忙しない。
サフラン香房を後にしたヴァルグレイは、頭の中で今日の予定を組み直していた。
舞踏会後の後始末に、関係者や各所への確認。
アルテノット夫妻のその後の動向も追わねばならない。
それに、ハルネからの話では、令嬢達の飲み物にもノクセリウムが混ぜられていたらしい。
会場に潜っていたレルガが、すでにグラスを回収している。
分析に回っているはずだが、そちらの結果も確認しておかねばならない。
やるべき事は山積している。
それでも、ハルネの桜のピアスだけは、朝のうちに返しておく必要があった。
リセリーナという黒幕がハッキリした今、焦りを感じ始めていた。
一刻も早く止めねばならない。
ヤツの言い残した「気に入ったわハルネさん」という言葉が、胸騒ぎの色を濃くしていた。
気づけば陽は大きく傾き、調査局へ戻ったのは、夕刻を過ぎた頃だった。
―――――――
「あっ、隊長!」
いつも通り静かな、第二調査局のロビー。
そこには、ヴァルグレイと同じく、今日一日各所に駆けずり回っていたレルガの姿があった。
「……隊長と呼ぶな。 だが丁度よかった。 例のグラスの件、そろそろ分析が終わっているはずだ。 結果を持ってこい」
「へい! 直接ボスの部屋へ持っていきやス? 今日はもう外には出ないんスか?」
威勢よく返事を返すレルガに、ヴァルグレイは即座に返答する。
「……ああ。 私は衣装庫へ寄ってから副局長室に籠もる」
「了解ッス! しかしハル姐さんもやるッスね。 こんな強い証拠が掴めると思ってなかったっスよ。 悪運が強いというか……」
「……余計な口を叩くな。 行け!」
会話したそうなレルガをバッサリ切るヴァルグレイ。
しかし、レルガは不満気な顔一つ見せる事なく、
「へい!」
と、威勢のよい返事をするのだった。
―――――――
相手が平民であれば、副局長の権限で事足りる。
しかし、貴族となれば話は別だった。
貴族相手の強制捜査は、言うなれば宣戦布告だ。
おいそれと行う事は出来ないし、一歩間違えば調査局そのものの責任が問われる。
慎重に書類を揃える必要があった。
何が必要かを確認し、一つ一つ入念に書き込んでいく。
手が止まる事のないヴァルグレイだったが、胸中は先ほどの衣装庫で聞いたトリサの言葉を反芻していた。
――「染みはワイン。 真横から無防備に掛けられた。 それくらいしか分からないでござい」
ハルネはヴァルグレイに対し、令嬢らの件については曖昧に伝えていた。
しかし、あの時のハルネの様子から、何があったかはある程度察しがついていた。
口惜しい……
ハッキリと伝えてくれないハルネに、ではない。
ハッキリと伝えられるほどの信用を得られていない自分に対し、腹が立った。
滅多に感情を表へ出すことの無いヴァルグレイ。
しかし、書類の筆圧は、彼の怒りを示していた。
――コンコン
「ボス。 持って来やした」
ノック後に現れたのはレルガ。
一枚の書類を手にしていたが、なぜかその表情は神妙さを帯びていた。
「……ああ。 …………何か言いたそうな顔だな」
ヴァルグレイは、瞬時に表情を読み取る。
「あ~、えっと~……まずは結果の報告ッス。 グラスの中身から、ノクセリウムと概ね一致する成分が検出された……という事で、改造薬でほぼ間違いないッス」
「……そうか」
ハルネからの証言にもあった「ノクスミア」。
おそらくソレだろうと当たりを付ける。 ここまでは読み通り。
「……分かった。 書類を寄越せ」
書類を受け取ろうとするヴァルグレイだったが、なぜだか抵抗を感じた。
見れば、レルガが指で抑えていた。
「? ……どうした?」
「…………もう一つ、報告があるッス」
指を離したレルガは、神妙な顔をしたまま、それを告げた。
「……副局長。 セーヴラン局長から伝言ッス。 「本日手が空き次第、必ず顔を出すように」と……」
「…………」
