったが、考えられる理由はいくつもあった。
焦燥感に駆られて……
ハルネの顔が見たくて……
声が聴きたくて……
どれもが伝えられるものでは無かったし、適切では無かった。
一番の理由は……
――この胸のざわつきを、キミなら鎮めてくれる気がしたからだ。
もちろん、言えるはずも無かった。
「ん~? どったの? ヴァルさま、今日は様子が変よ?」
「……いや」
顔を覗き込もうとするハルネから、もうすっかり覚えてしまった花茶のような香りが舞う。
鼻腔をくすぐり、心をさらに掻き乱す。
混迷極まる心に、寝不足気味の頭。
さらには正体の分からぬ焦燥感から、自分でもまったく思ってもみない事を口にした。
「……食事を、作ってくれないか?」
何を言ったのか、一瞬理解ができなかった。
彼女の香りに包まれて、以前振る舞われた朝食の温かさを思い出してしまったか。
「なになに? んふふ~、ヴァルさま、あたしのご飯食べたいの? もう、しょうがないなぁ~」
しょうがないと口にしつつ、見た事もないくらいに機嫌の良さそうな笑顔のハルネ。
そのような顔で応えられてしまっては……
私は、前言を撤回する機会を失った。
「シャリエナ~……は、今いないんだった。 まあいいか、朝ごはん一丁ぅ!」
ハルネの元気な声とともに、店の奥の家屋へと引っ張りこまれた。
―――――――
「待っててねー、そんなに時間かからないからさ」
ハルネは、手慣れた様子で食材を切り、フライパンを転がし、ポットを温める。
私は、キッチン前のテーブルに座らせられていた。
どこか手持ち無沙汰に、ハルネの背中をぼんやりと見守る。
目の前にはハーブティーの淹れられた湯飲みが一つ。
キッチンに入ってすぐに、ハルネが淹れてくれたモノだ。
こういうささやかな気遣いもまた、彼女の優れた一面だとあらためて見直す。
「ふんふふんふ~ん、たんたんたたん、とぅららー」
機嫌の良さそうなハルネが、愛らしい鼻歌交じりに、手際よくキッチンを回す。
遠い昔、誰かに無条件で世話を焼かれていたころの記憶が蘇る。
自分の我が儘を聞いてくれて、自分のために手間を掛けてくれるハルネ。
温かい……
目の前に彼女がいるだけで、それだけで心がじんわりと温まる。
後ろ姿を見ているだけで、知らない何かで満たされていくようだった。
……だが、この温もりも……
ほどけかけた心の奥で、暗いものが再び燻り始める。
「あい、出来たよー」
ハルネの陽気な声は、ほの暗い火種すらも、かき消してくれた。
……………
溶けたバターが乗せられたトースト。
隣に添えられた、ソースが掛かった厚切りのロースト肉と炒った卵。
それに、かるく胡椒を振った野菜たっぷりの温かいスープ。
「簡単な物だけど、お肉は美味しーよ」
一つ一つが家庭的で、どれもがきちんとした一手間が加えられた料理だった。
「エスタラン侯爵さまの所で食べた軽食の方が、美味しいかもだけど」
「……そんな事は全く無い。 どれもが私にとって、コレ以上ないほどの馳走だ」
ハルネの謙遜に返した言葉は、決して世辞では無かった。
自分と最も縁遠いと思っていた温かい料理。
以前振舞ってもらったパンケーキと同様に、どこまでも染みわたる味だった。
ハルネは、食事をする私の前に座り、頬杖をついてジッと見つめる。
その表情は、さきほどから変わらず、ずっとニコニコと、楽しそうだった。
そんな彼女に見守られる朝食は、また一つ、彼女との大切な思い出の欠片となった。
「……馳走になった」
「はい、お粗末様でしたー。 コーヒー淹れるね」
片付けも手際の良いハルネを手伝おうとするも、軽い動作で止められた。
一緒に沸かしてあったのか、それほど間もなく目の前にコーヒーの入ったカップが、二つ並ぶ。
「……いきなり食事などを催促してしまって、すまなかった」
「いいのいいの。 むしろヴァルさまに、今日もちゃあんとご飯を食べさせられたんだから! 達成感よ! 達成感!」
