【第2部】 エモパレ ~舞踏会編~ ―偽装夫婦になった私が、オジさま副局長に本当に選ばれるまで―



 リセリーナさんが、アルテノット男爵と思しき人に駆け寄る。

 先ほどまでの淡々とした態度と違い、頬を上気させたその表情は、恋する乙女を思わせた。

 アルテノット男爵の、肩とふくよかなお腹にそっと手を添えるリセリーナさん。
 その柔らかな手つきは、長年連れ添った夫婦のように見えた。

 しかし、当のアルテノット男爵は、なぜかその妻に向けて……

――疑惑の、訝しみの感情色を見せていた。


 あたしはそんな二人の様子や感情よりも、この男爵さまの容姿に目が行っていた。

 ……この人が?

 くすんだ栗毛色の髪は、所々クセっ毛が跳ねている。
 自信の無さそうな弱気な顔に、仕立ては良さそうだけど、どこか着られた感じのするダークグリーンの礼装。

 言葉を選ばずに言えば、「冴えない」。

 そして、何よりもその、丸みを帯びた腹部と体型に、目を離せなかった。

 絶世の美女と呼んで差し支えないリセリーナさんが、愛情を向ける相手とは思えない。

 だけど……


――リセリーナさんの鮮やかな愛情色には一片の濁りも無い。


 そこにあるのは、ただ、美しい妻に愛されている夫。
 太っている夫を、愛している妻。

 胸の奥で、ピシリと何かにヒビが入る音がした。
 あたしの中の、何かが砕けて使えなくなったのが分かった。

 それが何なのかは、今は分からない。
 けれど、今目の前に、あたしの理解できないモノが存在している。


 それがひどく……怖かった。


「リ、リセリーナ……こ、ここで、何をしていたんだ!?」

 妻と目を合わせられず、視線を泳がせながら疑問を口にするアルテノット男爵。
 彼の言葉に対し、リセリーナさんの顔に喜色が浮かぶ。

「少し気分が悪くなって、ここで休んでいただけですの。 そちらのヴァルグレイ様に、介抱してもらっていたのです」
「えっ!?」
「…………」

 その言葉に驚いて、思わず声を漏らしてしまったが、オジさまは何故か反論しなかった。
 代わりに反論したのは……

「……そ、それは嘘だよ、リセリーナ。 ぼ、僕は、ゼオファルド卿を追ってここまで来たんだ。 そんなハズは、無いよ……」

 さっきよりさらに悲痛な表情を見せるアルテノット男爵。
 その表情を見て、リセリーナさんは一層満足そうに微笑んだ。

「あら、バレてしまいましたわ。 ウフフ」

 何の悪びれも無く、そう口にするリセリーナさん。
 躊躇いも、罪悪感もそこにはなく、感情色に揺らぎもなかった。

「……これだから恐ろしいのだ。 この女は」

 そう呟いたオジさまの表情にも、苦々しいモノが混じっていた。

「そんな事よりも旦那様、例の用件はもう済みまして?」

 もう、今の話はどうでもいいとばかりに、話を振るリセリーナさん。

「あ、ああ。 ちゃんとキミが言った通り、挨拶に、パ、パーティーの件も色んな人に伝えたよ」
「そう」
「こ、こういうのは苦手だけど、が、頑張ったよ」

 アルテノット男爵の表情が緩む。
 人付き合いが苦手と言うのは本当みたいだった。

 彼から、褒めてほしいというオーラが滲み出る。


――パァン!


