【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



「うっ……ぐすっ……」

 ステンドグラスを透かす夕射しが、涙に濡れる彼女を美しく照らす。
 吹き込む風に揺れる苺茶色の髪が、儚さと健気さを感じさせた。

 それはまるで、春の幻のようだった。

 そして、そんな彼女の姿を、死角から覗き見る者がいた。

 ……私だ。

 そして気付く。

 これはあの日の夢だ。
 愚かで、みっともない、あの時の私だ。

 私は、あの日からずっと、彼女に心を絡め取られている。



―――――――



 そこは西街の往来。
 真っ直ぐに進めば乗合馬車広場へと続く中通り。

 そうだ……

 あの日の私は、婚約破棄事件の聞き込みをしていた。

 それは本来は一般捜査員がやるべき仕事だった。
 だが、局長に嘯いて現場に出た手前、ある程度の雑務も織り込んでいた。

 そんな折、私は見つけてしまった。


 ――運命の、女性(ひと)を。


 健康的で柔らかな、丸みを帯びたシルエット。
 目尻の下がった無垢な瞳。
 凛とした意志を感じさせる眉。
 陽射しに反射するふんわりとした苺茶色の髪は、彼女の優しい空気を体現していた。

 まるで、春の陽射しをそのまま象ったように、雑踏の中であたたかく輝いていた。

 自分が、女性をなんとなく嫌っている自覚はあった。
 だが、彼女もまた女性なのだという当たり前の事実すら、この時は頭からは抜け落ちていた。

 それほどに、奪われていた。

 光に惑わされた虫のように、私は彼女に吸い寄せられていく。

 視線はやがて、彼女の豊かな身体の線へと落ちていき……
 私は彼女を、どうしても手に入れたくなった。


 ……枯れたハズの自身の欲望が、鎌首をもたげる。


 その……

 どうしようもなく、陽気で。

 どうしようもなく、無防備で。

 どうしようもなく、匂い立つその肢体を。

 触れてはならないと知りながら、男としての視線を向け続けた。


 …………視たい。


 視たい。

 視たい。

 彼女の色を。

 彼女の感情を、この眼で感じ取りたい。

 理性よりも先に、指が眼帯へと伸びた。
 ほんのわずかに持ち上げる。

 彼女から滲み出た色を、映しとった瞬間……


「だ、誰さっ!?」


 !?
 反射的に眼帯を戻す。

 気配は消していたつもりだった。
 しかし彼女は恐るべき勘の良さで、私の視線を感じ取った。

 …………気づかれたか?

 とっさに身を隠した自分の胸の鼓動が、いつにない程に激しく脈打っていた。

 彼女はこちらの方向から視線を切らない。
 確信を持っているかのような様子だった。
 私は、呼吸と鼓動を整えるのに必死だった。

 やがて彼女は、意を決したように、路地裏へと足を運んだ。

 ……魔眼への憎しみ、彼女への罪悪感。
 そのようなものは、この時は一切感じる事はなかった。

 ただ、彼女を、もっと見たかった。



―――――――



 往来のざわめきは、路地を一つ入っただけで遠くなった。

 彼女は、路地裏の樽の影で仔猫のように身を縮めていた。
 私は、見えない位置から屋根に上り、彼女の死角となる場所から様子を窺う。

 名乗るという発想はまるで無かった。
 むしろ、怯えた彼女の姿すら愛おしい、という興奮を覚えていた。

 私は、一瞬たりとも見逃すまいと、彼女の姿を焼き付ける。

 そのうちに彼女は、何かから逃げるように裏路地を走り出した。
 私はそれを追いかける。

 音も立てず、言葉も発せず、彼女を追いかける。

 彼女が、私もよく知る教会へと逃げ込んだ際には、まるで獲物を捕えたかのような、奇妙な独占欲すら感じていた。

 手早く死角に位置取り、長椅子に座った彼女を、再び見つめ続けた。
 教会の中は、外よりもひどく静かだった。

 高い位置に備え付けられたステンドグラス。
 透かされた夕射しが、色とりどりの光の雨を降らせている。

 厳かな光は、彼女の丸みを帯びた身体をやさしく彩っていた。

 愁いの表情を見せる彼女は、まるで女神のように見えた。
 私は無意識に、胸に手を置いていた。

 ……だが、私の奇妙な高揚も、そこまでだった。

 
「うっ……ぐすっ……」


 耳に届いた、嗚咽まじりの声。 
 

 ゾッと、一気に肝が冷えた。
 

 黒い感情が刹那に消え失せ、背中からどっと汗が噴き出す。

 自分が何をしていたのかを、ようやく理解する。

 彼女を泣かせた――その事実に頭が真っ白になった。

 今すぐ謝罪したかった。
 だが、姿を見せれば、彼女の怯えを助長させるだけだ。

 どうすればいい? 一体、どうすれば……

 ふと、教会のすぐ傍に、顔見知りの神父の家があった事を思い出す。

 そうだ。
 彼に、彼女を慰めてもらうのだ。

 他に考えは浮かばなかった。



……………



 彼女は泣き止み、いつの間にやら笑顔すら取り戻していた。

 ……愛らしい。
 そして、良かった。

 せめてもの慰めになればと、いつも身に着けていた銀のロザリオを神父に託していた。
 これを、機を見て彼女に渡してほしいと。 罪滅ぼしのつもりだった。

 大通りを元気よく駆けていく彼女を見送る。

 これでいいんだ……

 さきほどまでの、まるで正気でなかった自分を思い出し、ゾッとする。
 あんな事は初めてだった。

 今も、彼女の表情を思い出すだけで、正気を失いそうになる。

 ……忘れるべきだ。

 これ以上、彼女を傷付けないために、怖がらせないために……

 その未練と激情を断ち切るかのように、私は、外壁に拳を叩きつけた。


――だが、私の過ちは、これで終わる事は無かった。