馬車の窓の外、魔石ランプの灯りに彩られた夜の街の景色が、ゆらゆらと流れていく。
石畳を踏む車輪の音は、どこか遠くの出来事のように輪郭が無かった。
防音の魔道具のおかげか、それが耳障りに感じる事はない。
ただ、揺れだけが、現実を教えてくれていた。
遠くに見えた橙色の灯り。
さきほどまで滞在していた侯爵邸はもうすでに遠い場所。
――さっきまであそこにいたんだ。 あんな、賑やかな場所に……
いたたまれなくなり、窓の外から正面へと視線を戻す。
すると、オジさまが静かにこちらを見据えていた。
強い存在感。
でも緊張した感じはしない。
表情からは感情を読み取れない。
あたしから視線を外す事は無く、ただ自然体で見つめていた。
気を遣ってくれている事は伝わって来た。
居心地の悪さから、今度は下に視線を落とす。
暗い馬車内でも分かるくらい、ワインの赤い染みが見てとれた。
――目を逸らすようにギュッと目を閉じた。
綺麗なドレス……汚しちゃった…………ごめんなさいっ。
行きでの馬車を思い出す。 ほんの小一時間前の事。
あの時は緊張とワクワク、そしてあたしに出来る事を頑張ろうって、前向きな気持ちがたくさんあった。
それが今はどう?
疲れちゃって、頭も回らなくて、心の一部が砕けたような消耗感があって……
ドレスも汚しちゃって……リセリーナさん相手に、何も出来なくて……
ただただ無力感だけが残っている。
オジさまは、大丈夫って言ってくれたけど、全然役に立てなかった。
迷惑を……かけた。
誤魔化すように窓の外に視線を戻す。
鼻の奥がつんとして、唇にも力が入った。
一人だったら、もう嗚咽が混じっていた。
でも今は、オジさまが目の前にいる。
情けない姿を見せたくない。
でも、一人きりじゃない。
強がる気持ちと安心が混ざり合って、ますます喉の奥がきゅっと詰まった。
――甘えたい。
こういう時、あたしは誰かに甘えてきた。
それは時にシャリエナだったり、お母さんだったり、リゼラちゃんだったり。
だってあたしは、一人で悩みを抱えられるほど、強くない。
あたしは、一人は、本当にダメだった。
孤独が怖いのもきっとそれ。
誰かと繋がっていないと、身動きすら取れなくなる。
あたしは、弱い……
だからって、オジさまに、甘えてもいいの?
迷惑をかけたのに?
拒絶されるのは怖いよ……
だったら、したくない。
いつもの言い訳。
だって、あたしは選ばれない。
だって、あたしは太……
ふと、アルテノット夫妻の姿が浮かんだ。
ふくよかな男爵さまの腕を、嬉しそうに取るリセリーナさん。
疑いようも無いくらいハッキリ示されたルビーの愛情色。
それなら、あたしだって……愛される、の?
考えが深くなるにつれて、怖くなって思わず両腕で自分を強く抱いた。
「……寒くないか?」
オジさまの声。
優しい声。 素敵な渋い声。 大好きな……声。
「うん……だいじょぶ」
反射的に返事をした。
何を聞かれたのかも、ちゃんと考えられなかった。
ただ、あたしの様子をじっと見てくれている、オジさまの気持ちだけが、嬉しくて。
それはきっと無意識の行動だった。
限界まで膨らんだ気持ちに、身体が勝手についていく。
オジさまの元へ向かおうと、腰が浮いた。
――でも……やっぱり…………
我に返って、踏みとどまる。
あたしの気持ちの限界はここ。
だって許されるワケがない。
落ち着け落ち着けと念じると、気持ちは段々と治まってくる。
よし、あともう少し……
――ガタンッ!!
