【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



 馬車の窓の外、魔石ランプの灯りに彩られた夜の街の景色が、ゆらゆらと流れていく。

 石畳を踏む車輪の音は、どこか遠くの出来事のように輪郭が無かった。

 防音の魔道具のおかげか、それが耳障りに感じる事はない。
 ただ、揺れだけが、現実を教えてくれていた。

 遠くに見えた橙色の灯り。
 さきほどまで滞在していた侯爵邸はもうすでに遠い場所。


――さっきまであそこにいたんだ。 あんな、賑やかな場所に……


 いたたまれなくなり、窓の外から正面へと視線を戻す。
 すると、オジさまが静かにこちらを見据えていた。

 強い存在感。
 でも緊張した感じはしない。

 表情からは感情を読み取れない。 
 あたしから視線を外す事は無く、ただ自然体で見つめていた。

 気を遣ってくれている事は伝わって来た。
 居心地の悪さから、今度は下に視線を落とす。
 暗い馬車内でも分かるくらい、ワインの赤い染みが見てとれた。

――目を逸らすようにギュッと目を閉じた。

 綺麗なドレス……汚しちゃった…………ごめんなさいっ。

 行きでの馬車を思い出す。 ほんの小一時間前の事。

 あの時は緊張とワクワク、そしてあたしに出来る事を頑張ろうって、前向きな気持ちがたくさんあった。

 それが今はどう?

 疲れちゃって、頭も回らなくて、心の一部が砕けたような消耗感があって……

 ドレスも汚しちゃって……リセリーナさん相手に、何も出来なくて……

 ただただ無力感だけが残っている。

 オジさまは、大丈夫って言ってくれたけど、全然役に立てなかった。

 迷惑を……かけた。

 誤魔化すように窓の外に視線を戻す。

 鼻の奥がつんとして、唇にも力が入った。
 一人だったら、もう嗚咽が混じっていた。

 でも今は、オジさまが目の前にいる。
 情けない姿を見せたくない。

 でも、一人きりじゃない。
 強がる気持ちと安心が混ざり合って、ますます喉の奥がきゅっと詰まった。


――甘えたい。


 こういう時、あたしは誰かに甘えてきた。

 それは時にシャリエナだったり、お母さんだったり、リゼラちゃんだったり。
 だってあたしは、一人で悩みを抱えられるほど、強くない。

 あたしは、一人は、本当にダメだった。

 孤独が怖いのもきっとそれ。
 誰かと繋がっていないと、身動きすら取れなくなる。

 あたしは、弱い……

 だからって、オジさまに、甘えてもいいの?

 迷惑をかけたのに?

 拒絶されるのは怖いよ……

 だったら、したくない。

 いつもの言い訳。

 だって、あたしは選ばれない。

 だって、あたしは太……

 ふと、アルテノット夫妻の姿が浮かんだ。
 ふくよかな男爵さまの腕を、嬉しそうに取るリセリーナさん。

 疑いようも無いくらいハッキリ示されたルビーの愛情色。

 それなら、あたしだって……愛される、の?

 考えが深くなるにつれて、怖くなって思わず両腕で自分を強く抱いた。


「……寒くないか?」


 オジさまの声。
 優しい声。 素敵な渋い声。 大好きな……声。

「うん……だいじょぶ」

 反射的に返事をした。
 何を聞かれたのかも、ちゃんと考えられなかった。

 ただ、あたしの様子をじっと見てくれている、オジさまの気持ちだけが、嬉しくて。

 それはきっと無意識の行動だった。

 限界まで膨らんだ気持ちに、身体が勝手についていく。

 オジさまの元へ向かおうと、腰が浮いた。


――でも……やっぱり…………


 我に返って、踏みとどまる。

 あたしの気持ちの限界はここ。
 だって許されるワケがない。

 落ち着け落ち着けと念じると、気持ちは段々と治まってくる。

 よし、あともう少し……


――ガタンッ!!


