「アルテノット男爵夫人……」
え?
……この人が?
扉の向こうから、かすかな弦楽の旋律が滲んでくる。
控えの小部屋は、さっきまでと同じように静かだった。
でも、あたしの胸の内は、すでに落ち着きが無くなっていた。
あらためて彼女の感情色をじっと見てみる。
――強い好奇の感情色。 イエローというよりゴールドに近い。
あたしが名乗った「ゼオファルド」の名を気にしているようだった。
それ以外に感情色は視えない。
オジさまの情報によると、エドリック・アルテノット男爵自身が錬金術の知識を持っている。
だから、ノクセリウムを作った犯人で間違いないだろう、とは聞いていた。
……そうすると、奥さんは?
会った時から視えていた慈しみと心配の色は間違いなく本物。
しかも、うんと鮮やかな翠色だった。
あたしを慰めてくれて、気遣ってお茶まで入れてくれて……
悪意だって一切視えない。
ちょっと表情の変化に乏しい感じはする。
だけど、貴族令嬢たるもの、自分の機嫌はあまり周りには見せないんじゃないかな。
縦ロール令嬢は例外だったと信じたい。
うん。
この人は何も知らない可能性が高い。
「わたくしの顔が、どうかしたのかしら」
「え!? あ、その……すっごく気品に溢れた人だな、って思って!」
「ありがとう。 よく言われます」
凄い。
あたしの誉め言葉を真正面から受け止めるその姿勢。
これは生まれた時からの淑女で高貴なお貴族さまだ。
位は高くても優しそうな人だし、ちょっとお話を聞いてみようかな。
危ない事はなさそうだし。 ……何よりオジさまの役に立つのなら!
「えっと、リセリーナさま…………ううん、リセリーナさんとお呼びしても良いですか?」
親しくなるにはまず呼び名から!
「あら、素敵ね。 嬉しいわ。 では、わたくしもハルネさんとお呼びしますね」
ちょっと無礼かな?とは思ったけれど、リセリーナさんは快諾してくれた。
「リセリーナさんのドレス、純白でキラキラしてて、とってもおキレイですね!」
まずは褒めから。 会話の基本だ。
「ありがとう。 ハルネさんのドレスもステキですよ。 仕立てた方はアナタという人を良く理解していますのね。 とても似合っています」
「あ、ありがとうございます! リセリーナさんのドレスもよくお似合いです! やっぱり旦那さまに贈っていただいたんですか?」
隙あらば男爵の事を捻じ込んでみる。
……ちょっとわざとらしかったかな?
「いいえ、ドレスはわたくしが選んだものです。 このチョーカーは、夫に着けてもらった物ですが」
「旦那さまにですか? ステキですね! ……男爵さまのお名前を伺っても良いですか?」
「ええ。 エドリック・アルテノット男爵。 わたくしの夫ですわ」
意外にもあっさり答えてくれた。
エドリック・アルテノット男爵…………やっぱり、間違いない!
「リセリーナさんは……」
「何かしら」
「……旦那さまを、愛してらっしゃるんですか?」
何げなく聞いた質問だった。
さっき、あたしを慰めてくれた時の口ぶりが気になったから。
しかし、その軽い気持ちで聞いた質問から、思いもしないリアクションが返って来た。
――え? な、なに? あっつっ!
それは……言うなれば、熱い波。
アクティブにしていないエモパレの感知を貫通した、リセリーナさんの感情の温度だった。
「ええ、そうですね。 わたくしは、夫をとても愛しています」
――それは桃色を遥かに通り越した、まるでルビーのような鮮烈な愛情の色だった。
淡々とした口調に似合わない、強烈な感情。
実際の熱波では無いはずなのに、思わず腕で身体を庇ってしまった。
「どうかしましたか?」
「あ、あぁ! 何でもないんです! リセリーナさんが旦那さんを本当に愛しているんだなというのが、つ、伝わってきて……」
「そう」
「あ、あの、その旦那さんは、今どちらにいらっしゃるんですか?」
何とか気を持ち直して、質問を重ねる。
「夫は今、ホールの方で少しでも知己を得ようと努めています」
「へ、へぇ」
「今度、わたくしたちのお屋敷で、初めての社交パーティーを開きますのよ」
先ほど見せた激情なんかまるで無かったかのように……
穏やかな顔で答えてくれるリセリーナさん。
今も愛情の感情色は一切変わらず。
すごいその……我の強い方なのかも。
ちょっと怖い。
でも社交パーティーって……?
オジさまの話だと、アルテノット男爵は社交性が皆無みたいな話じゃなかったっけ?
「ハルネさんは……」
「え? あ! はい!」
「ゼオファルド卿とは、どのようにお知り合いになったのですか?」
「え? あっ、と、それは……」
「わたくしの知るゼオファルド卿は、女性嫌いで名を知られていたはずですが」
「女性嫌い……」
リオーネさんや侯爵さまも言ってたけど、そんなかなぁ?
「あた……私にはとっても優しいですよ?」
「面白い方ね。 ハルネさんって」
「? ありがとうございます。 オジ……ヴァルさまとは、私のお店が事件に巻き込まれた時に知り合って、それからその……私の方が…………好きになっちゃって」
「あら、ステキ。 令嬢方が好みそうなお話ですわね」
まさかその事件に貴方の旦那さまが関わっていましたよ、なんて言えない。
「そのゼオファルド卿は今どちらにいらして? こんなアナタを差し置いて」
リセリーナさんが、あたしのドレスの染みに視線を落とす。
「えっと、そのぉ、ヴァルさまは、用事があって……」
貴方の旦那様を調べてますよ、なんて言えない。
「薄情なものですね。 このような可愛らしい奥様を放っておくなんて」
言い方にちょっとトゲがあった。
やっぱりリセリーナさんはオジさまをよく知っている?
