浅い眠りだった。
夢の残滓が、まだ意識の底にこびりついている。
あの声も、色も、柔らかさも……
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、そこには見慣れた副局長室の天井。
深い呼吸を一つ。
吐いた息が、そのまま自分の気分の重さを引きずっていた。
身体を起こす。
短い睡眠でも、疲労が多少は和らいだようだ。
だが、胸の奥には泥のようなものが沈んでいる。
あの日の感情を掘り返した忌々しい夢を恨む。
私は、のそのそと机へ向かった。
―――――――
あの営業停止を命じた時点で、職を失う覚悟はとうに出来ていた。
そのための、辞表だ。
調査局副局長の権限は強い。
濫用は決して、許されない。
しかし、彼女を守れなくなる事態だけは、回避せねばならない。
そのための上申書へ、自分が捜査に必要である理由を書き連ねていく。
最後には情にさえ訴えた。
なりふり構ってなどいられなかった。
ひと段落書いた所で、深く息をつく。
短い睡眠を取ったとはいえ、まだまだ寝不足には違いない。
細かい文字を追うだけでも、目の奥に疲労が溜まっていく。
目の付け根を揉みながら、しばし手を止める。
――眼帯を外してしまおう。
もう随分と遅い時間になってしまった。
どうせ誰も来やしない。
左目の眼帯を外し、明かりの眩しさに慣らしながら、再び書類との格闘を再開する。
以前はどんなに疲れていても、仕事中に魔眼封じの眼帯を外す事など思いつきすらしなかった。
呪いを断ち切ったワケでもない。
人の本性は、やはり悪意だ。
そう考える私の根底は、今も変わらない。
だが、こうやって、自ら眼帯を外そうと思えるようになったのも、全ては彼女のおかげだった。
苦しみは消えない……が、以前ほどでは無い。
彼女の前向きな信念は、間違いなく私に影響を与えていた。
その一方で覚えてしまったのは、彼女への罪の意識と……執着。
今朝会ったばかりだ。
それなのに、もう彼女の声を聴きたくなっている。
さきほどの夢のせいだろうか?
両目を閉じ、昨夜の彼女のドレスを思い出す。
可憐な姿だった。
彼女が「ゼオファルドの妻」と名乗るたび、なぜだか私の方が誇らしい気持ちになった。
晴れがましさとも、独占欲ともつかない何かが、胸を満たしていた。
……そんな資格など、私には無いのに。
彼女を求める度に、罪の意識が蘇り、そこからまた彼女を想い……
その連鎖は、私の頭を一層おかしくするのには十分だった。
今も、そうだ。
二段目の引き出しを開ける。
そこには……
彼女の署名の書かれた書類。
彼女に贈ったロザリオの替えのチェーン。
彼女が身に着けていた焼け焦げたケープの切れ端。
彼女と揃いの琥珀のピアス。
そして……
「む……」
もう一つあるはずの物が無い事に気付く。
すぐに、ひと眠りする前に胸ポケットに入れた事を思い出し、取り出す。
桜を象ったピアス……
ハルネに琥珀のピアスを贈る際、彼女から預かった物。
私は、それを預かってすぐに、当たりを付けていた小物屋に走り、同型の品を手に入れた。
……すり替えるつもりだった。
だが、受け取る際に、彼女が大切そうに扱っていたのが引っ掛かった。
「じゃあ、お願いします」と、私を信じる無垢な彼女の表情が、残っていた良心に強く刺さった。
今朝方、シャリエナ嬢に「色が違う」と指摘された時はヒヤリとした。
私の疚しさを感じ取ったのだろうか?
しかし、それは杞憂だった。
――結局、すり替える事は出来なかったのだから。
不要となった、偽物の桜のピアス。
それでも、彼女が身に着けているものと同じというだけで、捨てられずにいた。
役目を失ったはずの軽いピアスが、やたらと重く感じる。
掌の上の桜の花弁が、何かを責めるようにきらりと光る。
今は決心がつかない、と、桜のピアスを引き出しへと戻した。
そして、いつものように、焼け焦げたリボンケープの切れ端を取り出す。
彼女が、直接身に着けていたモノ。
あの日の彼女が、身に着けていたモノ。
焦げた布からは、もう彼女の香りなど残ってはいない。
両手でそっと包み、祈りを捧げる。
こうして彼女の残滓に縋りつく事でしか、正気を保てなかった。
彼女を傷つけた負い目。
救ってくれたことへの感謝。
その志と信念への畏敬。
そしてそれ以上の、焦がれ……
どの思いも正しく、どの思いも苦しい。
嗚呼、せめてもう一度だけ教えてくれ、ハルネ。
この感情を、一体何と呼べばいいのか。
願わくば、私を許…………さないでくれ。
――私は、もう、狂っている。
―――――――
ヴァルグレイが書類を書き上げた頃にはすっかり深夜だった。
呼び出されている手前、向かわないワケにはいかなかった。
局長も、自分に負けず劣らず忙しい身ゆえ、まだ局長室にいるだろうと当たりを付ける。
書き上げた上申書を手に取り、辞表を懐へ収め、彼は深く息を吐く。
右手を広げ、じっと見つめる。
やがて、強く握り締めた。
「……何があっても彼女を守る」
まるで決意を新たにするように、それを口に出した。
――全てが終わった後、彼女から、離れるべきだ。
彼は椅子から立ち上がる。
机上に残したままのケープの切れ端に気付いた。
彼は、焼け焦げたリボンケープを指でなぞり、折り目をきちんと整える。
そして、それをそっと二段目の引き出しにしまい、部屋を後にした。