「わっ!!」
「……くっ!」

 石にでも乗り上げたのか、大きく馬車が揺れた。
 身体が座席から浮いて、前へ投げ出される。

「…………」
「……ケガは、無いな?」

 次の瞬間には、あたしはオジさまのたくましい腕に、抱き留められていた。



―――――――



「…………」
「…………」

 あたしの頭を、胸に抱き留めてくれたオジさまは、なぜかそのまま離す事は無かった。

 それが、あたしには、とても都合が良かった。

「オジさま……」
「……なんだ?」
「……あたし、重くない?」
「いや、まったく」

 あたしは、それを「許可」だと受け取った。

 オジさまの背中に腕を回し、頬を胸に密着させる。
 生地が厚いせいか、心臓の音は聞こえなかった。

 あたしはその音が聞こえるようになるまで、ぎゅうっと抱きしめる力を強める。

 あったかい……
 人の感触が、オジさまの存在が、安心をくれる。

 良い匂い……いつか嗅いだアンバーの香りの、どこか清涼感のある……
 胸いっぱいに吸うたびに、頭が熱くなってトロけそうになった。

「すぅ~~…………はぁ」

 心地よさに吐息が漏れる。

 そうやって身体を押し付けていると、もっと甘えたい気持ちが湧いてきた。

 もう、止められなかった。
 

「オジさま……ごめんなさい」


 これは、甘えの謝罪。

 絶対に否定してくれるって、どこかで分かっていて言っている。

 そんな、利己的な甘え。

「……なにがだ?」

 オジさまは、あたしに縋りつかれたままの姿勢で問いを返す。

「あたし……上手く出来なくて、ドレスも汚しちゃって、リセリーナさん相手にも、上手く立ち回れなくて……」
「……先ほども言ったが、気にする事はない。 キミは、よくやってくれた」
「迷惑、かけちゃった……」
「……迷惑など思う必要も無い。 大丈夫だ」

 オジさまはそう言って、頭を優しく撫でてくれた。
 背筋がぞくぞくして、頭の奥がじんわり痺れた。

 あぅぅ……好き……好き……好きなんて言葉じゃ足りない……

「オジさま……ごめんなさい……」
「……ああ」

 オジさま、今の謝罪は違う意味なの。
 意地汚い甘えに利用して……ごめんなさいなの。

 でも……
 その罪悪感を押しのける、たしかな幸せ感。

 何にも考えられなくなって、なんだか目もトロンとしてくる。

 あたしは、あたしの甘えを受け入れてくれるオジさまに……
 ドキドキよりも、安心と気持ちよさを感じていた。

「えへへ……」
「……?」

 急に微笑んだあたしに不思議そうな様子を見せるオジさま。

 いいじゃん。

 今は、甘えさせてよ。

 あたしは再び、背中を抱く力を強める。

 オジさまの身体が少しだけ固くなった気がした。

「……ハルネ嬢」

 オジさまのその呼び名に、強い不満を感じた。

「ねぇ、これからも、オジさまの事を”ヴァルさま”って呼んでいい?」

 もうここまで甘えちゃったんだ。
 もう一個くらい、いいじゃん。

「……ああ、ハルネ嬢が、そう呼びたいのなら」
「そう、それ。 あたしの事も”ハルネ”って呼んで? ちゃんと……名前を呼んで? ね?」

 もしも、あたしを、好きなら……

「……ああ、”ハルネ”」
「うん……」

 そう言ってオジさま――ヴァルさまは、あたしをそっと抱きしめ返してくれた。

「んふー」

 嬉しくなって、あたしもまた、抱きしめ返す。
 ヴァルさまの身体が、匂いが、あったかい。

 なんでも受け止めてくれるのが嬉しくて、甘えさせてくれるのが心地よくて。
 出来る事ならこのまま、お互いが、一つになりたかった。

 ねぇ……今なら、今だったらいいよね?

 もう一歩だけ踏み込んでも、いいよね?

 もうちょっとだけ甘えても、いいよね?

 背中に回していた左手を戻し、ヴァルさまの右手を取って、自分の手を重ねる。

 そのまま指も絡ませる。

 手袋ごしだけど……指の感触はしっかりと感じ取れた。

「ねぇ、ヴァルさま……」
「……なんだ」


 新しい絆が欲しいんだ。


「あたしの事、今だけでいいから……”ルネ”って呼んで?」


 ヴァルさまとだけの、特別な何かが欲しいの。


「……”ルネ”」

「うん」

「……ルネ」

「……はい」


 ヴァルさまからだけの特別な呼び名。

 あたしは、まるで猫みたいに、額を胸に擦りつける。
 ふと、息を飲む音が聞こえた気がした。

 その後、ふいに、髪に何かを押し付けられた感触が走った。

 柔らかい何か。
 位置的に、ヴァルさまのお顔。

 あたしはそれが何かを深く考えるのは止めた。

 ただただ、ヴァルさまの胸板に、顔を擦りつけるのに夢中だった。



……………



 石畳を踏む車輪の振動は、どこまでも一定に響き渡る。

 防音が施された馬車内にも、どこまでも一定に響き渡る。

 その音と振動に合わせ、合わさった二つの身体も自然と揺れた。
 到着するまで、それらが離れる事は無かった。


「……神よ……私は」


 ヴァルグレイの呟きは、車輪の音に掻き消され、ハルネの耳には届かなかった。

 ただ、彼の腕の力が少し強くなった。

 それだけでハルネは、満ち足りたように小さく息を吐き、安心して身を預け続けた。



~ 第5章 ―完― ~