「あ、あはは! 私が悪いんです。 ちょっとお嬢様方に生意気な口を聞いてしまいましたから」
「ですが、衝動的に飲み物を掛けるとは、粗暴ですね」
「洗礼だって言ってました。 それくらい生意気だったんだと思います」
最初に水を避けちゃったのもあるし、アレが癇に障ったのだろう。
「あの方たちも、初めはそこまでする気は無いと言っていました」
「そんな事言ってたんですか?」
「ええ。 どうやら、感情が増幅するというのは確かなようですね」
――空気が変わった。
ん?
え?
……ちょっと理解できなかった。
話が繋がってなかった。
リセリーナさんは、今、何て言ったの?
「あの、リセリーナさん? 感情が増幅? って、どういう……」
「そのままの意味です。 ハルネさんまで曇らせてしまうとは思いませんでしたが……効果を確かめる良い機会にはなりました」
「効果? 確かめる?」
「ええ。 でも、聞いていたほどではありませんでしたね。 一人分を三人分で割ったからでしょうか」
ちょ、ちょっと待ってっ!
何の話をしているの!?
ずっとお互いに和やかにお話しているつもりだった。
リセリーナさんの表情も口調も、スンとしたまま一切変わらない。
このケーキ、思ったよりベリーの酸味が強いわね? みたいな言い方で……
まるで日常会話のように話しているけれど、これは……っ!?
「ちょ、ちょ……ちょっと待ってリセリーナさん!」
「なにかしら」
「えっとその、ハ、ハッキリ聞きますけど、あの令嬢たちに、く、薬を、盛ったんですか!?」
「ええ、そうね」
あたしの方も、いくら何でも聞き方が直接的過ぎたと思った。
けれど、リセリーナさんは、本当にあっさりその事を認めた。
全く悪びれる様子も無い。
「ど、どうして……な、なぜ、そんなことを?」
「なぜ、と申されても……ノクスミアの効果を確かめてみたくて」
ノクスミア? ……ノクセリウムじゃなくって?
名前と口ぶりからすると、きっと改造薬だ。
いや、今はそんな事よりも……!
「そんな……効果も怪しい薬を、ただ知りたいってだけで、飲ませたんですか!?」
「ええ」
「え? だ、だって、そんな怪しい薬を飲ませて……か、彼女たちがどうなるか考えなかったんですかっ!?」
「知りたかったものですから」
あたしも調薬に携わる者として、怪しい薬を勝手に飲ませるなんて絶対に許されない事……
ううん、そんなの関係ない。
人として……おかしい!
思えばずっと違和感があった。
リセリーナさんの話し方はやけに淡々としていて……
高貴なお嬢様ってそんな感じなのかなって思ってた。
でも違う。
さっき、旦那さんへの愛情の強さを見て分かった。
感情と話しぶりが、チグハグなんだ。
言葉をなぞっただけのような口ぶりで。
なのに、気持ちは確かにあって……
上手く言えないけど、そう、”ズレ”てる。
でも、そんな事よりも、今、あたしはとっても怖い。
何が怖いのかって……
「……」
この、何かあったかしら?と、とぼけたような表情をしているリセリーナさんの感情色には……
――これっぽっちも、悪意の感情色が視えなかった。
そこにあるのは興味と心配の色だけ。
この心配もきっと、令嬢たちに向けてじゃない。
今、様子のおかしいあたしに向けられたモノだ。
出会った時から、あたしに対して見せてくれている慈しみの感情は、紛れもなく本物。
でも、人を害してる自覚があって、ほんの欠片も悪意を抱かない人なんて、見た事なかった。
分からない。
この人がまるで理解できない。
こ、怖い……
「あら」
――リセリーナさんの感情色が、急激に興味のイエローゴールドに染まる。
「ハルネさん……アナタ」
リセリーナさんの鮮やかなルビー色の瞳が、不意に迫る。
思わず仰け反ったあたしの膝がテーブルにあたり、衝撃でカップがガチャリと鳴った。
「アナタ、異能持ちなのですね?」
「ひくっ!」
え!? ……なんで!?
「時折、瞳の色が揺らいでいるのが気になっていました。 それに、さきほどからわたくしを見る目が、まるで観察をしているようで」
「……うっ」
リセリーナさんの手が、あたしの頬にそっと添えられた。
顔が近づく。
紅い瞳と目が合って、その視線に縫い止められたように逸らせなくなった。
そして、彼女は……にっこりと……楽しそうな笑みを見せた。
まるで新しいおもちゃを見つけた時の子供のように。
「あら、やっぱり。 魔眼ですね。 ウフフ……ハルネさん、アナタのその魔眼は何が視えるのかしら。 感情? 心の声? あるいはわたくしの未来でしょうか。 ウフフフ」
「ひっ……」
「ステキな瞳ね。 とっても……面白いですわ、ハルネさん」
リセリーナさんの紅い瞳が、すぐ目の前にある。
っ、はぁ……はぁ……!
い、息が、うまく吸えない……!
その時。
鋭いノックが、小部屋の静けさを破った。
次の瞬間、返事を待たずに扉が開く。
「……失礼する! っ、ハルネ! やはりここにいたか!」
その声を聞いた瞬間、止まっていた呼吸が戻った。
胸が詰まって、目頭が一気に熱くなる。
離れていたのは、ほんの少しの間。
けれど、あたしはずっとずっと、その声を待っていた。
小部屋に勢いよく踏み込んで来たのは……
今宵のあたしの旦那様――ヴァルさまだった。


