【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



 浅い眠りだった。

 夢の残滓が、まだ意識の底にこびりついている。
 あの声も、色も、柔らかさも……

 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、そこには見慣れた副局長室の天井。


 深い呼吸を一つ。

 吐いた息が、そのまま自分の気分の重さを引きずっていた。
 身体を起こす。

 短い睡眠でも、疲労が多少は和らいだようだ。
 だが、胸の奥には泥のようなものが沈んでいる。

 あの日の感情を掘り返した忌々しい夢を恨む。

 私は、のそのそと机へ向かった。



―――――――



 あの営業停止を命じた時点で、職を失う覚悟はとうに出来ていた。

 そのための、辞表だ。

 調査局副局長の権限は強い。
 濫用は決して、許されない。

 しかし、彼女を守れなくなる事態だけは、回避せねばならない。

 そのための上申書へ、自分が捜査に必要である理由を書き連ねていく。
 最後には情にさえ訴えた。
 なりふり構ってなどいられなかった。

 ひと段落書いた所で、深く息をつく。
 短い睡眠を取ったとはいえ、まだまだ寝不足には違いない。

 細かい文字を追うだけでも、目の奥に疲労が溜まっていく。
 目の付け根を揉みながら、しばし手を止める。


――眼帯を外してしまおう。


 もう随分と遅い時間になってしまった。
 どうせ誰も来やしない。

 左目の眼帯を外し、明かりの眩しさに慣らしながら、再び書類との格闘を再開する。

 以前はどんなに疲れていても、仕事中に魔眼封じの眼帯を外す事など思いつきすらしなかった。

 呪いを断ち切ったワケでもない。
 人の本性は、やはり悪意だ。
 そう考える私の根底は、今も変わらない。

 だが、こうやって、自ら眼帯を外そうと思えるようになったのも、全ては彼女のおかげだった。
 苦しみは消えない……が、以前ほどでは無い。

 彼女の前向きな信念は、間違いなく私に影響を与えていた。

 その一方で覚えてしまったのは、彼女への罪の意識と……執着。

 今朝会ったばかりだ。
 それなのに、もう彼女の声を聴きたくなっている。

 さきほどの夢のせいだろうか?

 両目を閉じ、昨夜の彼女のドレスを思い出す。

 可憐な姿だった。

 彼女が「ゼオファルドの妻」と名乗るたび、なぜだか私の方が誇らしい気持ちになった。
 晴れがましさとも、独占欲ともつかない何かが、胸を満たしていた。


 ……そんな資格など、私には無いのに。


 彼女を求める度に、罪の意識が蘇り、そこからまた彼女を想い……

 その連鎖は、私の頭を一層おかしくするのには十分だった。
 今も、そうだ。

 二段目の引き出しを開ける。
 そこには……

 彼女の署名の書かれた書類。
 彼女に贈ったロザリオの替えのチェーン。
 彼女が身に着けていた焼け焦げたケープの切れ端。
 彼女と揃いの琥珀のピアス。
 そして……

「む……」

 もう一つあるはずの物が無い事に気付く。
 すぐに、ひと眠りする前に胸ポケットに入れた事を思い出し、取り出す。

 桜を象ったピアス……

 ハルネに琥珀のピアスを贈る際、彼女から預かった物。

 私は、それを預かってすぐに、当たりを付けていた小物屋に走り、同型の品を手に入れた。


 ……すり替えるつもりだった。


 だが、受け取る際に、彼女が大切そうに扱っていたのが引っ掛かった。
 「じゃあ、お願いします」と、私を信じる無垢な彼女の表情が、残っていた良心に強く刺さった。

 今朝方、シャリエナ嬢に「色が違う」と指摘された時はヒヤリとした。
 私の疚しさを感じ取ったのだろうか?

 しかし、それは杞憂だった。
 

――結局、すり替える事は出来なかったのだから。


 不要となった、偽物の桜のピアス。

 それでも、彼女が身に着けているものと同じというだけで、捨てられずにいた。

 役目を失ったはずの軽いピアスが、やたらと重く感じる。
 掌の上の桜の花弁が、何かを責めるようにきらりと光る。

 今は決心がつかない、と、桜のピアスを引き出しへと戻した。

 そして、いつものように、焼け焦げたリボンケープの切れ端を取り出す。

 彼女が、直接身に着けていたモノ。
 あの日の彼女が、身に着けていたモノ。
 焦げた布からは、もう彼女の香りなど残ってはいない。

 両手でそっと包み、祈りを捧げる。

 こうして彼女の残滓に縋りつく事でしか、正気を保てなかった。

 彼女を傷つけた負い目。
 救ってくれたことへの感謝。
 その志と信念への畏敬。

 そしてそれ以上の、焦がれ……
 どの思いも正しく、どの思いも苦しい。

 嗚呼、せめてもう一度だけ教えてくれ、ハルネ。

 この感情を、一体何と呼べばいいのか。

 願わくば、私を許…………さないでくれ。
 

――私は、もう、狂っている。



―――――――

 

 ヴァルグレイが書類を書き上げた頃にはすっかり深夜だった。

 呼び出されている手前、向かわないワケにはいかなかった。

 局長も、自分に負けず劣らず忙しい身ゆえ、まだ局長室にいるだろうと当たりを付ける。

 書き上げた上申書を手に取り、辞表を懐へ収め、彼は深く息を吐く。

 右手を広げ、じっと見つめる。
 やがて、強く握り締めた。

「……何があっても彼女を守る」

 まるで決意を新たにするように、それを口に出した。


――全てが終わった後、彼女から、離れるべきだ。


 彼は椅子から立ち上がる。
 机上に残したままのケープの切れ端に気付いた。


 彼は、焼け焦げたリボンケープを指でなぞり、折り目をきちんと整える。

 そして、それをそっと二段目の引き出しにしまい、部屋を後にした。