「わっ!!」
「……くっ!」
石にでも乗り上げたのか、大きく馬車が揺れた。
身体が座席から浮いて、前へ投げ出される。
「…………」
「……ケガは、無いな?」
次の瞬間には、あたしはオジさまのたくましい腕に、抱き留められていた。
―――――――
「…………」
「…………」
あたしの頭を、胸に抱き留めてくれたオジさまは、なぜかそのまま離す事は無かった。
それが、あたしには、とても都合が良かった。
「オジさま……」
「……なんだ?」
「……あたし、重くない?」
「いや、まったく」
あたしは、それを「許可」だと受け取った。
オジさまの背中に腕を回し、頬を胸に密着させる。
生地が厚いせいか、心臓の音は聞こえなかった。
あたしはその音が聞こえるようになるまで、ぎゅうっと抱きしめる力を強める。
あったかい……
人の感触が、オジさまの存在が、安心をくれる。
良い匂い……いつか嗅いだアンバーの香りの、どこか清涼感のある……
胸いっぱいに吸うたびに、頭が熱くなってトロけそうになった。
「すぅ~~…………はぁ」
心地よさに吐息が漏れる。
そうやって身体を押し付けていると、もっと甘えたい気持ちが湧いてきた。
もう、止められなかった。
「オジさま……ごめんなさい」
これは、甘えの謝罪。
絶対に否定してくれるって、どこかで分かっていて言っている。
そんな、利己的な甘え。
「……なにがだ?」
オジさまは、あたしに縋りつかれたままの姿勢で問いを返す。
「あたし……上手く出来なくて、ドレスも汚しちゃって、リセリーナさん相手にも、上手く立ち回れなくて……」
「……先ほども言ったが、気にする事はない。 キミは、よくやってくれた」
「迷惑、かけちゃった……」
「……迷惑など思う必要も無い。 大丈夫だ」
オジさまはそう言って、頭を優しく撫でてくれた。
背筋がぞくぞくして、頭の奥がじんわり痺れた。
あぅぅ……好き……好き……好きなんて言葉じゃ足りない……
「オジさま……ごめんなさい……」
「……ああ」
オジさま、今の謝罪は違う意味なの。
意地汚い甘えに利用して……ごめんなさいなの。
でも……
その罪悪感を押しのける、たしかな幸せ感。
何にも考えられなくなって、なんだか目もトロンとしてくる。
あたしは、あたしの甘えを受け入れてくれるオジさまに……
ドキドキよりも、安心と気持ちよさを感じていた。
「えへへ……」
「……?」
急に微笑んだあたしに不思議そうな様子を見せるオジさま。
いいじゃん。
今は、甘えさせてよ。
あたしは再び、背中を抱く力を強める。
オジさまの身体が少しだけ固くなった気がした。
「……ハルネ嬢」
オジさまのその呼び名に、強い不満を感じた。
「ねぇ、これからも、オジさまの事を”ヴァルさま”って呼んでいい?」
もうここまで甘えちゃったんだ。
もう一個くらい、いいじゃん。
「……ああ、ハルネ嬢が、そう呼びたいのなら」
「そう、それ。 あたしの事も”ハルネ”って呼んで? ちゃんと……名前を呼んで? ね?」
もしも、あたしを、好きなら……
「……ああ、”ハルネ”」
「うん……」
そう言ってオジさま――ヴァルさまは、あたしをそっと抱きしめ返してくれた。
「んふー」
嬉しくなって、あたしもまた、抱きしめ返す。
ヴァルさまの身体が、匂いが、あったかい。
なんでも受け止めてくれるのが嬉しくて、甘えさせてくれるのが心地よくて。
出来る事ならこのまま、お互いが、一つになりたかった。
ねぇ……今なら、今だったらいいよね?
もう一歩だけ踏み込んでも、いいよね?
もうちょっとだけ甘えても、いいよね?
背中に回していた左手を戻し、ヴァルさまの右手を取って、自分の手を重ねる。
そのまま指も絡ませる。
手袋ごしだけど……指の感触はしっかりと感じ取れた。
「ねぇ、ヴァルさま……」
「……なんだ」
新しい絆が欲しいんだ。
「あたしの事、今だけでいいから……”ルネ”って呼んで?」
ヴァルさまとだけの、特別な何かが欲しいの。
「……”ルネ”」
「うん」
「……ルネ」
「……はい」
ヴァルさまからだけの特別な呼び名。
あたしは、まるで猫みたいに、額を胸に擦りつける。
ふと、息を飲む音が聞こえた気がした。
その後、ふいに、髪に何かを押し付けられた感触が走った。
柔らかい何か。
位置的に、ヴァルさまのお顔。
あたしはそれが何かを深く考えるのは止めた。
ただただ、ヴァルさまの胸板に、顔を擦りつけるのに夢中だった。
……………
石畳を踏む車輪の振動は、どこまでも一定に響き渡る。
防音が施された馬車内にも、どこまでも一定に響き渡る。
その音と振動に合わせ、合わさった二つの身体も自然と揺れた。
到着するまで、それらが離れる事は無かった。
「……神よ……私は」
ヴァルグレイの呟きは、車輪の音に掻き消され、ハルネの耳には届かなかった。
ただ、彼の腕の力が少し強くなった。
それだけでハルネは、満ち足りたように小さく息を吐き、安心して身を預け続けた。
~ 第5章 ―完― ~


