リセリーナさんが、アルテノット男爵と思しき人に駆け寄る。
先ほどまでの淡々とした態度と違い、頬を上気させたその表情は、恋する乙女を思わせた。
アルテノット男爵の、肩とふくよかなお腹にそっと手を添えるリセリーナさん。
その柔らかな手つきは、長年連れ添った夫婦のように見えた。
しかし、当のアルテノット男爵は、なぜかその妻に向けて……
――疑惑の、訝しみの感情色を見せていた。
あたしはそんな二人の様子や感情よりも、この男爵さまの容姿に目が行っていた。
……この人が?
くすんだ栗毛色の髪は、所々クセっ毛が跳ねている。
自信の無さそうな弱気な顔に、仕立ては良さそうだけど、どこか着られた感じのするダークグリーンの礼装。
言葉を選ばずに言えば、「冴えない」。
そして、何よりもその、丸みを帯びた腹部と体型に、目を離せなかった。
絶世の美女と呼んで差し支えないリセリーナさんが、愛情を向ける相手とは思えない。
だけど……
――リセリーナさんの鮮やかな愛情色には一片の濁りも無い。
そこにあるのは、ただ、美しい妻に愛されている夫。
太っている夫を、愛している妻。
胸の奥で、ピシリと何かにヒビが入る音がした。
あたしの中の、何かが砕けて使えなくなったのが分かった。
それが何なのかは、今は分からない。
けれど、今目の前に、あたしの理解できないモノが存在している。
それがひどく……怖かった。
「リ、リセリーナ……こ、ここで、何をしていたんだ!?」
妻と目を合わせられず、視線を泳がせながら疑問を口にするアルテノット男爵。
彼の言葉に対し、リセリーナさんの顔に喜色が浮かぶ。
「少し気分が悪くなって、ここで休んでいただけですの。 そちらのヴァルグレイ様に、介抱してもらっていたのです」
「えっ!?」
「…………」
その言葉に驚いて、思わず声を漏らしてしまったが、オジさまは何故か反論しなかった。
代わりに反論したのは……
「……そ、それは嘘だよ、リセリーナ。 ぼ、僕は、ゼオファルド卿を追ってここまで来たんだ。 そんなハズは、無いよ……」
さっきよりさらに悲痛な表情を見せるアルテノット男爵。
その表情を見て、リセリーナさんは一層満足そうに微笑んだ。
「あら、バレてしまいましたわ。 ウフフ」
何の悪びれも無く、そう口にするリセリーナさん。
躊躇いも、罪悪感もそこにはなく、感情色に揺らぎもなかった。
「……これだから恐ろしいのだ。 この女は」
そう呟いたオジさまの表情にも、苦々しいモノが混じっていた。
「そんな事よりも旦那様、例の用件はもう済みまして?」
もう、今の話はどうでもいいとばかりに、話を振るリセリーナさん。
「あ、ああ。 ちゃんとキミが言った通り、挨拶に、パ、パーティーの件も色んな人に伝えたよ」
「そう」
「こ、こういうのは苦手だけど、が、頑張ったよ」
アルテノット男爵の表情が緩む。
人付き合いが苦手と言うのは本当みたいだった。
彼から、褒めてほしいというオーラが滲み出る。
――パァン!