書類を受け取ったまま、ほんの少し顔を伏せ、右目を閉じるヴァルグレイ。
レルガにはすぐに分かった。
自分のボスが、とうにその覚悟を決めていた事を。
「あのっ! オレが、ハル姐さんとエナ姐さんを説得しやスよ! 事情を知れば、お二人もきっと……!」
「馬鹿を言うな。 これは私自身の問題だ」
にべもない態度で、再び書類との格闘を始めるヴァルグレイ。
ふと、その筆が止まる。
「……だが、私が動けなくなった時は」
「ちょっと待てよっ!! そんなのボスらしくないッスよっ!!」
上司への体裁も整えず、声を荒げるレルガ。
彼にとって、聞きたくない言葉だった。
「……撤回する。 失言だった」
「…………」
「……そんな顔をするな。 この事件だけは、何としても私自身の手で解決するつもりだ」
「ボス……」
その言葉を受けても、レルガの胸中は穏やかではなかった。
しかし、ヴァルグレイは書類に向き合い、顔を向ける事は無かった。
「……だが、先ほどの言葉は、決して上司に対して言うべきモノではないし、貴様の提言も組織の綱紀を乱す行為だ」
「やっべ……」
書類を書き上げたヴァルグレイは、席から立ち上がり、レルガの正面に立つ。
真っ直ぐ見下ろすその視線からは、いつもの威圧感は感じなかった。
「……しかし、それも上司を慮った忠言であったと認め、不問とする。 これを局長へ渡してこい」
それは、アルテノット男爵邸の強制捜査の許可を求める書類だった。
「…………了解しやした。 ボスは?」
「……私はもう少し書類を整えた後、局長の元へ向かう。 行け」
ヴァルグレイはそれっきり、机に座り書類と向き合う。
レルガは、なるべく音を立てず、副局長室を後にした。
ふたたび静寂の訪れた副局長室。
ヴァルグレイは机の一段目の引き出しを開け、一枚の書類を取り出す。
それは、職を辞す旨をしたためた文書――辞表だった。
彼は、処分を免れるつもりなど毛頭なかった。
……………
捜査書類をキリの良い所まで終え、ヴァルグレイは肩を回した。
一気に書き上げたためか、集中が切れた途端、どっと疲労が押し寄せた。
続けざま、辞表へと手を伸ばしたところで、頭がまるで働いていない事に気付いた。
ここ数日、ろくに眠れてはいなかった。
寝不足の原因はハッキリしている。
ハルネだ。
彼女に出会った日から、安らかな睡眠は絶望的となった。
ふいに、今朝方に会った、寝間着姿の彼女を思い出してしまう。
疲労で緩んだ思考の隙間に、ハルネの姿が入り込む。
ずれた肩紐。 寝グセの跳ねた苺茶色の髪。
その先に考えが及ばぬよう、衝動を抑え込むのに必死だった。
――ヴァルグレイは、二段目の引き出しを開けた。
ハルネの署名が残る書類。
焼け焦げたケープの切れ端。
その下から取り出したのは、二つのピアス。
一つは、自身が昨日身に着けていた、ハルネと揃いの琥珀のピアス。
そして、もう一つ。
桜の花びらを模した、ピアスがあった。
掌の上に乗せ、じっと見つめる。
その小さな重さを、しっかりと確かめる。
しばらく無感情に見つめていた。
だが突然、ピアスを握りしめると、机の横のゴミ箱へ叩きつけようと腕を振り上げた。
長い逡巡の末、それは……叶わなかった。
上げた腕をゆっくりと下ろす。
引き出しへ戻すことすら出来ず、桜のピアスを胸ポケットへと押し込む。
「……疲れているようだ」
独り言をつぶやきながら、眉間を指で揉む。
窓際に寄せてある応接用のソファが目に入った。
――ほんの少し休むだけなら、支障はないだろう。
重い身体をソファへと預け、そのまま横たわった。
腕で目を塞ぎながら、先ほど自身から沸き上がった衝動的な欲望を、深呼吸で押さえ込む。
呼吸を整えていると、睡魔が忍び寄ってきた。
眠りに落ちる寸前、彼の脳裏にハルネの姿が浮かぶ。
それは、馬車の中で甘えた上目遣いを向け、その身を自分に預けてきた彼女だった。