むん、と拳を握りこんでアピールするハルネ。
「そいで? 今日はどうしたのさ? 何かお話、あるんだよね?」
両手に持ったカップでコーヒーを啜りながら、ハルネは確信したように問う。
しかし、私は、またしても困ってしまった。
そう。
合理的な自分が、何の理由もなしにココへ来るハズは無い。
ハルネは私の性質をよく理解していた。
「……理由が無くては、ダメなのか?」
「え!?」
素直な感情が口に出た。
ただ単純に、嘘を吐きたくなかった。
「う、ううん……理由が無くても会いに来てくれるのは、嬉しいよ。 ……うん。 いっぱい、会いに来てよ!」
「……ならば、その言葉に甘える事にしよう」
「甘える、かぁ……んふふ、そうだね。 今日のヴァルさまは甘えたさんだね」
ああ……そうか。
私はハルネに、甘えているのか。
どちらにせよ、このまま仕事に戻っても、再びあの焦燥に胸を焼かれるだけだ。
ならばいっそ……
カップを包んでいた、ハルネの左手。
手を伸ばす。
そして、そっと両手で包み込んだ。
「あっ……」
「…………」
ハルネは嫌がる事は無かった。
少し戸惑った表情を見せた後、心配そうな様子を見せた。
「ヴァルさま、どうしたの? やっぱり何か……悩んでるの?」
その声は、どんなものよりも慈愛に満ちていた。
「……悩み、では無い。 ……すまない、イヤでは無いか?」
「う、ううん、全然。 あたしの手で良かったら使って? ぷにぷにだけど!」
自虐を含んだ言葉に引っ掛かりは覚えたが、黙ってその手を撫で続けた。
満たされぬ想いが、さらに強くなった。
「……ハルネ。 頼みがある」
「な、なあに?」
……触れたい。
「……手袋を、外してくれないか…………キミの手で」
「…………うん」
理由を問うことなく、ハルネは頷いた。
手袋の中指の先をつまみ、ゆっくりと、一本ずつ丁寧に緩めていく。
どこか緊張を孕み、しかし優しい手付きで、白い手袋を脱がせていく。
やがては、素手が露わになった。
自分の硬く節立った手の甲と、ハルネの真っ白で柔らかな手を見比べる。
その肌の色とキメ細かさの違いに、欲望の鎌首がもたげかかった。
ハルネの生唾を飲みこむ音が聞こえ、私は正気を取り戻す。
……大切に扱わなければ。
ハルネの左手を包み込む。
そっと……宝物に触れるように……
「んっ……」
ハルネが思わず呻く。
白くふっくらとした手は、驚くほど温かかった。
「……温かい」
「ヴァルさまの手は……ひんやりしてる」
彼女の存在を確かめるように。
彼女のカタチを確かめるように。
ただひたすらに撫で続けた。
包み込んでいた指を、ハルネの指の間へとそっと差し込んだ。
ハルネは何も言わずに受け容れて、互いの指が、隙間を埋めるようにぴったりと合わさった。
……もっとだ。
さらなる温もりを求めようと、絡み合う手を、ほんの少しだけ引き寄せた。
「……っ」
ハルネの指が、ほんの一瞬、逃げるように抵抗を返した。
しかし、それも刹那の出来事。
やがて恐る恐ると、力を抜いてくれた。
私はそのまま顔を伏せ、
ハルネの存在の尊さに……祈りをささげた。
……………
祈るように顔を伏せるヴァルグレイ。
ハルネは、自らの右手を、彼の左手の甲へ添えようとした。
しかし……
その手は途中で止まった。
この日、ずっと機嫌よく笑顔だったハルネ。
その表情に、ふっと影が差した。
「ダメなのに……」
小さな呟きと共に、大粒の涙が頬を伝い、テーブルの上にぽたりと落ちた。
ヴァルグレイは、その涙に気付かない。
顔は伏せたまま、絡める指の力が、わずかに強くなっていた。
透明な祈りは、いつの間にか形を変えていた。
(……渡さない)
さらなる温もりを求めるように、指先がにじりと蠢く。
閉じていた右目がゆっくりと開く。
その琥珀色の瞳の奥底には――鈍色の影が沈んでいた。
~ 第6章 ―完― ~