 突然、乾いた音が響き渡る。

 でも、その音の元凶はすぐに分かった。

「……ど、どうして」

 そこには、引き攣って泣きそうな表情に変わったアルテノット男爵。

 そして、彼の頬を張ったばかりのリセリーナさんの姿があった。

 涙が滲み、痛々しく辛そうな表情に変わるアルテノット男爵。
 それを見て、さらに満足そうな顔を見せるリセリーナさん。

「あら、ステキな顔よ。 愛しているわ、エドリック」

――ルビー色の感情色が、一層濃くなったような気がした。

「帰りましょう、旦那様」

 涙を滲ませたままのアルテノット男爵と腕を組み、そのまま部屋を出て行こうとするリセリーナさん。
 彼女は、呆気に取られているあたし達の方へ振り向くと……


「わたくし、彼の、困った顔が好きなんですの」


 と、笑顔で言った。



……………



「そうそう、ハルネさん。 わたくし、アナタのことがとても気に入りました。 是非わたくし達のパーティーにも、いらして?」

 最後にそう言い残し、アルテノット夫妻は部屋を後にしていった。

「はぁ~っ……」

 大きな吐息が漏れた。
 まるで、何かから解き放たれたかのように。

 ……正直、どっと疲れてしまった。

 この短い時間に、色んな事があり過ぎて……何をどう考えたらいいか分からない。

 ……整理、したい。

「……大丈夫か。 ハルネ嬢」

 その呼ばれ方に、喪失感のような、寂しさの風が胸に吹きこんだ。
 ……今は周りに誰もいないから、当たり前のハズなのに。

 返事を返さないあたしの様子がおかしいと感じたのか。
 オジさまはあたしの目の前にしゃがみこみ、目線を合わせてくれた。

「……無理もない、ヤツの毒気に当てられてはな」

 そうじゃないんだけど、それもある。

「オ……ヴァルさまは、リセリーナさんの事を知っているのね?」
「……ああ、リセリーナ・オルヴェリス公爵令嬢。 今は「元」か。 ……結婚を挟んで、もしやと期待したが、性根は露ほども変わらないようだ」

 オジさまは嫌悪感たっぷりに、そう吐き捨てる。

 オジさまが女性嫌いって色んな人から聞いた。
 だけれども、あの人相手では女性嫌いがどうのというレベルでは無い気がする。

 リセリーナさんからは、もっとなんだか……人として性質の異なる何かを感じた。

「……この、ドレスの染みもヤツのせいでは無いのだな?」
「え? えっと、あの……これは…………その」

 まだ頭が混乱しているせいか、うまく言葉が出てこない。

 ただ素直に言えばいいんだ。
 「あははっ! ちょっとお嬢様方にちょっかい掛けられちゃってさ!」って。

 普段なら言えたはずだった。
 なぜだか分からないけど、今は、言えなかった。

――オジさまに迷惑をかけちゃダメだ!

 そんな焦燥ばかりが前に出て、言葉が詰まって出てこない。

 絞り出すように出てきたのは……


「…………帰りたい」


 そんな……ひどく、弱気な言葉だった。
 

 オジさまは、あたしの呟きを耳にして、痛々しい表情を滲ませた。

「……ああ、もう用は済んだ。 帰ろう」
「あっ……違うの! 大丈夫だよ! あたしはまだ……!」

 すぐに自分が口に出した言葉を後悔した。
 摩耗した心と頭は、言い訳の言葉すら紡いでくれなかった。

「いや、もう本当に目的は済んでいるんだ。 心配するな、大丈夫だ」
「だって……」
「……いいか、落ち着いて、よく聞いてくれ」

 オジさまは、気持ちの逸るあたしの肩に両手を置いて、優しく説き伏せるように言う。

「……キミの役目はただ一つ。 私と共に入場し、私が自由に動ける状況を作る事。 それはもう十分だ。 キミはすでに役目を果たしているんだ」
「でも……」

「さらに言えば、キミは調査対象である男爵の妻と接触し、目的も引き出せた。 これは役目を超えたお手柄だ、ハルネ嬢。 本当によくやった。 もう、十分だ」
「…………」

「アルテノット夫妻の確認も済んだ。 むしろ、もう引き上げ時だ」
「うん……」
「……そうか。 よかった」

 オジさまにしては饒舌な言葉を聞いて、あたしは少しだけ安心を取り戻した。

 立ち上がりざま、頭をポンと撫でてくれた。
 髪が崩れないよう、うんと優しく……

 その優しさに、また泣きそうになった。

 さっき言われた、「愛する妻」という言葉が、耳の奥で再び揺れた。

 アレは本心だったの?

 あの場を引かないための口実?
 ウソとは思えない。
 けど、ホントだと確証も持てない。

 あたしなんかが……という言葉が出そうになる。

 その時、リセリーナさんの愛情色と、ふくよかなアルテノット男爵の姿が浮かんだ。

 太ってても、あんなに強い愛情を抱いてくれる。
 じゃあ、今まであたしが悩んで来たことは……?

 考えるとまた心が苦しくなって、思わず胸のあたりを握りしめた。

 そんなあたしの姿が痛々しく見えてしまったのか。
 オジさまは、傍で、じっと待っていてくれた。

 その表情がすごく痛ましく見えて、それが辛くて……なぜだか嬉しかった。


 少し経って、多少の落ち着きを取り戻せた。

 顔を上げたあたしを見て、オジさまがそっと手を差し出す。

 少し迷って、その手を取る。

 そのまま、縋るようにオジさまの腕に寄りかかりながら……あたし達は、控えの小部屋を出た。


「愛情って……何なんだろう」


 ふと呟いたその問いは、宙に浮かんだまま、静かな廊下に溶けていった。