突然、乾いた音が響き渡る。
でも、その音の元凶はすぐに分かった。
「……ど、どうして」
そこには、引き攣って泣きそうな表情に変わったアルテノット男爵。
そして、彼の頬を張ったばかりのリセリーナさんの姿があった。
涙が滲み、痛々しく辛そうな表情に変わるアルテノット男爵。
それを見て、さらに満足そうな顔を見せるリセリーナさん。
「あら、ステキな顔よ。 愛しているわ、エドリック」
――ルビー色の感情色が、一層濃くなったような気がした。
「帰りましょう、旦那様」
涙を滲ませたままのアルテノット男爵と腕を組み、そのまま部屋を出て行こうとするリセリーナさん。
彼女は、呆気に取られているあたし達の方へ振り向くと……
「わたくし、彼の、困った顔が好きなんですの」
と、笑顔で言った。
……………
「そうそう、ハルネさん。 わたくし、アナタのことがとても気に入りました。 是非わたくし達のパーティーにも、いらして?」
最後にそう言い残し、アルテノット夫妻は部屋を後にしていった。
「はぁ~っ……」
大きな吐息が漏れた。
まるで、何かから解き放たれたかのように。
……正直、どっと疲れてしまった。
この短い時間に、色んな事があり過ぎて……何をどう考えたらいいか分からない。
……整理、したい。
「……大丈夫か。 ハルネ嬢」
その呼ばれ方に、喪失感のような、寂しさの風が胸に吹きこんだ。
……今は周りに誰もいないから、当たり前のハズなのに。
返事を返さないあたしの様子がおかしいと感じたのか。
オジさまはあたしの目の前にしゃがみこみ、目線を合わせてくれた。
「……無理もない、ヤツの毒気に当てられてはな」
そうじゃないんだけど、それもある。
「オ……ヴァルさまは、リセリーナさんの事を知っているのね?」
「……ああ、リセリーナ・オルヴェリス公爵令嬢。 今は「元」か。 ……結婚を挟んで、もしやと期待したが、性根は露ほども変わらないようだ」
オジさまは嫌悪感たっぷりに、そう吐き捨てる。
オジさまが女性嫌いって色んな人から聞いた。
だけれども、あの人相手では女性嫌いがどうのというレベルでは無い気がする。
リセリーナさんからは、もっとなんだか……人として性質の異なる何かを感じた。
「……この、ドレスの染みもヤツのせいでは無いのだな?」
「え? えっと、あの……これは…………その」
まだ頭が混乱しているせいか、うまく言葉が出てこない。
ただ素直に言えばいいんだ。
「あははっ! ちょっとお嬢様方にちょっかい掛けられちゃってさ!」って。
普段なら言えたはずだった。
なぜだか分からないけど、今は、言えなかった。
――オジさまに迷惑をかけちゃダメだ!
そんな焦燥ばかりが前に出て、言葉が詰まって出てこない。
絞り出すように出てきたのは……
「…………帰りたい」
そんな……ひどく、弱気な言葉だった。
オジさまは、あたしの呟きを耳にして、痛々しい表情を滲ませた。
「……ああ、もう用は済んだ。 帰ろう」
「あっ……違うの! 大丈夫だよ! あたしはまだ……!」
すぐに自分が口に出した言葉を後悔した。
摩耗した心と頭は、言い訳の言葉すら紡いでくれなかった。
「いや、もう本当に目的は済んでいるんだ。 心配するな、大丈夫だ」
「だって……」
「……いいか、落ち着いて、よく聞いてくれ」
オジさまは、気持ちの逸るあたしの肩に両手を置いて、優しく説き伏せるように言う。
「……キミの役目はただ一つ。 私と共に入場し、私が自由に動ける状況を作る事。 それはもう十分だ。 キミはすでに役目を果たしているんだ」
「でも……」
「さらに言えば、キミは調査対象である男爵の妻と接触し、目的も引き出せた。 これは役目を超えたお手柄だ、ハルネ嬢。 本当によくやった。 もう、十分だ」
「…………」
「アルテノット夫妻の確認も済んだ。 むしろ、もう引き上げ時だ」
「うん……」
「……そうか。 よかった」
オジさまにしては饒舌な言葉を聞いて、あたしは少しだけ安心を取り戻した。
立ち上がりざま、頭をポンと撫でてくれた。
髪が崩れないよう、うんと優しく……
その優しさに、また泣きそうになった。
さっき言われた、「愛する妻」という言葉が、耳の奥で再び揺れた。
アレは本心だったの?
あの場を引かないための口実?
ウソとは思えない。
けど、ホントだと確証も持てない。
あたしなんかが……という言葉が出そうになる。
その時、リセリーナさんの愛情色と、ふくよかなアルテノット男爵の姿が浮かんだ。
太ってても、あんなに強い愛情を抱いてくれる。
じゃあ、今まであたしが悩んで来たことは……?
考えるとまた心が苦しくなって、思わず胸のあたりを握りしめた。
そんなあたしの姿が痛々しく見えてしまったのか。
オジさまは、傍で、じっと待っていてくれた。
その表情がすごく痛ましく見えて、それが辛くて……なぜだか嬉しかった。
少し経って、多少の落ち着きを取り戻せた。
顔を上げたあたしを見て、オジさまがそっと手を差し出す。
少し迷って、その手を取る。
そのまま、縋るようにオジさまの腕に寄りかかりながら……あたし達は、控えの小部屋を出た。
「愛情って……何なんだろう」
ふと呟いたその問いは、宙に浮かんだまま、静かな廊下に溶けていった。


